十三橋市 練習スタジオ CAIN
土曜日。期末テストも終えて夏休みを待つばかりの土曜日。なんて素敵なのだろう。今日も美雪とスタジオで練習に次ぐ練習。美雪の自主練の量は多分相当量だ。一緒にスタジオに入る度に上達していることが判る。そんなこんなで一時間、みっちり練習して休憩時間と相成った訳だけれども。
「羽奈ちゃん、わたしいいこと思いついたんだ!」
「どうしたの急に」
藪から棒とはこのことだ。一体何について良いことを思いついたのか、美雪の口調からはまったく伺い知ることはできない。
「羽奈ちゃんさ、今度リンジくんと出かけることがあったら、日にち教えてよ」
「ぬ?な、なぜ……」
何のことかと思えば……。
え、や、何のことなの?何故それを美雪に教えなければならないの?
「別に羽奈ちゃんとリンジくんの邪魔はしないってば。その出かける前の日に、もしもゲーム内でれいと会えたら、明日もこの時間に遊ばない?って持ちかけてみるの」
「……なるほど」
れいの件だったのね。確かに、もしもリンジくんがれいならば、それを確かめ易い。リンジくんもれいも、偶然その日に用事が重なるということもあるだろうけれど、何度か重ねてやってみれば、流石に確証に近付けるかもしれない。
「でも一回で確定は中々できないから、何度かやった方が良いと思うけど」
「それは確かに良い案ね」
とはいうものの、リンジくんは勘も良いし多分だけど地頭も良い。もしもれいがリンジくんだったとしたら、何度目か、いや二回目あたりには気付くかもしれない。だけれど、もしもれいがリンジくんだったとして、それを私たちに隠す理由が見当たらない。私が勝手にれいを女の子だと思っていただけで、別にれいは性別を装っていた訳ではないし、後ろめたいことは何一つないはず……。
いや、ある。一つだけある。もしもれいがリンジくんならば、fanaやmyuを私と美雪だと知って、知らない振りをしている。今こうして私と美雪がもやもやしているのを、もしかしたら楽しんでいるかもしれないのだ。
「だから、羽奈ちゃんも、リンジくんといっぱい約束しなきゃダメなんだよ」
「う、あ……」
おっと、随分見えない角度からのカウンターフックが飛んできた。
「いっせきにちょう!」
とブイサインを創る美雪は可愛いけれども、本当に逞しくなった。……なってしまった。
いやこれはそもそも美雪が持っていた明るさなんじゃないかって最近思えるようになってきた。特に楓とも一緒に過ごすようになってから。元々内気な性格だった美雪にも、きっときょうだいには明るく接していたのだろうし、家族にすら、私と出会ったばかりの頃のようにおどおどしていたら、きっとこうは変われない。そもそも美雪が持っていた素養として、この明るさがあったんじゃないかと思う。
「や、そ、そうかも、だけど」
「わたしは羽奈ちゃんのこと、応援してるんだから!」
だから、明るくて張り切っている美雪を、私は全面的に肯定する。美雪が私とリンジくんの仲を応援してくれるのなら、やっぱり頑張らなくちゃって思う。
「ま、れいのことも気になるしね!」
とはいえ私のへそ曲がりも、これは香椎羽奈の素養なので、そう簡単に消し去ることもできないのだけれど。
「わたしも思ったけど、リンジくんと会って、話す機会あっても、急にリンジくんってれいなの?とはやっぱり訊けなかったなぁ」
「そうであろう」
反撃のチャンスである。私は美雪の柔らかくてすべすべしたほっぺをつまむ。しかも両方だ。
「あうぅっ」
ふはは、良く伸びる頬だ。柔らかい。楽しい。可愛い。そして我がターンはまだ終わらない。
「で、美雪は手紙の件どうなったの」
あれから数日。手紙を机の中に置いて、それは回収されたところまでは聞いた。
「あ、ああへんいあお……」
「あ、ごめんごめん」
つまんだままの美雪の頬から手を放す。
「まだ返事は来ないねー」
さすさす、と自分の頬をさすって美雪は言った。
「うーん、もう夏休みになっちゃうわね」
