人相をフードで隠した暗殺者に対し、アダムは右半身を前に、平手にした両手を顎の位置で掲げる。二つの手の甲は相手の方向を向いている。
対する敵は、黒いコートの下に手を入れている。
唐突に服の下から手が飛び出た。そこに握っているのは拳銃――銃口は少年を狙い、引き金が引かれる。
音速の十倍、一秒につき五十発――常人の目には動きを知るどころか見える事も無いだろう。
しかし、その銃弾をアダムは“感じ”ていた。弾の動きに合わせ、体をスライド、避ける。
更に少年は地面を蹴って方向転換。体を傾け、向かって来る銃弾を確実に避けながら着実に距離を詰めていく。
(分かる)
顔の横を銃弾が通り過ぎたのを見る。掃射をかい潜り、大きく横に動いて向こうの照準から外れる。更に駆け込み、距離を詰める。
素早く動き回る標的に、狙いを付けるのが困難になったフード姿の人物は、銃を服の下に隠す。同時に右手に持つナイフを体の前に掲げ、接近。
上下左右に振り回される刃――アダムは相手のナイフを持つ手首を手の甲で押さえ、全て防いだ。
側頭部を狙ったフック気味の刺突。少年の左拳が相手のナイフを持つ肩を叩き、刃が引っ込められる。
続いて敵が右ローキック。それを少年の左足裏が蹴り止めた。
打たれる前に打ち止める――特に上腕や腿は重要な腱や筋肉があり、打ち込まれる痛みもある。暗殺者がフードの中で顔をしかめるように瞬きをしたのが見えた。
苦し紛れに暗殺者が前に一歩、そして後ろ足を上げ、サマーソルトキック。アダムはただ上体を後ろに倒すだけで避けた。
相手は宙返りと同時に後退し、着地した際は左手に拳銃を持っていた。再び少年は銃弾の嵐を避ける事となった。
ところで、手を出さずに目の前の戦闘をただ傍観していただけの少女は、変化に気付いていた。
(勝っている……の?)
アンジュリーナは、今まではアダムが敵対する人物に負けないか心配だった。ほんの半日前までは弱っており、一方的に殴られる姿まで目の当たりにした。そんな光景を繰り返したくなかった。
いざとなった時には「中和」で相手の動きを止めようかと思っていた。能力を行使する際、“エネルギー”を発射するという仕組みの上、「中和」の際にアダムの動きを止めてしまう懸念もあったので、行動を控えていたのだ。
(でも……)
今は考えが百八十度違っていた。少年が暗殺者を殺す側に見えた。
正確に相手の動きを読み、確実に攻撃を加える。冷静な無表情が一層怖く、何処か大人びている。残酷さに満ち、慈悲が存在しない。
例え命を奪おうとする相手でも、アンジュリーナは気が気でなかった。
(お願い、殺さないで……)
元はといえばアダム少年を守る事こそが彼女の使命の筈だった。だが、今となっては殺される立場が違う。
どうすれば誰も死なずに済むのか。命を片方に選ぶ事など出来なかった。
そんな少女の苦しむような思惑など知らず、アダムは迫る銃弾を躱し、呆気なく相手のすぐ傍まで辿り着く。
迎撃しようと正面から突こうとするナイフに対し、左前蹴り。足先が手を打ち、手からナイフが弾き飛んだ。
それをアダムは手に取り、迷わず前進――刃先は相手の左胸に刺さって止まった。
心臓からナイフを引き抜いたアダムは続けて、下腹部、首、額、とリズム良く突き刺す。
赤い液体がコンクリートの床を染め、意思を失った暗殺者は重力のまま地面に伏した。
少年は死体に目もくれず振り返った。殺しに躊躇も後悔も無かった。
その姿こそ、この場唯一の観戦者にとってはショックな出来事だった。助けようとしていた人物が、一番望まない事をした。
(そんな、嘘……)
何故平気で殺せるのか、何故死を忌まないのか、それが彼女には不可解だった。床が赤く染まるのを見るだけで目を覆っている。
「どうして殺したの……」
