夜雨が窓を打ち雨音を響かせる。それはカチカチとうるさい時計の秒針と相まって、暗闇の中、柳葉の頭を覚醒させていた。どうにも寝付けない彼は、もう何度目かわからない寝返りをうってサイドテーブルからスマートフォンを取った。そして現在時刻を確認して溜め息を吐くところまでを、何度も何度も繰り返す。
「…………三時半か」
これは柳葉にとって、もういっそのこと朝まで起きていよう、と決心できる時刻ではなかった。こんなにも寝付けない原因は仕事で失敗したからではない。どうにも脳裏に焼き付いたまま離れない女性がいるのだ。この歳にもなって初恋を知った小学生のようだと柳葉は自嘲するが、恋愛ごとから遠ざかっていた彼にとっては嘲りを受けようが本音は喜ばしいことであった。
――柳葉雅人は〝悪意〟が見える。曰く、それは全てを食い尽くさんとして餌に集る〝鼠〟の群れ。
頭から離れないその女性には〝鼠〟一匹纏わりついていなかった。柳葉は初めて、この世に清廉潔白な人間がいたのだと知った。好きになっても良いのだろうか、と問答するまでもなく恋に落ちていた。
柳葉と女性の出会いは、ペットの葬儀だった。先日、愛猫のスピカが亡くなった際に葬儀を依頼した会社の人間が玄蛇称――柳葉が忘れられない人だ。
「げんじゃ、さん……初めて聞く名前です」
聞き慣れない珍名より、柳葉は彼女の美しさに驚いていた。彼女の周囲には〝鼠〟一匹いないのである。今までこんな人間を見たことがなかった柳葉の鼓動は急速に早まった。なんて内面の美しい素敵な女性なのだろうか。とは思いつつ、華奢な体と艶やかな黒髪に纏う笑顔、容姿の美しさに惹かれたというのも事実だ。柳葉にとって、彼女は身も心も魅力的な女性だったのである。
「苗字はよく聞き返されます。玄蛇は親族くらいしかいませんから」
「そうなんですね。名前は……称さん……綺麗な名前です」
「ありがとうございます。柳葉さんは、雅人さんですね。ご両親からの素敵な贈り物だと思います」
恥ずかしげもなく名前を褒めた称は、恥ずかしそうに感謝する柳葉を軽く受け流してスピカの前に立つ。そして、名前を問う。
「この子の名前は何と言うのですか?」
「……スピカです。青くて綺麗な目をしていたから」
「乙女座の星の名前ですね。スピカさん、良いお名前を貰いましたね。いっぱい、名前を呼んでもらえましたか?」
称は最早動かないスピカの亡骸に話しかけると、柔らかく微笑む。ああ葬儀会社の人って、こういうこともするんだな。柳葉はそう思って、その様子を眺めていた。そして称はスピカに、二、三、話しかけると柳葉に向き直って口を開く。
「柳葉さん、スピカさんは鼠を獲ると柳葉さんが喜んでくれたって誇らしげです」
彼女の口から発せられた〝鼠〟という言葉に柳葉は驚く。しかしすぐに、自分の想像しているものではないことに気がついた。スピカは鼠のおもちゃが好きだったのだ。思い出に浸る柳葉に対して称は続ける。
「最期の時まで一緒にいられて良かった、ありがとうって、そんな声が聞こえてきます」
「スピカ……」
「名残惜しいですが、そろそろお別れの時間です。行きましょうか」
スピカと保冷剤が入った箱を閉じて称は抱き上げる。その箱を受け取った柳葉は、彼女の運転する『三徳葬儀』の車に乗って火葬場へと向かった。
火葬は滞りなく終わった。
葬儀のオプションでつけた骨壷キーホルダーは思ったよりもしっかりした造りで、柳葉は付属するスピカの瞳と同じ色の鈴を指先で摘まんでころころと鳴らした。もう甘える様な鳴き声や喉を鳴らす音は聞こえないのだと実感してしまい、思わず表情が歪んでしまう。
「悲しみはそう簡単に癒えるものではありません。スピカさんを失った辛さは、貴方が愛情を注いだ証拠です。その痛みもまた、スピカさんとの思い出なのだと愛してあげてください」
称の言葉に小さく「はい」と言って頷いた柳葉は、自分に取り憑いていた悲しみの〝鼠〟が彼女の言葉で消え去ったような、そんな気がした。