夏休み前に決着をつけたくはないのだろうか。私だったら、どうせ一度は告白したのだから、すぐにでも名前を書いてもう一度手紙を出し直すけれども。あ、いやそれは本人が名前を書いていないことに気付いていなければ無理か。
「でも仕方ないよ。それに、気持ちは嬉しいけど誰だかは判らないし、できれば練習集中したいし……」
「確かにせめて誰か判ってれば判断のしようもあるしね」
付き合うにしろ断るにしろ、誰だか判らなければそれもできない。
「うん。だから考えても答えが出ないことは考えないことにした!」
「切り替え上手!」
問題を一つ一つクリアして行くことで物事は進んで行くけれども、解決できない問題は、問題として扱ってはいけないと何かで読んだことがある気がする。美雪の言う通り、答えのないことに時間を使うのは浪費でしかない。
「上手な人は言わなくてもできるんだよきっと……」
それもそうかも。
「それな。ま、ともかく練習再開!回数回そう!」
美雪がやる気になってくれているし上達も早い。このペースなら八月本番には、美雪のコード伴奏も十分間に合うかもしれない。だとしたら私は色々とアレジを入れられるようになるから、それも考えてまとめなくちゃいけない。
「うん!」
色々と忙しいけれど、これが充実ということなら、私はこの忙しさは嫌いじゃない。
「はぃぃぃ。疲れたねー」
個人練習扱いで二時間を遣わせてくれるこのスタジオは有難い。通常なら二人で入っても一時間でしかやらせてくれないところが多い。リンジくんから聞いたことが本当ならば、私たちがいつも使わせてもらっているこのスタジオも、楽器店も、谷崎諒さんや水沢貴之さんの影響を受けて、私たちのような学生バンドや社会人バンドに便宜を図ってくれているのだろう。
「疲れたわねー。流石に声枯れ気味……」
二時間ぶっ続けで歌い続けたらそれは喉もおかしくなる。だけれど、今日の練習はとても充実した練習だった。
「でも今日は色々やった甲斐あった!」
「そうね、中々様になってきたし、コード弾きならあらかた及第点かも」
美雪のコードチェンジもかなり自然になってきていたし、コーラスもばっちり。あとは反復して、おかしなところや新たなアレンジの気付きを一つずつ潰して行く感じになるだろう。いわゆる最後の仕上げ……の、一歩手前かな。
「お、おぉ!やったね!羽奈ちゃんのお墨付き!」
ぐ、と嬉しそうにガッツポーズをする。可愛い奴め。
「今後も精進したまえ」
「御意!」
そう美雪が敬礼の真似をした途端。
「あ、あの!榑井さん!」
「はい?」
名前は知らない。だけれど、学校では確実に見たことがある。ははぁん。読めましたわよ。つまりこれは、このシチュエーションは……。
「……」
私の目は恐らくあれ、いわゆるエロ目になっていたかもしれないけれども、美雪を見て、つつ、と離れる。
「え、や、ちょ、羽奈ちゃん!」
幾らそう言うことに疎い美雪でも、流石にその彼の登場で察したようだ。
「やーだって、この場合どう考えたって……」
「あ、ご、ごめんね香椎さん」
彼はそう言って顔を赤らめた。うん、誰だっけな。私の名前を憶えているということは、い、いや流石に同じクラスになったことはない。人の名前を覚えるのは苦手だけれど、流石に去年クラスメイトだった人間ならば、名前と顔は……。一致しない人もいるな……。
「いえいえ」
ま、ともかくお邪魔虫は消えましょうかね。
「じゃあ、美雪。また明日ねぇ」
ひらひらと手を振って私はニヤニヤ顔を抑えきれないまま、歩き出した。
「あ、う、う、う、うん……」
どこに転んでも、今日から付き合うことになりましたということはあるまい。
喫茶TRANQUIL
楽器を持ったまま私は久しぶりにTRANQUILに来た。
「あらいらっしゃい羽奈ちゃん。今日は晩御飯?」
いつもと変わらぬ美魔女スマイルで晶子さんが迎えてくれた。少しだけ涼しい店内が心地良い。
「こんばんは晶子さん。ですです。……今日はカルボナーラにしようかなぁ」
テーブル席の奥にシンセを置かせてもらい、テーブル席に付く。すると、ちりんちりん、と涼しげな鈴の音が鳴った。私に次いで誰かが入ってきたのだろう。
