生乾きの服のまま家路を辿って、私は自宅に帰った。
畦道を横に逸れて山沿いの道を進んでいくと、里山の麓に立つ自宅が見えてきた。緑の葉を茂らせた広葉樹の木陰に、藁葺きと赤黒い泥壁の小さく脆い小屋が佇んでいる。元はただの物置小屋なので、囲炉裏も風呂場も調理場もない。
畦道から自宅の敷地に入ると、家の中から女の苦痛に呻く声が聞こえてくる。私の母、ソニの声だ。またあそこが痛くて呻いているんだなと可哀想に思いながら、私は自宅の玄関の板戸を開ける。
玄関から陽の光が射し込むと、物が散乱した汚い土間が現れた。空の酒瓶、食器、脱ぎ捨てられた着物、下着、食べ残し、生ごみなどが床一面に放置されており、見るに耐えない。家の中には年中生ごみの腐ったような酷い悪臭が立ち込めていて、住み始めた頃は凄まじい臭いにいつもえずいていたが、今ではすっかり鼻が慣れて何も臭わない。汚い我が家を気に入って住み着いているらしいゴキブリや鼠が、素早く床を這っていった。
何度私が小屋の中を片付けても、母は構わずまたゴミだらけにするので諦めた。それがこの有様だ。私たちはゴミ捨て場のような室内で生活するはめになった。家に帰るたび片付けては汚されての繰り返しにうんざりさせられていたが、もうそれも慣れっこだった。
ゴミの中に埋もれるようにして着物姿の母が寝そべり、寝返りを打ちながら「痛い、痛い」と呻き声を上げていた。
母の腰辺りまで伸びた長い髪には白髪がたくさん混じっていて、顔の肌はくすみ死人のように真っ青だ。母はまだ三十ニ歳だが、白髪と青ざめた生気のない顔のせいで外見は五十ほど年上のおばあさんくらいに見える。
母はこちらを向いておかえりと言うこともなく、片手で股関を押さえてずっと痛そうに呻いていた。ただいまと言ってもどうせ返事をしてくれないので、私は無言のままゴミの溜まり場から埃の溜まった洗濯桶を取ってきて外に出る。洗濯桶で着物を洗った後、小屋のそばにある物干し竿にかけた。他に服がないので、これで今日は一日素っ裸生活だ。
下着一枚で一時間ほど勉強した後、畑仕事を始める。一日に少しでも雑草を抜いておかないと、あっという間に草原になって作物が駄目になるからだ。
母が小屋から出てきて畑に入り、畝の斜面に生えた雑草をしゃがんで取り始めた。下半身に負担のかかる作業をしているということは、股間の傷の痛みが収まったのだろう。
聞き取りの対象者は村人全員、つまり母も含まれる。無視されるかもしれないが一応聞き取り調査のことを説明しておこうと思い、私は畑に入って作物を跨ぎながら母のところまで進んで行った。
母のそばへ寄ると、私は言った。
「母さん、歴史の聞き取り調査隊の人が来るって。たぶんお母さんも対象者になると思う」
母は無視して雑草を摘み続ける。やっぱり話を聞いてくれないかと諦めた私は口を閉ざした。
「⋯⋯アッちゃん」
という母の呟きが背後から聞こえ、私は足を止める。
「アッちゃんのこと、言わなきゃだめかなぁ⋯⋯」
「母さんの好きにしたら」
母は何も答えずにまた雑草を摘み始めた。だが、またイタタと声を上げて股を着物の上から押さえ、転倒し呻き出す。痛みの発生源は、赤ちゃんの通る穴からおしりの穴辺りまで裂けた傷だ。私が生まれた時に再び裂けたという。その前に裂けたのは⋯⋯考えただけで気分が悪くなる。
傷は縫って十三年が経ち今では古傷になったはずなのだが、なぜか今でも時々鋭い痛みが走るのだという。それは、母が私の実父から花を散らされた時の心傷が原因ではないかと思っている。
母が昔私に語ってくれた話だが――ヤケ村虐殺事件があった日の数日後、虐殺から生き残った母は父たちに基地へ連れ去られた。