柳葉は帰宅してすぐに玄蛇称の名前で検索した。するとあっさりSNSが見つかった。写真の中の彼女は今日のようなスーツではなく着物姿で、柳葉は思わず目を奪われた。そしていくつかの写真をブックマークしてスマートフォンに保存する。本人に通知が行くいいねをする勇気はなかった。
その後、少しして自分のストーカーじみた行為に嫌悪感を抱いた柳葉は、写真フォルダの中から先程保存したものを削除。そして改めて彼女のプロフィールを見る。
玄蛇家・巫女――玄蛇称。
亡くなられた大切な方の言葉をお届けします。
玄蛇称は死者と交信することができる巫の一族に生まれた女性だった。このことを知った柳葉は運命を感じた。他者の悪意である〝鼠〟が見える自分と死者と話すことができる彼女、この特別な力は好意を膨らませる理由付けをするのに充分な要素だった。柳葉は意を決してDMを送ることにする。そしてビジネスメールを書く時の様に、書き出しの言葉を検索し始めるのだった。
* *
DMから自分の能力についてと会って話したいと図々しい仕事依頼をした翌週、柳葉は郊外にある玄蛇家にいた。まるで旅館のように大きな建屋と美しく手入れされた日本庭園。そして、そんな庭の美しさが霞む程の清らかさの称に柳葉は息を呑んだ。ジッと見られていることに気がついた称は微笑みを浮かべて、赤で彩られた唇を開く。柳葉は濃い化粧というのが好きではなかったが、称の白い肌と長い黒髪には蠱惑的な赤がよく似合っていた。
「柳葉さん、こちら当主の玄蛇侑です」
「初めまして、柳葉さん。よろしくお願いします」
「柳葉雅人です。この度は不躾な願いに応えていただきありがとうございます。何卒よろしくお願いします」
実家の煎餅座布団とは比べものにならないふかふかの高級品に慣れない正座をして、柳葉は侑と向かい合った。緊張で口が渇くと、そこに丁度良く称がお茶を出してくれる。
「ありがとうございます」
称はその言葉に微笑んで会釈をすると、静かに襖を開け閉めしてその場を後にした。二人きりになった部屋のなかで、柳葉は目の前にいる侑に視線を移す。白髪交じりで、やや頬の痩けた老年の男だ。彼は銀縁眼鏡の奥で目を細めて、笑顔を絶やさずにいる。いかにも好好爺らしい優しい雰囲気が漂っていた。
「それで柳葉さんは、他人の悪感情が見えるのだとか」
「はい。まるで餌に集る鼠の様に見えます。僕は、そのまま〝鼠〟と呼んでいます」
「なるほど。では、私はどう見えていますか?」
「……少しだけ、〝鼠〟が見えます」
侑はいかにも好好爺だったが、その回りには〝鼠〟が数匹いた。それは彼が悪感情を抱いているということであるが、その内容まではわからない。わかるのは〝鼠〟の大きさだけである。それはまだ小さい。
「私の貴方に対する悪意は、称に関することです。娘が急に男を紹介するだなんて言うものですから、昨晩は理由も聞かず飲み過ぎました」
「すみません……」
「いえ、私の早とちりでしたから。それで柳葉さん、称はどうですか?」
「えっ? す、素敵な女性だと思います。お綺麗で、優しくて――」
「そうではなく、称に〝鼠〟は見えましたか?」
勘違いをしていた柳葉は羞恥に耳を赤くして、黙ったまま首を横に振る。すると侑は大きく溜め息を吐いた。それを自分に対するものだと思った柳葉はますます赤くなって、さらには俯いてしまう。
「……わかりました、柳葉さんは確かに特殊な感覚を持っているようですね。我々と遠くないのかもしれません。どうです、少し仕事を手伝っていただけませんか?」
「えっ?」
「無理強いはしませんが、貴方のお力、我々なら有用に扱うことができます」
侑はスッと目の前に資料を差し出す。玄蛇家のしている葬儀屋ではない仕事の物だった――死者との対話、悪霊払い。
「柳葉さん、どうですか?」
「ええと、僕がお力になれるのなら」
「わかりました。では、依頼主の情報をお渡しします」
笑顔の侑から柳葉は大量の資料を差し出される。嫌な予感がしたが今更どうすることもできず、柳葉はそれらを受け取り部屋から出ることしかできなかった。
それを小さく襖を開けて確認してから、称が部屋に入ってくる。彼女は溜め息と共に顔を顰めて侑に話しかけた。
「お父さん、あの人をどうするつもり?」
