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──初めての戦い
エルザは黒の城を出た。
死体の山が積み重なる城の前庭をなんとか通過し、城下町を見下ろした。
城下町は炎で焼き払われたようだった。
いつも賑やかだった市場は建物が焼け落ち、無人になっている。並べられていた野菜や肉などは腐るか、焦げ落ち、異臭を放っている。
バロールで一番賑やかだと言われた城下町は荒廃しきっていた。
いくつもの家屋が焼け落ち、市街地には抵抗を試みたバロール軍のバリケードがあり、そこにいた兵士たちは皆殺しにされていた。死体は最後まで抵抗を続けようとしたのか、どれも剣や弓を握ったまま死んでいた。
エルザはその突破されたバリケードを通り過ぎる際に兵士たちのために祈った。
「いちいち祈っていたら日が暮れるぜ。前向きに生きていこうぜ」
「彼らは義務を果たそうとしたのですからそれに報いるべきです」
「そいつは結構。好きにしてくれ」
そう告げると“エリニュスの狂乱”は黙り込んだ。
エルザは馴染みある光景が徹底的に破壊されている様子に胸を痛めながらも、黙々と城下町を出て、前線までの街道に向けて進んだ。
幸か不幸か、エルザが街の中で見た死体はほとんどが兵士のものだった。城下町の住民のほとんどは黒の城に避難したのだ。黒の城ならば安全だと信じて。
だが、黒の城すらも安全ではなかった。黒の城は神気で攻撃され、全身がマヒし、呼吸ができなかうなった避難民の死体で覆われている。エルザは自分が臣民の期待を裏切ったことに、自分の選択のために臣民が苦しい思いをしたということに深い悲しみと後悔の念を抱いていた。
自分が黒の城への避難民の避難を許していなければ、今頃はこの広い城下町のどこかに生き残りがいたかもしれない。少なくとも神気でむごたらしく殺されるということにはならなかったはずだ。
だが、今さら悔やんでも遅すぎる。
既に全ては過ぎ去った過去の出来事。過去とは墓石のように動かすことはできない。
「と、お客さんだぜ」
エルザがまたバリケードにいた兵士のために祈っていたとき、獣の唸り声が聞こえた。低く、威嚇するような唸り声だ。それが複数聞こえる。
「魔狼だな。あんたとは違う形で死者を弔いに来たらしい。ついでにあんたのことも美味そうな御馳走に見えているはずだぜ。どうする?」
「こんな場所で倒れるわけにはいきません。戦います」
魔狼。瘴気の影響を受けて変化したオオカミの一種。その巨大な体を維持するために常に飢えており、死体から生きている獲物までなんだろうと食す。
どうやら彼らは神気の影響が薄まってきたのを感じてやってきたようだ。
この黒の城を守ろうとした兵士たちの死体をむさぼるために。
「魂を差し出せばいいのですね」
「そうだ。厳密には魂を燃焼させるんだが、それはいい。今は戦いに集中しろ」
エルザが“エリニュスの狂乱”を構えて告げ、“エリニュスの狂乱”が返した。
「構えて気合を入れろ。後は俺がやってやる」
「はいっ!」
“エリニュスの狂乱”を構えるエルザに魔狼の群れが突撃してきた。
「動くぞ! 右!」
エルザの体が自然に右へと動く。とてもスムーズに。
エルザは自分の体の動きに驚愕した。
あまりにもスムーズだった。これだけの剣を構えて動くことなど初めてだと言うのに、エルザの動きはまるで100年間はこのような剣術の鍛錬を受けていたかのようにスムーズであった。
──熟練の剣士の腕前だ。フォーラントが言っていた通りだ。
“エリニュスの狂乱”によって覚醒したエルザは全身を仄かな青い光で包まれた状態で動き、魔狼がその素早さに戸惑う。
──なんだ? この速度はなんだ? いったいこの生き物はなんなんだ?