父たちはヤケ村とその周辺ある二つの村が共和国軍に協力していないか検閲していた十人規模の小部隊の一つだ。各村を検閲するこの小部隊は通称『分遺隊』と呼ばれ、この地域のあちこちに点在していた。分遺隊は人里離れた場所に基地を置き、定期的に自分たちの検閲対象の村へやって来る。ヤケ村の焼き討ちをした際には、各分遺隊が集合して約百人規模の作戦部隊になっていたらしい。
父たちの分遺隊基地に連れて行かれた後、母は暗くて狭い部屋に監禁された。その直後に不寝番を任された父を除く仲間たちは全員どこかへ行き、味方の軍に助けられるまでの三週間、母は父と一緒に基地にいたという。
不寝番をしていた父のことを母は『アッちゃん』と呼んでいる。兄ッちゃんという意味かもしれない。
父は母を殴ったり蹴ったり暴行を振るうことはなく、ご飯も多少くれたりした。父は一見物静かな青年だったらしいが、その印象に反して性欲は化け物並みだった。
父は母を用いて余りある性欲を発散した。監禁される間毎日のように犯され続けた母の心は次第に崩壊して精神の解離症状が起き、常に身体と心が切り離されたような状態になり、記憶も途切れ途切れになったという。
三週間後、味方の軍が分遺隊基地から母を救助し、父は捕虜にされてどこかへ連れて行かれた。母の股間は父に刃物で切られたらしく血がだらだらで、衛生兵に手当してもらい何とか塞がった。
手当の後、母は味方の軍に村へ返してもらった。私が六歳の時まで一緒に暮らしていて今は別居している義父と異父子兄妹は、母の帰りを喜んだ。
村に帰った後、母は呆けた顔でにやにやしながら『アッちゃん大好き、愛しているわ、殺さないで』とよく呟いたという。理由はよくわからないけれど「愛している」はたぶん命乞いのための言葉で、それを言い続けることによって再体験による恐怖を拭っていたのかもしれない。
しかし、母のその呟きが父との間に愛情が芽生えていた証拠だと勘違いしたという義父は激怒した。母の呟きの噂を訊いた村人たちも嫌悪感を抱いて、村全体で母を冷遇するようになったという。
義父は私達母子と暮らすのが苦痛になってきたのか、子供たち二人を連れて別の村へ勝手に引っ越して行ってしまった。それから母と物置小屋で貧しく暮らす日々が始まった。
皆は私を帝国兵と母が情事して生まれた子だと思っているらしいけれど、私は違うと確信している。義父曰く母は帰ってきた時既に股間に刃物で切られたような切り傷があったし、精神もおかしくなっていたという。そんな異常状態なのに『情事』があったなんていうのはおかしい。恐らく皆、母が汚された女になってしまったことを知って嫌悪感を覚え、正当化するために口実に情事があったと言ったのかもしれない。
家父長制社会では他の男に汚された女は旦那に捨てられるという理不尽な風習があると社会学の本で読んだことがあるし、だから義父は母と私を捨てたに違いない。
(二人だけでは畑仕事はきついわね⋯⋯ねぇ、母さん)
私は母の背を後ろから見つめる。学校から帰ってきても、おかえりの一言は今まで一度も聞いたことがない。抱きしめてくれることも、いじめられて水浸し、泥だらけになって帰ってきても心配してくれない。そばにいてもいない者のように無視する。
小さい頃は母親にかまってもらえず悔しくて寂しくて泣いてばかりだった。しかし十二歳になった今は、犯されて産まざるを得なかった穢らわしい私を好きになれないのは当然だと思えるようになったので、仕方ないと割り切ってかまってもらうことは諦めていた。
私も十二歳になったので、好きでもない奴に玩ばれた上に子供を産まなきゃいけなくなった母の絶望感、産まれた子を愛せない気持ちはだいたい想像できる。況してや愛せない子を自分一人で育てるなんて、とてもできないと思う。