「〝鼠〟を喰らう蛇になってくれたら使えるだろう。そうしたら、お前の負担を減らせる」
「私は大丈夫だから……」
部屋を出て行く称の背中を見送って侑は溜め息を吐く。彼女の優しい性格は母親似だろう。だからこそ、これ以上母親に似て欲しくなかった。これ以上、悪意を取り込めばきっと心が壊れてしまうから――。
* *
依頼主は山間の村の村長、内容は悪霊払い。
就寝前、柳葉は侑から受け取った依頼の資料を読み進めていた。
「奥さんと子供を残して蒸発……それ、悪霊なのか?」
曰く、数年前から村に住み始めた植物学者の花田博士が悪霊となって村人――特に男に危害を及ぼしているとのことだった。花田博士は、妻の紫と娘の陽花を残し蒸発している。妻と娘の名前を合わせると紫陽花ということに気がついた柳葉は、花田博士をネットで検索する。案の定、紫陽花が専門の様だ。その流れで紫陽花について調べていると、有名な文言が引っかかった。
青い紫陽花の下には死体が埋まっている。
日本は酸性土壌だから青い紫陽花が多いのだと、面白みのない現実を知った柳葉はそろそろ眠ることにする。明日は朝から村に向けて車を走らせなければならない。久しぶりの遠出だった。
事前に称が連絡していたらしく、柳葉は村につくなり盛大なもてなしを受けた。時折、男達からは以前来た美人が良かったと愚痴を言われたが、女達からは概ね好評であった。
昼間からたらふく飲み食いした柳葉は腹ごなしに村を歩くことにする。正直なところ、柳葉はこの村が苦手だった。一歩足を踏み入れた瞬間から、肌が粟立つような気持ち悪さを感じていた。理由は明白、〝鼠〟が多すぎるのだ。都会と違い人口は少ない筈なのに、同等かそれ以上の数がいた。
そんな中、柳葉は〝鼠〟の群がる少女を見つけた。柳葉は少女を驚かさない様に、ゆっくりと声を掛けながら近付く。
「こんな所で何してるの?」
「……だぁれ?」
「柳葉雅人と言います。お仕事で来たんだ。君の名前は?」
「陽花」
名前を聞いた瞬間、この数の〝鼠〟に納得した。この少女は、村を苦しめている原因とされている花田博士の娘だ。他の村民達から悪感情を向けられるのも仕方ないだろう。しかし不思議なもので、陽花は〝鼠〟に集られてはいるものの悪感情に飲み込まれてはいなかった。まるで、何かに守られているようだ。そこで、柳葉は彼女の首に掛かる紐に気がつく。
「陽花ちゃん、それ何? ネックレス?」
「うん。お父さんから貰ったの」
服の中から取りだしたペンダントトップはレジンで固められた紫陽花だった。それが露わになると、〝鼠〟が一歩二歩後退る。陽花がこのペンダントに守られていると確信した柳葉は、それと同時に花田博士に疑問を抱く。蒸発するような男が、娘にこんな愛情を残せるものか。
「陽花ちゃん、お父さんがどこに行ったか知ってる?」
「お父さん紫陽花見に行くって言って、帰って来てないの……」
「そっか。嫌なこと聞いてごめんね」
「ううん、嫌じゃないよ。お父さん、帰って来てくれるもん!」
「そうだね。お父さんが帰ってくるまで良い子にしてるんだよ?」
「うん」
陽花の頭を撫でて柳葉は立ち上がる。紫陽花の咲いている場所を確認しに行こうと思ったのだ。それで何になるかはわからないが、何も行動しないのは気が引けた。
「陽花ちゃん、紫陽花ってどこに咲いてるかわかる?」
「うん。でも危ないから行っちゃだめって」
「そうなんだ。もしかして、山の方?」
「うん」
「わかった。ありがとうね」
柳葉は陽花と別れ、そのまま一直線に山の麓へと向かう。ここ最近雨が降ったという話は聞かないし、問題はないだろう。
麓には紫陽花が綺麗に咲き誇っていた。ピンクの中に、一部青色。ピンクということはアルカリ性の土壌なのだと柳葉は昨日得た知識を思い返す。青が酸性、あそこが死体が埋まっているかもしれない場所。くだらない考えを横に置いて、柳葉はスマートフォンで写真を撮る。こんな数の紫陽花はなかなかお目にかかれない。
「――おや柳葉さん、こんな所で何をなさっているんですか?」
「あ、村長。いえ、花田博士はどこに行ったのかと思いまして」