震え声での質問。返答はすぐに来た。彼は首を傾げていた。
「なら何故殺さないという選択が出来る?」
「……だって、私は人が苦しむのは見たくない……」
その不合理な回答こそ少年には不可解だった。
「ではアンジュ、君なら殺さずにどうするつもりだ? 向こうが言っていた通り、目的が捕獲あるいは抹殺なら交渉しようもないだろう。こちらが力ずくで説得させるか、消滅させる他に無い」
「それは……」
口ごもる少女。何せ少年は何も間違った事を言っていないのだ。アンジュリーナの持つ道徳観に背く事以外は。
その時、何かが発光した。網膜を突くフラッシュに二人は注目した。
死体が光っていた。途端、光が激しさを増幅させる。二人の若者は飛び退き、目をつぶり、腕を顔の前で交差する。
直後、莫大な熱と閃光が辺り一帯を包み、空気が急激に加熱された事による爆音と衝撃波が吹き付ける。
眩しさが消えた。轟音と爆風も止んだ。目を開ける。
次に確認したのは、暗殺者の死体が消え、代わりにコンクリート製の床に出現した半球状のクレーターだった。恐らく死体が放った熱によって溶けたのだろう。
「……じ、自爆?」
「だろう。情報漏洩を未然に防ぐためか。有機物を爆薬に合成したのだろう……しかしトレバーはどうしたのか。さっきから“感じ”ない……」
とっくに話題を捨て去り、先を行くアダムに対し、自身の考えを否定されたアンジュリーナは立ち止まったまま顔を俯かせていた。
(どうして……どうしてここまで残酷なの……)
「……派遣した『予備軍』の生体信号が途絶えました」
指令室、ポールは部下の申し訳なさそうな報告に、腕を組んだまま黙っていた。表情には怒りを出していないが、内心ではイラつき、指をポキポキ鳴らしていた。
そして彼は、半分の賞賛と半分の呆れを混ぜた声で言った。
「まさか目標が一番の誤算だったとは、見くびったな……アンダーソンが『覚醒』したのは明らかだ。ところで、残ったテイラーはどうした?」
「現在もまだ足止めを受けているようですが、アンダーソンのすぐ下の階に居ます」
「繋げられるか?」
「勿論です」
ビルの3D構造画像を見詰めるオペレーターが、肯定と即刻キーボードを叩いて通信を立ち上げる。マイクの前に立ったポールは呼び掛けた。
「テイラー、作戦中止だ。だが、アンダーソンはお前の丁度上に居る。お前に離脱を命じる代わりに抹殺しろ。『覚醒』は定かではないが、お前の腕なら一撃で仕留められる筈だ」
『了解』
さて、とマイクから顔を遠ざけ、考え事をし始めた。その時、
「アレクソン君どうかね?」
タイミングが良いのか悪いのか、指令室の扉が開いて室内に入ってきたのは、ディック中佐だった。問われたポールはこめかみを指で押さえる。
「残念ながら失敗です。『予備軍』は死亡、後に自動消滅しました。アンダーソンはほぼ間違い無く『覚醒』したものだと思われます。二名離脱し、残る一名に抹殺させる予定です」
「そうか、残念だ……いやアレクソン君、別に君を責めるつもりは無いんだ」
中佐は悩むように頭を押さえる。そして自分の無礼さを認めて慌てて手を振った。
「分かっていますよ。しかし中佐、アンダーソン無しでも『成功』の分析は可能でしょう。他にも『候補』はありますし、そう拘らずとも」
「それは分かっている。まあ、実物があれば分析に手間が掛からんと思ってな……」
ポールの話を遮って言った。説得力はあり、納得出来る答えだった、ものの、中佐の喋り方はどこかぎこちなく、答えるのに詰まっている風にも思えた。
(妙だな。今回の作戦といい、中佐は何故ここまでアンダーソンに拘るんだ? 今は摘出されていても『チップ』を埋めてあったのなら、反乱軍に持ち出されたと分かった時点で自爆を命じる事だって出来た筈だ……俺の考え過ぎか?)