私と一緒にいるのはとても耐え難いことだろうに、母はなぜか文句の何一つも言わずに共に居続けようとする。普通なら、私の顔を見るたび憎きアッちゃんを思い出して吐き気を催し、同居など絶対できないだろうに。私がもし母の立場だったら、たぶん娘の顔を見るのも嫌で里子に出していただろう。
どうして私なんかと同居しているのか知りたくて、私と一緒にいるの嫌でしょ? という疑問をぶつけたことは何度かあったが、母は無視するだけで何も答えてくれない。
母がイタタと呟いて腰裏を擦った。長時間一人で働いて腰が痛んでいるのだろう。家事はやらずとも、畑作業はやらないと生きていけないとわかっているのか毎日欠かさずやっている。心が壊れて廃人になってもまだ生きる気力のあるらしい母に、時々健気さを感じて心を打たれる時がある。
義父たちに捨てられてから六年間、乞食に等しい貧乏生活を送ってきた。しかし、その生活も明日で転機を迎えるかもしれない。聞き取り調査隊の人が来たら今までのことを全て話し、あわよくば父の情報も聞き出し、彼の居場所を突き止められたら⋯⋯。ただの妄想だった理想論が脳内で実体化して形になっていくのを感じた。
翌日の下校時の夕暮れ時、学校でバケツの水を頭から被されてずぶ濡れになった私は、独り畦道を歩いていた。
山の峰から顔を覗かせる太陽が光の筋を拡散させ、空と雲を淡い橙色に染めている。山から聞こえていた蝉の大合唱は、いつの間にか蜩の物悲しい響きに取って代わっていた。
夕日に照らされる畦道を歩きながらは、私は全身の神経をやすりで削られるような不快感をともなう焦りに苛まれていた。
「どうして⋯⋯何で⋯⋯」
学校で聞き取り調査隊の周る家の一覧が載った登録表が配られたが、なんとそこに私の家だけ載っていなかったのだ。恐らく村ぐるみでわざと省いたのかもしれない。これでは聞き取り調査隊は私の家に来ないではないか。
急に父殺しの理想論が不透明なものになっていく不安も加担して、私の心を爆発させようとしていた。
どうしようどうしようと焦っていると、畦道沿いの民家の敷地に黒光りする大きな塊が置かれているのが見え、思わず目が釘付けになる。黒曜石のような艶と輝きを持つそれは、よく見ると一台の黒い車だった。
農民に車を買えるほどの金などあるはずないので、おそらく外部から来た人間の物だろう。もしかすると、聞き取り調査隊があの民家に来ているのかもしれないと予感した私は、思わぬ好機にびくっと肩を震わせる。なんという偶然だろう。彼らを捕まえて話を聞いてもらおうじゃないかと嬉しさに心臓を高鳴らせながら、私は民家のそばに寄った。
民家の縁側に黒、茶色の制服を来た人々が集まり座っている。人々に左右を挟まれるようにして、左腕と両耳のないあのおばさんが両手で目を擦り、涙声で喋っていた。泣きじゃくるおばさんの肩を若い少年が慰めるように擦っている。
私は戸惑った。おばさんに危害を加えた鬼畜の子供である私が、彼女のそばに行ってはいけない。しかし聞き取り調査隊の人たちといち早く話をしなければ、父の情報を聞き出すせっかくの好機を失ってしまう。
気持ちが引っ張りだこになって暫し疼々していたが、父のことを聞きたい気持ちが押し勝り、私は衝動に駆られるまま民家の敷地まで近寄ってしまった。おばさんに姿を見られないよう注意しながらしゃがみ、四つん這いで進んで留められている車から半分顔を覗かせ、聞き取りに耳を澄ませる。
涙に声を震わせるおばさんの語りがはっきりと聞こえてきた。
「あいつらが私達を畑に並べて、機関銃で⋯⋯」
おばさんが語っているのは、十三年前の悲劇。思い出すだけでも身の張り裂けそうな思いをするだろうに、彼女は涙を拭い、懸命に言葉を搾り出しながら語っている。