「こ、こんな所にいる訳がない! あの男は家族を捨てて出て行ったんです!」
「あんなに可愛いお子さんがいるのに、信じられませんね」
「紫さんも美人で、あんな男には勿体ない!」
「そうなんですか。後で奥様の紫さんにも話を伺ってみます。今日は何か異変、ありましたか?」
村長と話をしながら村の中心部へと戻る。こんなに綺麗な場所だから、村長も息抜きに見に来るのだろう。それならば村おこしに利用してはどうか? と柳葉が提案すると、それは無理なのだと村長は一刀両断した。ここには悪い物が眠っているのだと。しかし柳葉が見る限り、〝鼠〟は殆どいなかった。
夕暮れ時になると、柳葉は陽花を探し出して家に向かった。理由はもちろん、紫から話を聞くためだ。陽花を出迎える紫は確かに村長の言う通り綺麗な人だった。彼女は柳葉が頭を下げると、慌てて彼を家の中に引き入れる。
「旦那に逃げられた挙げ句、外の若い男まで連れ込むだなんてね」
扉が閉まる直前、村の女達の言葉は柳葉の耳にも届いていた。
「事前に連絡もなく来てしまい、すみません」
「いえ……どうかお食事、召し上がって行ってください」
「すみません。ご馳走になります」
柳葉は頭を下げて紫の後に続いた。
紫の分だったであろう夕食を平らげた柳葉は、テレビに夢中になる陽花から離れて紫と二人で話をしていた。内容は花田博士について。彼が本当はどこに行ったのか、村人へ危害を加えるようなことをするような人間だったのか? この二つが中心となる話題だった。
「僕には、どうもご主人が蒸発したとは思えないんです」
「それは……どうしてですか?」
「陽花ちゃんのペンダントは悪意を遠ざけています。貴方も、周囲の悪意が食いつくことができていない。ご主人の思いがそうさせると思っているのですが……」
「……陽花は、そうかもしれません。でも私は」
「紫さんもきっと愛されています。それでご主人のことなのですが、フィールドワーク中に遭難もあるんじゃないかと思うんです」
「まだ、生きていると思いますか?」
「…………それは、すみません。ただ、お二人はご主人に守られています。ご主人が悪いものになったとは考えにくいです」
「そうですか……」
「ご主人を愛しているのなら、信じてあげてください」
「……はい」
これで良いのだと柳葉は満足げに笑うが、これで事件解決ではないことも理解していた。住民に嫌がらせの様な危害が及んでいるのは現実のことで、これは悪鬼ではない純粋な〝悪意〟だ。誰が誰を恨んでいるか理由も何もわからない。ただ、人為的な物だと柳葉は確信していた。
「ねえ、柳葉さん!」
夕食の片付けで席を立った紫に代わり、陽花が柳葉の元にやってくる。少女は小さな手で柳葉を引っ張ると、庭の見える窓辺まで行って紫陽花を指差した。
「お家に紫陽花があるんだね」
「ねえねえ、この下にお父さんいると思う? 前に他の家の子に言われたの。紫陽花の下にいるって」
柳葉は絶句して何も言なかった。ただ不安げに見上げてくる陽花の頭を撫でて、庭の青い紫陽花を見つめることしかできない。そして夜の暗がりの中、紫陽花に良く似合う雨が降り出した。
陽花の駄々っ子と、雨の中公民館へ戻る面倒臭さから、柳葉は花田家に泊まることになっていた。小さな客間に布団を敷いて貰った柳葉は、借りた充電器にスマートフォンを繋いで目蓋を下ろす。そうして思い浮かんだのは称の姿。想像の中の彼女は優しく微笑んで労をねぎらってくれる。そして、優しく体に触れて――。
「え?」
想像の中の称とプラトニックな関係を続ける柳葉は、内腿をなで上げる感覚に覚醒する。付き合う前の称がこんなことをする訳がない。そう思って影を突き飛ばせば、ぞわっと嫌な気がした。
「あっ……」
「ゆ、紫さん!? やめてください!」
柳葉は紫を突き飛ばした両手の気持ち悪さを拭うために、布団に手のひらをこすりつける。夕食の時は勘違いをしていた。彼女に、陽花のペンダントの様なものはない。彼女に小さな〝鼠〟が寄りつかないのは、彼女自身が大きすぎる悪感情の塊だからだ。
「どうして……」
「どうしてって、貴方、結婚して子供もいるでしょう!」