「こんばんは」
聞き覚えのありまくりの声だ、急に心拍数が上がる。
「あらリンジくん、いらっしゃい」
「どもです」
ぺこりと会釈してこっちに近付いてくる。そりゃあ私に気付けばそうなるか。
「お、リ、Rinji、Nagatani」
「なんで」
ぶふ、っと吹き出してリンジくんが笑う。細い糸目がさらに細くなる。
「や、何でもない!」
しくったどころではない。冗談としか思えない挨拶をしてしまった。何たる不覚。
「ハナちゃんも来てたんだね」
「え、えぇ。今日はディナーを……と思いまして」
な、わ、私は何を……。
「え、えぇと、どこのお嬢さんかと思っちゃうね。シンセ持ってるってことは練習帰り?」
リンジくんの対応力には脱帽する思いだ。そ、それにしても何故私はこんなにパニクっているのか。
「う、うむ……。そうだが」
「歩ちゃんみたいになってるよ」
歩さんのように可愛く明るくいられたらそれはそれで良いことなのだけれど、緊張したり、気分が高揚したりすると武士になる歩さんのアレは、今の私のこの状態と同じなのだろうか。だとしたら、ちょっと、アレだなぁ。
「ちょっと待って。一個ずついこう、一個ずつ!」
自分自身を落ち着かせるように私は言う。
「そんなにいっぺんに沢山のこと訊いたかな……」
「まず注文」
ここは食事をする場だ。いや、飲み物を飲んで好き好きに過ごす場でもある。ともかく、晶子さんに注文をしなければ、晶子さんに利益が生まれない。というか、私たちのテーブルに縛り付けておくわけにはいかないではないか。
「あ、そうだね。相席、良い?」
「許可する」
「ありがとう」
苦笑交じりに言って、リンジくんは私の対面の席に座る。ぐぅ、まともに顔が見られない。
「なんかさっきから変よ、羽奈ちゃん」
「来た!助け舟」
思ったことを口に出してしまった。
「それ口に出しちゃダメなやつね」
更に苦笑してリンジくんがメニューに視線を落とす。自分自身が変なのは充分判っている。この間はそんなことなかったのに。
「違うの、男の人と二人とか、緊張するでしょ」
「えぇ、こないだそんなに緊張してなかったのに」
ズバリ言い当てられて頭を抱えたくなる衝動に駆られる。私だって別に変な対応をしたい訳じゃないのに。
「こないだ二人でどこか行ってきたのね、いいわねぇ」
「楽しかったです」
リンジくんの言葉に顔が熱くなるのを感じる。た、楽しかった。わ、私と一緒で、楽しかった?特に何もしなかったし、い、いや、結構話は出来たし、手だってつないだし、確かにそう思えば何もしなかった訳じゃあない。楓が言うようにいきなり肉体関係だなんてどうかしている。物事には順序というものがあるのだ。きちんとした順序手順を踏まないものは結果的に破綻するに決まってるんだから。まだ早すぎて腐ってやがる兵器だってある。
「親子丼を」
ちがうの。
「作れないこともないけど、お隣の日本蕎麦屋さんの方がおいしいわよ」
そりゃあそうですよね。失言です、失態です。そもそも私は何を食べようと思ってたんだっけ?あぁ、思い出した。
「まちがえた、カルボナーラで!」
ぐ、と晶子さんにサムズアップする。どう考えても私のキャラじゃない。い、いや判っているの。判っています。この間手をつないで歩いてしまったから、余計に、変に意識してしまう。このままだとリンジくんにも変な女だと……。いやそれはもう間違いなく思われてるわね。でもリンジくんを嫌な気分にさせたくない。
「じゃあ僕はボロネーゼとエビピラフ、ブレンドをアイスで。ハナちゃん飲み物は?」
やっぱり男の人って良く食べるんだなぁ。あ、考えてることがちょっとマトモ。や、これは反射ね。ちょっと一旦落ち着きたいけどどうしたら落ち着くのか見当もつかない。
「あ、わ、私はアールグレイを、アイスで」
「はぁい、かしこまりっ。ごゆっくり」
ともかくこれで、晶子さんをここに縛り付けなくて済むというもの。あとは私だ。どうするんだ香椎羽奈。リンジくんが好意的に受け取ってくれることに期待はしてはいけないと思うけれど、でもこのままでは私、また変なことを口走りそうだ。