辛そうに話すおばさんを見ていると罪悪感が沸いてきて、急に居心地が悪くなってきた。姿を見せるたびにおばさんの心を抉ってきた自分はここにいてはいけない、やっぱり引き返さなければ。そう思い直して踵を返そうとした時、突然「お前! 何でここにいるんだい!」というおばさんのがなり声が轟く。見つかった⋯⋯と焦って逃げ出そうとした時、頭に硬い何かがぶつかった。
足元で小石が落下し転がる音がする。おばさんが私に石を投げたのだ。
「あっち行け! このけだものの鬼畜野郎が! 人でなし! 死ね! 死ね!」
おばさんは怒り狂ったように罵声を飛ばした。周りにいた調査員たちが咎めるように声を上げる。
「奥さん! 何してるんですか! 子供に石投げるなんて!」
「あいつは鬼畜の子供だ! 私をこんな体にした奴らの子供なんだ! 畜生だよ! あいつを見るたび、私は⋯⋯」
語尾を震わせて、おばさんは泣き出した。罪悪感が胸の中で重石のようにずしっと重くなっていくような感覚に囚われ、私はその場に釘付けになったように立ち尽くす。
しばらくして一人の調査員が私のところまで駆け寄ってきて、お嬢ちゃん大丈夫? と訊いてきた。顔を上げると、まんまるで大きな黒目と茶色の短髪、茶色無地の平帽と背広が似合う十代前半くらいの少年がそばにいた。
今までかけられたことのない優しい声に違和感を覚えながら、私ははいと答える。少年は口元に微笑を浮かべて、よかったと言った。この人、何で私を見て笑顔を浮かべているんだろう。しかも彼の浮かべる笑顔は、皆がいつも向けてくる嘲笑とは違う感じの柔らかな笑みだ。急に少年が気持ち悪い虫を見て微笑みかける変人のように思えてきて気色悪さを感じ、彼の笑顔を見ていられなくなって私は目を背ける。
「怪我がなくてよかった」
私は少年の笑顔を見ていられずその場を離れようとする。するとその時、脳内で危機を知らせる警報が鳴った。ここで立ち去ったら父の情報を聞ける一生の好機を逃して、二度といじめられる人生から開放される機会を逃してしまうかもしれないと。少年を引き止めて無理を願いってでも聞き取りに協力を求めなければ、全てが水の泡になってしまうのではないだろうか。私は固唾を呑んで意を決し、後ろを振り返って少年に頼んだ。
「あのね⋯⋯お兄さん」
「何?」
「私のお話も聞いてくれる?」
「これから順番にみんなのお家を回るの。大丈夫、君のところにも行くから」
私は首を横に振った。
「違うの。私たちだけ調査対象から除外されちゃって⋯⋯」
少年はびっくりしたように微かに眉をひそめ、えっ? と呟いて制服の物入れから一枚の紙を取り出して広げる。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「ユミン・ナリメです」
少年は紙に書かれた文章に目を通した後、頷いた。
「ナリメさん⋯⋯確かにないね。あなた、ここの村人?」
「はい」
少年はハッとしたように目を丸くした後、申し訳なさそうに眉間に皺を寄せて謝った。
「ごめんなさい。きっと調査対象に漏れがあったんだね。こちらの失態です」
「いいえ、たぶんあなたがたの失敗ではないと思います」
「⋯⋯どうして?」
「さっきあのおばさんの言っていたこと、覚えてますか。私が鬼畜の子供だって」
何か嫌なものを察したように少年の顔が強張った。ああ、少しわかったのかなと苦笑しながら私は答える。
「そうですよ。だから、わざと私達は外されたんだと思います」
すると少年は私の両肩にそっと手を置き、まんまるな黒目を細め、真剣な眼差しでこちらを見た。
「お家に今、ご家族はいるかい?」