「……私、お相手しなくちゃ」
「馬鹿なこと言わないでください! 陽花ちゃんの所に戻ってあげてください」
部屋から紫を追い出した柳葉は、大きな溜め息を吐く。
「お相手……」
そう呟いた所で、柳葉の疲労はピークに達した。そのまま布団に倒れ込んだ柳葉は、称に一つメッセージを入れるとそのまま泥のように眠った。
* *
翌朝、柳葉は山の麓に来ていた。陽花の言葉が耳から離れなかったのだ。都合良く青い、死体の埋まっていそうな紫陽花が目の前にある。柳葉は花田家の倉庫からシャベルを拝借してきていた。
「――柳葉さん、ここにいましたか…………な、何をやっているんだ!」
「ああ村長、少し掘らせていただきたいのですが」
「この紫陽花畑をめちゃくちゃにしないでいただきたい! だいたい貴方に頼んだ仕事は、花田の呪いを解くことです!」
「もしかして、ここに花田博士が埋まっているのではないかと思ったのですが。青い紫陽花の下には、死体が埋まっているそうなんです」
「何を馬鹿なことを。そんなことより貴方にお客が来てます。玄蛇さんという女性です。まったく、自分の手に負えないなら最初から彼女に――」
「安心してください。今日中には片付きますから」
柳葉はそう言うと、その場にシャベルを放置したまま立ち去る。村長は溜め息を吐いてそれを拾い上げたが、柳葉の後を追うことはしなかった。
公民館の前で称を見つけた柳葉は笑顔で駆け寄る。こういった仕事の時の制服みたいなものなのだろう、称はシンプルな着物姿だった。柳葉が昨晩送ったメッセージはこの村に来て欲しいというもので、称は不安げに柳葉を見上げる。
「柳葉さん、大丈夫でしたか? この村は少し、貴方には荷が重いかと思っていました……」
「大丈夫ですよ。今日中になんとかして見せます。ですが僕ではどうにもならないことがあるので、それを称さんにお願いしたくて」
「死者との対話、ですか」
「はい。夜まで時間があるので、それまではゆっくりしましょう。称さん、子供は好きですか?」
「え? ええ、まあ」
それでは行きましょうと柳葉が歩き出す後ろから称も続く。その背中が意外と広いことに気がついて、称は何となく目を逸らす。称は柳葉の様に感情を見ることはできなかったが、自分に向けられた好意に気がつかない程鈍感では無かった。だからこそ、彼を男として意識してしまうと恥ずかしくなってしまう。
「柳葉さん、どちらに向かわれるのですか?」
「花田博士のご家族の元へ行きます。陽花ちゃんに会ったことはありますか?」
「娘さんですよね? ありますが……」
「では、よろしくお願いします。陽花ちゃーん! 遊びに来たよ! 友達も連れてきたから!」
花田の表札の前で柳葉が声を掛けると、ガラガラと扉が勢いよく開いて中から陽花が飛び出してくる。少女は柳葉に嬉しそうな顔を見せると、その手を引いて家の中に引き込む。その側にいた称は戸惑い、奥に消えようとする二人を呼び止める。
「待って。私も一緒に遊んでも良い?」
「…………」
「陽花ちゃん、称さんも一緒で良いでしょ?」
「……うん」
称には陽花が自分を嫌がっていることが何となくわかった。以前訪問した時になかったことを考えると、恐らくこれは嫉妬の類いだ。柳葉との時間を奪われることに対する不快感。この感情も柳葉は〝鼠〟として見ているのだろうか? 称は自分の体質に安心した。称の精神は、全てを蛇のように飲み込む。周囲に〝鼠〟がいないのは、彼女が全ての害意を食しているからに過ぎない。
「いらっしゃい、柳葉さん。あら、そちらの方は確か――」
最早〝鼠〟と呼べる大きさでなくなってしまった紫を食することは精神的な負担が大きい。よって侑は柳葉にこの仕事を回した。そのことを知らずに柳葉は陽花とじゃれ合っており、称は思わず痛む眉間に手をやった。
「玄蛇さん、でしたよね。大丈夫ですか? 温かいお茶を煎れるので、ゆっくり中で休んでください。体は大事になさって。この前いらした時も吐き気が酷いみたいでしたから、今回柳葉さんが来たのはそういうことなんだって……お腹はまだ小さいんですね」