「ハナちゃんはつまらなかった?こないだ」
な、なんてことを訊くんだ永谷リンジ!大体、仮につまらなかったとしてもそう聞かれて、堂々とつまらないなんて……。
(以前の私なら言えた……。かな)
太々しくて可愛げのない香椎羽奈なら、言えたかもしれない。出会ったばかりのリンジくんになら。でも時間は経つもので、それは誰にでも同じで、その経過した時間の中で、私は少し、変わってしまった。あ、いや、変化を嫌った訳ではないけれど、変わってしまったから、リンジくんの一挙手一投足になんだか変に反応してしまう。
「……」
私は大きく首を横に振ることで応えた。楽しかったかどうかとはまた別問題だ。ただ、リンジくんと二人でドライブに行けたことは嬉しかったし、あの海浜公園で真っ暗な海を目の前に、手をつないで歩いてくれたのは本当に嬉しかった。
「良かったぁ……。じゃ、また誘っていい?」
そ、そんなに嬉しそうに言われると、期待してしまう。私なんかが、と思わないように、思わないように、と思っているけれど、だけれど、こうして餌を目の前にぶら下げられるようなことをされてしまうと、浮足立ってしまう。
(そっか、浮足立ってるんだ……)
「う、うん」
だけれど、それでもやっぱり、リンジくんがこうして声をかけてくれるのは、素直に嬉しいと思う。
でも。
「リンジくんの、時間の邪魔にならない?」
「なるならそもそも声掛けないってば。何で僕が自分の邪魔をするようなことしなくちゃいけないの」
優しい笑顔でリンジくんは言う。それは、確かにそうかもしれないけれど。
「リンジくんが自己犠牲の人だから」
そう言い切ってやる。素直じゃないことは百も承知だけれど。
「ま、そうかもしれないね」
「勉強して、仕事して、バンドの練習、ギターの練習して、トレーニングして、正義の味か」
「わーぅ!」
リンジくんが少し声を高くした。そうでしたそうでした。ヒーローの正体は秘密でしたね。
「あ、ごめんごめん。でも、とにかく忙殺のリンジと二つ名がついてもおかしくないほどに忙しいはずでしょ、リンジくんは」
「いそがしいと充実してる感じ、ない?」
「するけど」
なるほど。真意がどこにあるかは別としても、リンジくんが私を誘うのは、充実した日々のうちの一つの行動、と言いたい訳ね。
「でしょ。だからかな。やれることは目一杯やっておきたいし、後悔は出来るならしたくないから」
期待、してもいいのかな。でも、待ってるだけじゃだめだよね。
「明日、樋村夕衣さん、ストリートやるらしいから、行ってみない?」
樋村夕衣さんか。確かにあの人の弾き語りはもっと見たいし聞きたい。とても勉強になるし、純粋に音楽としてもとても好きだ。
「七本槍中央公園ってことは、また羽原君のお見舞いも行かなきゃだね」
「はは、そうだね」
「じゃあ行こっか。美雪にも声かけてみるね」
二人で、という気持ちもあったのかもしれないけれど、樋村さんの弾き語りならきっとまた顔見知りが大勢揃っちゃうだろうし。それにこの間美雪がいなかった時のあの羽原君の表情が忘れられない。あ、あれ、そう言えば知らない内にパニックが収まってる……。普通に会話できてるじゃないか。良かった私!
「うん、宜しく」
「あらあら、またデートするの?」
先に飲み物を持ってきてくれた晶子さんがいやに楽しそうな笑顔で言う。
「そうでーす」
「ちょ、り、リンジくん!」
この間のは確かにそう言っても良かったかもしれないけれど、明日のは違うでしょう!
「はぁ、若いって良いわねぇ……」
銀色のトレーを胸に抱き、左手を頬に軽く当てて晶子さんが言う。
いや、若さの話なら貴方は魔女どころかバケモノ級ですけれどね、とも言えず、結局またわたしは赤面するばかりだった。
不覚。
第三二話:親子丼はお隣で 終り
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