少年の怒っているようにも見える鋭い眼差しに気圧されながら、私は頷く。
「は、はい。母が、いますが」
「わかったよ。では、ちょっと調査長に一言言ってくるから」
少年は後ろを振り返って走り出し、民家のほうへ戻って調査員たちと話した。ごつい体型の背広姿のおじさん調査員が、少年に叱るような口調で言う。
「漏れがあっただぁ? 嘘つけ、これを見ろ。村役場から渡された住民一覧だ。村長や役員に漏れがないか何度も確認したんだぞ」
少年はちらちらと私のほうを見ながら、おじさんを説得する。
「あそこにいる子、漏れたナリメさんだよ、だからあのこのご家族からも話を⋯⋯」
おじさんは遠くから私を見ると、眉をひそめてこちらへ近づいてきた。
「君がナリメさんかね? この村の住民?」
「はい」
「家はどこだい?」
私は物置小屋にしか見えない自宅を指差した。指差す方へ顔を向けると、案の定おじさんは怪訝そうな表情を浮かべて苦笑交じりに訊く。
「物置小屋じゃないか。あそこに住んでいるだって?」
「はい」
冗談臭いなと言わんばかりにおじさんは笑った。このままじゃあ私が嘘つき扱いになるわと焦っていると、丁度物置小屋から母が出てきて、畑に入るのが見えた。子供がからかっていると思われて突っぱねられずに済んだ、と私は安堵する。
「今、物置小屋から出てきたあの人が私の母です」
おじさんは半信半疑というような声で言った。
「ほぉ⋯⋯しかし、なぜ物置小屋に?」
「うち、貧乏なので物置小屋で暮らしているんです」
おじさんの後ろで無言で突っ立っていた少年が、彼を諭すように言う。
「住民登録が無ければ地主から畑を貰えないよ。ナリメさんはここの村人だよ。やっぱり僕達の失態だ。責任を持って行こうよ」
「でも、何度も確認したんだぞ?」
「でも!」
少年が咎めるように声色を強めると、おじさんは呆れたように溜め息をついて渋々と返す。
「わかった、わかった。ったく、時間がないというのに、この⋯⋯」
おじさんは私を睨むように一瞥した後、民家のほうを向いて他の調査員たちに一声かけた。
「住民の対象者に漏れがあったらしい。行ってくる」
どうやら話を聞いてくれるらしいと私は心底ほっとして、胸を撫で下ろした。
民家を離れ、おじさんと少年と一緒に私は畦道を歩いた。自宅での道案内をする途中、おじさんが独り言を呟く。
「しかし、帝国人がこの村の村人との子供を産むとは余程の恐れ知らずだな。それか歴史知らずか」
少年が「やめなよ」と小声で制止すると、おじさんは鼻で笑い返す。
「だってそうだろう? この村の人らは今でも帝国人を鬼呼ばわりして忌み嫌っているんだぞ。そんなところでよくもまぁ、帝国人が呑気に暮らせるもんだな」
少年は呆れたように溜め息をつき、それ以上おじさんを注意することはしなかった。
自宅に着くと、私は畑で雑草を抜いている母を呼んだ。
「お母さん、調査員の人が来たよ」
母は無視した。おじさんが「時間がない」と焦っていたので無理矢理連れて来なければと思い、私は畑に入って母の腕を掴み、引っ張って調査員たちのところまで連れて行く。母は一切抵抗せず、ふらふらと覚束ない足取りで畝を越えながら歩いた。
「私の母のソニ・ナリメです」
おじさん、少年、私と母は畑の土手に座って聞き取りを行った。俯いて呆然としている母の隣に少年が座り、顔を覗き込むようにして訊く。
「ソニさん、聞き取りをさせて頂きます。思い出して話すのは辛いでしょうが、よろしくお願いします」
母は無言で頷いた。
「では、あの日のことを話して頂けますか」
母は聞いていないのか無視しているのか、無言を貫く。重い口を開くのを待つように、少年はじっと母の顔を見ていた。里山の蜩の鳴き声が静寂の中に響く。やがて母は口を開いたが、飛び出したのは滅茶苦茶な発言だった。