紫と称の会話に耳をそばだてていた柳葉が固まる。今まで彼女が結婚しているかどうかなんて考えたことがなかった。左手の薬指に指輪が無かったからだ。年齢を考えると、していたとしても珍しくない。頭の中でぐるぐると考えを巡らせていた柳葉は、称が妊娠を否定する言葉を聞き取ることができなかった。
柳葉は落ち着かない気持ちを抱えたまま、当初の予定通りに依頼の解決へと向かう。陽花を称に任せて、自分は少し離れた所で紫と向き合った。
「紫さん、ご主人の呪いをどう思いますか?」
「……主人の呪いではありません。そういうことをする人ではありませんから」
「では、貴方の恨みはどうですか?」
「えっ?」
「なぜ、この村にい続けるのですか? とても居心地が良いようには思えません」
「それは、主人がいる場所ですから……」
「ご主人はこの村にいるんですね?」
柳葉の台詞に、紫は言葉のあやだと溜め息を吐く。三人で過ごしたこの村だと、見守ってくれているような気がするのだと。
「僕はいると思います」
「えっ?」
「今晩、会いに行きます。それで、呪いを止めるように説得します。貴方が言うような優しいご主人なら、きっと止めてくれる筈です。貴方と陽花ちゃんを犯罪者の家族にしたくないから」
俯いて湯飲みに視線を落とす紫を放って、柳葉は立ち上がり称を呼ぶ。夜までやることはないが、ここにいるのも気疲れするだろう。子供の嫉妬は可愛らしいものだが、それを受け続ける称にとってどうかはわからない。柳葉は陽花の嫉妬の〝鼠〟を取り込み続ける称を花田家から連れ出して、公民館へと向かった。夜までは誰からの感情も向かない、楽な空間にいさせてあげよう。そう思ったところで、自分と一緒ははどうなのだろうかと立ち止まる。紫の話によると、彼女は子供を身ごもっている。
「あの、称さん……僕のこと、迷惑なら言ってください」
「柳葉さんには感謝していますよ。こんなことを引き受けてくださって」
「称さんの体調を気にして、この仕事は俺に回ってきたんですよね」
「……すみません。わかっていたんですね」
柳葉は称のことを妊婦だと思い込んでいたし、称は柳葉が自分のことを〝鼠〟を食べ過ぎて体調が悪いのだと気付いたと思い込んでいる。すれ違いはあるものの気まずさを感じたのはお互い一緒で、柳葉は公民館の一室に称を残すと外へ出た。
* *
月が一番高くなった頃、柳葉は称を迎えに来た。その時、部屋にカップ麺のゴミがあるのを見て柳葉は自分が何も食べていなかったことを思い出す。そして、彼女にこんな食事をさせてしまったことを悔いた。
「すみません、カップ麺なんて……」
「これ、美味しいですよ。一人の時はよく食べていました」
「今は一人じゃないでしょう?」
「そうですね。いつも家族分を作るのは少し大変です」
父親と姉弟のことを話す称だが、柳葉はそれを彼女の夫とお腹の子だと思い込んでいる。
「柳葉さんは何を食べたんですか?」
「実は忘れてて……」
「では、帰りに焼き鳥屋さんに行きましょう。この村に来るまでの間に見つけたんです。仕事、そろそろ終わらせましょうか」
「はい」
公民館を出た二人は、暗がりの中をスマートフォンのライトで照らして歩く。向かうのは山の麓、紫陽花の園。そこで、花田博士に会うために――。
踏み倒された紫陽花と掘り返された土、その中に花田博士はいた。シャベルを持って肩で息をするのは村長。柳葉が想像していた通りの光景だった。村長からは止めどなく〝鼠〟が溢れ出している。
「村長、やっぱり花田博士はここにいたじゃないですか」
「ち、違う! これはたまたま!」
柳葉と称に向かって〝鼠〟が群がってくる。その〝鼠〟は称の中に次々と飲み込まれて行く。称は臓腑を食い荒らされるような気持ち悪さを感じながら、花田博士を見つめた。最早、骨が見えている。魂の宿った肉体は既に朽ちており、話を聞くことはできない。ただ、村長がこの事件に関与していることは明白だ。
「村長、どういうことですか?」
「私は何も知らない! 青い紫陽花の下には死体が埋まっていると、その男が言うから!」