隣でモニターを見詰める中佐を横目に考えたが、今はどうでも良いと打ち切った。
「悪いが、そろそろ別れの時間だ。久し振りに楽しかったぜ」
ヘルメットの頭が告げた。
トレバーは発言を疑問に思いながら、対峙するヘルメットと黒い服装に隠れた相手の変化をすぐに見切った。もっとも、この変化は一般人には全く分からないのだが。
分かりやすく言えば、ヘルメット男の周囲の空間が急に“見えない輝き”を帯び始めたのだ。
(『エネリオン』の量が増えた?……首に何か隠れているな。一種の増幅装置といった所か)
行動も予想外だった。“光”を纏ったヘルメットの人物は突如床を蹴ると跳び上がり、天井を突き破って大穴を空け、その中に消えた。
不味い、と思った時にはトレバーもそれを追って穴へ向かって跳んでいた。
堅い床が破れる音――少年少女は突如呼び覚まされた未知なる好奇心と恐怖に駆られ、振り向いた。
コンクリートの床には直径数十センチメートルもの大穴が空いていた。その数メートル上空では何者かが飛び出している姿。
ヘルメットと黒い衣装で人相を隠した人物――姿を確認した時、ヘルメットの人物は手に持った何かを、アダムに向かって投げていた。
あまりにも突発的な状況下、途轍もないスピードで迫るそれを、アダムは避けようとしたが、
(速過ぎる!)
信じるか否かの問題以前に、認識が追い付かない。体を横へスライドさせても物体は確実に当たる……
諦めてかけていたその時、飛翔する物体が目に見えた――急に遅くなったのだ。物体は剃刀サイズのナイフだった。
疑問よりも今は回避。ナイフはアダムの頬ギリギリを通過。
直後、床の穴から今度は浅黒い肌の人物、トレバーが飛び出したのが見えた。するとヘルメットの人物がナイフ投げの体勢から腕を引き戻す。
アダム向かって飛んでいたナイフが逆方向に飛び、相手の手中に戻る。良く見ると、光沢を放つ線がナイフとヘルメット男を繋いでいる。恐らくワイヤーか。
ヘルメットは意味ありげな視線を送り、床を蹴って目にも止まらぬスピードで屋上から姿を消した。
(今、投げられたナイフが明らかに遅くなった。何故だ?)
少年は刃を避けた体勢のまま、状況の変貌ぶりに呆然と硬直していた。
「無事か?」
「ああ」
駆け寄った大人からの質問に少年は無事を伝えたが、
「ごめんなさい、私はあんまり……」
何故か少女の方は、苦しみに耐えるような弱った声だった。
声の元へ目線をやると、アンジュリーナはアダムに右手を向けたまま、立ち止まっている。
もう片方の左手は、彼女自身の着ているブラウスの下腹部を押さえていた。その周りには赤い染み。
「アダム君は、無事?」
「そうだが」
「良かった……」
自身は傷付いているというのに、返事を聞いて少女は安心して言った。出血は止まらないのに、ホッと息をついていた。
その後、彼女は地面に膝を着いた。
「チャック、屋上に来い」
何時の間にか取り出した通信端末を耳に当て、最短で告げたトレバー。返事は聞かなかった。
(もう一本投げられていたのか? 気付かなかった……)
アダムは状況の不可解さに悩まされていた。ただでさえ「真実」に近付く手段を覚えたばかりだというのに、今回はその認識すら超えていた。
だが物理現象としての謎はこの際今までも不思議だった事だ。今はそれよりももっと疑問に思う事があった。
「アンジュ、あの時のナイフは君が減速させたのか?」
「そう、よ……」
苦痛を我慢し、痛みに歪む顔をねじ曲げて笑顔で返した。辛い筈なのに、何かを成し遂げた時の満足が、少しだけ見えた。
「何故助けたんだ? 君自身の事はどうでも良いのか?」
「私が貴方を……アダム君を助けたいからよ……!」
少年に訴え掛けるような言い方だった。
納得出来なかった。不可解だった。何も理屈が無いのが分からない。何故、傷付いたのに笑っているのか……
丁度その時、アイルランド系の中年医者が慌ただしく階段から走って屋上に辿り着き、倒れかけのアンジュリーナの傍へ来ると、まだ赤い液体が湧き出る腹部に手を当てる。
チャックの手から発される光と共に、少女の傷が塞がるのを見届けながら、アダムは孤独に分からないままだった。
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