「アッちゃん⋯⋯あたしね、まだ痛いの。⋯⋯ここが痛いの。⋯⋯アッちゃん、⋯⋯ねぇ、痛いよ。ねぇ、アッちゃん⋯⋯あっはっはっはっ」
突然、母は腹を抱えて弾け飛ぶような笑い声を上げる。少年がびっくりしたように目を丸くし、身を仰け反らせた。
母はびくっと肩を震わせて小さく悲鳴を上げ、着物の裾の隙間から股間を押えて「痛い、痛い、痛い」と呻き声を上げる。少年が心配するように母の肩を掴んだ。
「だ、大丈夫ですか、お母さん⋯⋯」
母は息を切らしながら、絞るように続けた。
「アッちゃん、あたしに痛いことしかしてくれなかった」
「アッちゃん、とは誰です?」
会ったばかりの二人に父のことを説明をするのはさすがに気が引けて、私は答えられなかった。
「⋯⋯私に痛いことした人」
「痛いこと、とは?」
「私のお股、裂いたの。刃物で、すぱって。まだ痛いの」
「え⋯⋯刃物で?⋯⋯はぁ⋯⋯」
話はわからないけれど何かとてもおぞましい気配を感じたというように、少年の発した言葉の声色は沈んでいた。
「すんごく痛いこと、三週間くらい。血だらだらなのに、傷がぱっくり裂けてるのに、アッちゃんは痛いこと全然やめてくんなかった。声枯れるくらい叫んでも、やめてくんなかった。痛すぎて、気絶して、記憶あんまりない」
次々と出てくるえぐい発言に、おじさんと少年は唖然としたように黙り込む。私は母の受けた鬼畜の所業を知っているから、可哀想で胸が痛んだ。
ぶつぶつと一方的に呟くだけの母だったが、何かを思い出したようにぴくっと肩を弾ませて言った。
「でも、アッちゃん、なぜか知らんけどね、あたしに名前を教えてくれた。基地の壁に、本名書いてあたしに教えてくれた。『俺の名前覚えておけよ』って、かたことで言ってた。アッちゃんは、その名前のあだ名なの」
雷に撃たれたように衝撃が全身を貫き、私は思わず飛び上がるように立ち上がった。そんな話は今まで聞いたことがない。
壁に名前を書いた。つまり部隊の基地の壁に父の本名が書かれているかもしれない。本名が分かれば、父を捕まえた人たちの持っている資料などを調べて色んなことを知れるかもしれない。私は驚きと期待に声を震わせながら母に訊いた。
「お、お母さん⋯⋯それ、本当なの? アッちゃんの本名、壁に書いたの?」
母はこくりと頷いた。おじさんと少年は状況がよく掴めないと言わんばかりに呟く。
「は、話がよくわからんぞ」
「聞き取りは、やめにして⋯⋯」
混乱する二人の傍らで、私は興奮に震えていた。
ただの理想だった父殺しが、一気に現実のものになってきたような気がする。
私は少年のほうを向き、彼女にすがるように訊いた。
「お兄さん、教えて! アッちゃんのいた⋯⋯ヤケ村を検閲していた分遺隊の基地はどこにあるの?」
「えっ?」
「ねぇお願い、教えてくださいっ!」
「何故そんなことを訊く?」
おじさんがそう訊く傍ら、少年はなだめるように私に言った。
「分遺隊は色んな所にたくさんあるんだ。それにぼくたちこの村辺りに来るの初めてだし、情報不足だし、アッちゃんという人が所属していた基地は残念だけどわからないよ」
思わぬ壁にぶつかり、焦りによる熱が一気に冷めていくのを感じた。そういえば、ヤケ村を掃討したのは複数の分遺隊の集合体だ。その一つにアッちゃんが属していた。どこに属していたのかは残念ながら特定できていない。
「そんな!⋯⋯何とかなりませんか?」
「うるさい! こっちだって仕事で忙しいんだぞ!」
おじさんは突き放すように怒った。それでも諦めずに私は二人の前で土下座し、必死に懇願する。
「お願いします! お願いします! どうか、お願いしますっ!」