「それを間に受けて掘ったのですね。そして、たまたまその死体を見つけたと」
「まさか花田さんが出てくるだなんて思ってなかった!」
「よくその状態で花田さんだとお判りになりましたね」
「それはっ」
観念した村長はシャベルを引き摺って、柳葉と称の元へやってくる。これでこの事件は一件落着だと、柳葉は胸を撫で下ろす。
「殺すつもりは無かったんだ。あの男が、言うことを聞かなかったから!」
「揉め事があったのですね」
「あの男が、嫁を、村長の私に献上しようとしなかった! 目上の人間に腹を試させるのは、この村の習わしだと言うのに!」
「…………」
称は歪んだ表情を元に戻すことができなかった。柳葉はと言うと、花田家に泊まった時のことを思い出していた。相手をしないといけない、というのはこのことか。そろそろ、彼女も花田博士に会いに来るだろう。そう考えていて、一瞬反応が遅れた。
「ぐっ――」
隣でドサッと崩れ落ちる音――称がお腹を押さえて蹲っている。そして彼女にシャベルを振り下ろそうとする村長に気がついて、柳葉は慌てて突進した。そして村長が取り落としたシャベルを蹴り飛ばして、馬乗りになって頭を地面に押しつける。
「どけっ! 私から離れろ、インチキ霊媒師!!」
村長から溢れ出す無数の〝鼠〟に飲まれそうになる。柳葉は胃からこみ上げてくるものを感じた。この悪感情達に触れ続けるのは耐えられない。
「――柳葉さん、大丈夫ですよ。私が、しますから」
どうにか起き上がった称の白い手が柳葉の肩に触れると、纏わり付いていた〝鼠〟は一瞬にしていなくなった。それは祓われたのではなく、飲み込まれたのだと触れ合っていた柳葉にはよくわかった。そして、称が表情を歪めたことも――。
「称さん、駄目です。離れてください!」
「嫌です……貴方に仕事を押しつけたくないんです」
「貴方の仕事はこれからです! 僕じゃ、花田博士の言葉を紫さんに届けられない!」
「それはっ」
既に朽ちてしまった体から言葉を聞き取ることはできないのだと、称にはそれを柳葉に伝えることができなかった。ただ、どうしようもできなくなって称は後退る。そして、立ち尽くすことしかできなかった。
紫が現れたのは、村長が抵抗する余裕も無く柳葉も疲れ切った頃だった。彼女は一人ではなく、駐在を伴っていた。二人の懐中電灯で照らされた柳葉は紫陽花に囲まれた花田博士の遺体を指差す。
「ほ、骨!? これはっ」
「駐在さん、恐らく花田博士の遺体です。村長が、自分が殺したと」
「なんですって!?」
駐在は慌てて柳葉を村長の上からどけて、本当なのかと問い詰める。村長は何も答えず、紫の方をジッと見ている。紫は目を合わせようとはせず、ただ紫陽花に囲まれた花田博士を見ていた。
「皆さんもとりあえず公民館に集まってください! どこにも行かないでくださいよ!」
「わかりました。柳葉さん、立てますか?」
「すみません、ありがとうございます」
柳葉は差し出された称の手を握り立ち上がる。初めて肌と肌が触れ合ったと言うのに、疲れ切っていた二人は何も意識できなかった。
「……私は、逮捕されるのか?」
「貴方が本当に殺人犯ならね」
「こんな女のために! あの男が守ってるからどれだけ良い女かと思ったが、見た目ばかりで大した女じゃなかった! こんな女のために!! 私は!!!」
村長の叫びに駐在と柳葉は顔を顰めて、紫は悲しそうに顔を伏せる。すると一人だけ笑顔を作った称は、優しく紫を抱き締めた。そして、大丈夫だよと囁く。
「紫、よく頑張ったね。君の側にいられなくてごめん。一人で陽花を守ってくれてありがとう。これからも陽花を頼む。二人で幸せになってくれ。他の人達に迷惑を掛けるのは、駄目だからね」
「…………」
「旦那様からの言葉です。紫さんが辛い思いをしたのはわかっています。ただ、だからといって悪鬼にならないでください。貴方は、陽花ちゃんの素敵なお母さんでいてください」
「う、ううっ……」
泣き出した紫の背中を優しく撫でて、称はホッとした表情になる。これが自分の仕事、死者の言葉を伝えること――否、死者の思いを汲み取り生者に伝えることだ。その仕事ぶりを見て柳葉もホッとした。スピカを看取ってくれた時と同じ、優しい彼女を呼んで良かった……そう思ったのだ。