おじさんは苛立たしげに溜め息をつくと、立ち上がって土手を上がっていく。
「駄目なもんは駄目だっ!」
扉をガチャンと閉められ、周囲が真っ暗になるような気配が私を包む。
「ま、待ってよ、おじさ⋯⋯」
「行くぞ、チャグ!」
「は、はい⋯⋯」
チャグと呼ばれた少年は立ち上がると、私に申し訳なさそうに一言「ごめんね」と謝っておじさんと一緒に去っていってしまった。
「待って⋯⋯待って⋯⋯」
父の情報を聞く好機を失ってしまった。涙が頬を伝って止まらなくなる。
その傍らで、母が痛い、痛いと土手に寝転がって呻いている。彼女の苦しげな呻きを聞いていると、哀れみが煮えくり返るような憎しみに変わっていくのを感じた。
――すんごく痛いこと、三週間くらい。血だらだらなのに、傷がぱっくり裂けてるのに、アッちゃんは痛いこと全然やめてくんなかった。声枯れるくらい叫んでも、やめてくんなかった。痛すぎて、気絶して、記憶あんまりない。
やっぱり、やりたい⋯⋯と私は一人頷き、決意する。
狼羊の教えてくれた父殺しによる人生の開放を。
私と母がいじめられない人生を歩むために、母を虐げた父を殺すのだ。そうだ、やらなきゃ。このままこの村でいじめられ続けて人生を台無しにされてなるものか。私は胸に湧いてきた憎悪を研ぎ澄ませ、殺意の刃を作る。
理想論のまま終わらせてなるものか。
私の手で全てを現実のものにしてやる。
殺意の刃から滲み出る衝動に突き動かされるままに、私は畦道を全力で駆けていき、去っていったおじさんとチャグを探した。だが、彼らはどこにもいない。別の民家へ行ったのかもしれない。もう村から出ていってしまったのだろうかと焦る。殺意の刃が絶望感に塗り固められて薄れ去り、見つからなかったら一巻の終わりだという嘆きが胸に迫ってきて、目に涙が滲んできた。
おじさんたちを探し回ること数分。村の隅の民家に黒光りする車が目に止まって、命拾いした気分になった。民家の敷地のそばまで近寄り、家の中に耳を澄ますと話し声が聞こえてきた。おじさんたちが出てきてから懇願しても、また突っぱねられるだろう。こうなったら⋯⋯とあちこちに目を泳がせながら作戦を練っていると、車の荷台にふと目が止まる。
そうだ、あの中に隠れて調査員たちと遠くまで移動し、子供の私を簡単に追い払えないようにして、各分遺隊を連れ回ってくださいと頼めばおじさんたちは折れてくれるかもしれない。今出来る最善の案はそれしかないと私は頷き、車にそっと近づいて荷台の取っ手に指をかける。音を立てないように開けると、何も入っていない荷台の中に潜り込んで身を隠した。
一時間後、民家の引き戸の開く音と共に複数の足音が外に響く。調査員たちのお礼を述べる声が聞こえ、彼らの足音が車のほうへ向かってきた。荷台を開けられたらおしまいだ、と緊迫感に心臓を高鳴らせながら私は息を潜める。
運良く調査員たちは車の席に乗った。荷台の下から唸るような音が鳴り響いて、車が走り出す。私を乗せていることに誰も気づいていない。
座席側から荷台の壁を通して、おじさんの声が聞こえてきた。
「あの子の父親って⋯⋯」
「何?」
チャグが不思議そうに訊くと、おじさんは気まずそうに答えた。
「鬼畜の子供、分遺隊⋯⋯まさかな。そんなことありえるのか?」
おばさんが私に浴びせた『鬼畜の子供』発言や母の股間の傷から、おじさんの頭の中にはある程度私の父の人物像が浮かび上がってきているらしい。
もし頼み入って運良く分遺隊に連れて行ってもらった時には、おじさんたちに父のことを話さなければならなくなるのだろうか。そう思うと胸が痛んだ。
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