「称さん、紫さん、公民館に行きましょう」
称と二人で紫を挟んで公民館へ向かう。月はいつの間にか雲に隠れており、どうにも雨が降り出しそうな湿っぽさが漂っていた。
* *
後日、柳葉は称と二人で焼き鳥屋に来ていた。事件の事情聴取後の疲れた体では、とても二人で食事に行ける状態ではなかったのだ。だからといって、こんなにこぢんまりした焼き鳥屋を選ぶ必要も無かっただろうが。
二人並んで座ったカウンター、注文したビールで乾杯すると疲れた体にアルコールが染み渡る。
「称さん、何食べますか?」
「ハツとぼんじりと……」
「端から頼んじゃいましょうか。僕、お腹空いてます」
「そうですね」
笑顔の称が再びビールを口につけると、柳葉は思っていた疑問を口にする。アルコールは、妊婦に良くないのではないだろうか? すると称は、そうですねと頷いてもう一口飲んだ。
「だ、駄目ですよ称さん! 自分一人の体じゃないんですから!」
「えっ?」
「えっ? じゃないですよ。駄目です、これ僕が飲みます」
「あの……」
状況が飲み込めない称は奪われたビールが柳葉の胃の中に消えるのを、どうにもできず見つめるばかり。ただ、時間が経つうちに何となく思い違いに気がつく。
「あの、柳葉さん……」
「何ですか?」
「もしかして、私のこと妊婦だと思ってます?」
「えっ?」
「…………それ、返してください」
称は柳葉からビールを奪い取って、残っていた僅かを飲み干す。そしてもう一杯。柳葉は彼女が誰かの子を妊っていなかったこととグラスを共有してしまったことに処理落ちしてしまう。すると称は溜め息混じりに笑顔を浮かべた。
「柳葉さん、少し心配です。父に言われてこんな仕事を引き受けたり、私のこと妊婦だと思って慌てふためいたり。それが貴方の良い所ですね。でも、だから私みたいな悪い人間に利用される。私に心を壊される」
「えっ?」
その瞬間、称の中から〝鼠〟が現れた。まだ小さなそれは、カウンターを歩いて柳葉の指先に噛み付く。
「もう、玄蛇から仕事は受けないでください。お願いします……」
「…………玄蛇さんは、僕に仕事を押しつけることになると悪気を感じているんですね。今、初めて貴方から出てくる〝鼠〟が見えました。ここ、噛んでます。可愛いものですよ」
「…………」
称がそっと柳葉の指先に触れる。するとそこにいた〝鼠〟は跡形もなく消えてしまった。彼女は自分の心すら食べてしまうらしい。そのことに気がついた柳葉は、ますます側にいたいと思う。称が壊れてしまわぬように、側にいたい――〝鼠〟に臓腑を食い荒らされようとも。
「称さん、玄蛇家で働かせてください」
「辛い思いをして、どうしてそう言るのですか」
「そう言うだけの理由があるのだと思います」
「よく、わかりません……」
「いつか、わかる時が来るかもしれません」
再び滲み出るように称から生まれた小さな〝鼠〟が指先を舐める。どこかくすぐったく感じるこの感情は、悪いばかりのものではないと信じたい。柳葉は、良い感情も見ることができたらいいのにと笑う。すると称は柳葉から目を逸らして、少しだけ耳を赤くした。
「もしそうなったら、恥ずかしくて柳葉さんの前に立てません……」
その瞬間、柳葉の指先に纏わりついていた称の〝鼠〟がパチンと弾けて、柳葉の顔は真っ赤に色付いた。二人は恥ずかしくなって同時にビールを口にする。この顔の熱さをアルコールのせいにしてしまえば簡単だと言うのに、そうすることは心が許さなかった。
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ここまでお読み頂きありがとうございました。
処女作となります今作の「鼠捕りの男」は、梅雨時期に完成させたいと思い紫陽花をテーマにしました。少しじっとりとした嫌な雰囲気と、柳葉と称の優しさが表現できていれば嬉しいです。
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