ウサギでも狩るがごとく容易い相手だと思ったところを、予想外の速度で、野生動物として幾多の俊敏な獲物をしとめてきた魔狼ですら予想していたなかった速度で動き、“エリニュスの狂乱”の刃を魔狼に向けて構え、エルザはそのまま魔狼を迎え撃つ。
「カウンターだ。叩き込む」
──斬撃。
そして突撃を躱された魔狼に向けて“エリニュスの狂乱”の刃が振るわれる。刃は魔狼を切り裂き、その首が叩き切られた。魔狼の首を叩き切るなど熟練の兵士にすらできるかどうか分からないことをエルザは、剣を握って初めてだというのにやってのけたのだ。
魔狼の首の断面から鮮血が噴き上げ、魔狼は勢いをそのままに、バリケードに突っ込んで息絶えていた。串刺しにされた魔狼は自分の身に何が起きたのかすら分からなかっただろう。それほどまでにエルザは鋭敏で、命を刈り取る速度があまりも素早かった。
「残り3匹。優雅に行こうぜ」
エルザは魔族の常識を超えた勢いで大きく跳躍し、魔狼の背中に飛び乗ると同時に“エリニュスの狂乱”の刃を深々と魔狼の背中から腹部にかけて貫いた。魔狼はまるで悲鳴のような鳴き声を上げるとぼとぼとと血を流しながら、ぐらりと地面に横たわる。
時によっては矢すら弾くと言われる魔狼の固い毛皮すらものともせず、エルザは魔狼を串刺しにした。これもまた熟練の兵士ですらできないことを、あっという間の速度で。あまりにも速い速度で覚醒したエルザはやり遂げた。
──速度。速度。速度。──あまりにも速い速度。
──力。力。力。──あまりにも強い力。
“エリニュスの狂乱”の与えた力は本物だった。魔狼ですら翻弄する速度と魔狼を殺すだけの力をエルザに与え、その力で次々に魔狼を仕留めていく。これが本格的な魔狼の討伐であったならば、1個中隊以上もの熟練の兵士たちが動員されるところを、エルザはたったひとりで次々に魔狼たちを血の海に沈めて行っている。それほどまでに“エリニュスの狂乱”によって覚醒したエルザは強かった。魔族というのが人間より強力な生き物だったとしても、今のエルザはそのようなカテゴリーではくくれないほどに強かった。
──素早く、強力。
この力は本物だ。この力はどんな敵だろうと倒せる。そうに違いない。
エルザはそう思った。
そして、この力ならば皆の仇を取ることができる。
憎い7名の仇を殺してやることができる。
少なくともそれを達成するために力はここにこうして手に入ったのである。
そして、エルザが2体目を仕留めたときには既にエルザは3体目の攻撃にかかっていた。
“エリニュスの狂乱”によって覚醒させられた彼女の動きはどこまでも俊敏で、魔狼たちがうろたえている間に通りを駆け抜けていき、3体目の首を斬り落とした。またしても覚醒したエルザのあまりにも速い速度によって、魔狼を狩り殺した。
鮮血が噴き上げ、魔狼がまた何の攻撃もできないままに倒れておく。魔狼はエルザひとりに手も足も出ず、ただただ仲間が殺されていくのを見ているしかなかった。
「残り1体」
“エリニュスの狂乱”はカウントし、エルザは再び“エリニュスの狂乱”を構える。
最後の魔狼は仲間たちが殺されたことに怒り心頭で、わき目も降らずにエルザに突撃してきた。エルザの体を動かす“エリニュスの狂乱”は、これまで通りに覚醒した状態のエルザの体を動かし、それを素早く回避しようとしたが──。
──エルザの体は上手く動かなかった。
「ちっ! 疲労が溜まってやがる! やっぱり出発は1日遅らせるべきだったな!」
“エリニュスの狂乱”はそう叫ぶと正面から魔狼の突撃を受け止めた。
魔狼の牙に“エリニュスの狂乱”の刃が食い込み、エルザの体がじりじりと焼け落ちた家屋の方に押される。これまでと違って力負けしていた。エルザの体を包んでいた仄かな青い光も次第に弱まっていくのが分かる。
だがそれでも、“エリニュスの狂乱”はそのまま刃を押し切り、魔狼の口を切り裂き、そのままの勢いで魔狼の頭に刃を突き立てた。
先ほどまでの機敏な戦いとはことなり、些か泥臭く、辛うじてという勝利だった。“エリニュスの狂乱”でもエルザの体力が全くなければ、その力を発揮できないということを証明していたようなものである。
復讐は自分の手で果たせ。
“エリニュスの狂乱”のあくまでエルザの戦いをサポートするのみで、復讐を実行するのはエルザなのだということを改め示された形になった。
「ふう。なんとか行けたか。初めての戦闘の感想は?」
「体中が痛いです……」
「日頃からもっと運動しておくべきだったな、嬢ちゃん。さ、気を取り直して出発しようぜ。これ以上魔狼と戦って魂を無駄にはしたくないだろ?」
「少し休んでから出はダメですか?」
「今日出発するって言い張ったのは嬢ちゃんだぞ。俺は1日休めと言ったんだ。自業自得だな。こんな死体のある場所で休めば、また魔狼に襲われる。もっと死体から離れた場所で休むことだ。ま、食い物は途中でも手に入るだろうし、気軽にいこうや」
“エリニュスの狂乱”は厳しくそう告げると、エルザに進むように促した。
エルザは全身の筋肉が引きちぎれんばかりに痛む体で、足を引きずるようにして城下町の城門を出て、ようやく前線までつながる街道に乗った。
「敵がくれば俺が知らせる。嬢ちゃんはただ歩きな」
「はい」
エルザは歩く。
街道を歩き続ける。
この道を通って父である魔族王フリードリヒも前線に向かったのだろう。
そして、戦死した。
「お父様。あなたの仇も必ず取ります」
父は国のために戦い、死んだ。
人間たちの卑劣な罠で黒の城と分断された彼は何を思っただろうか。
きっと悔しかったに違いない。自分たちが守るべき臣民を守れず、ただ戦うしかなかった近衛兵団や黒山騎士団の兵士たちは悔しかったに違いない。
そして、悩んだに近いない。城に置いてきた兵力だけで敵の侵攻を止められるのかと。敵の戦力はいったいどこまで浸透しているのかと。
万全の状態で戦えた。エルザはそう願っている。
武人であった父が、目の前の敵を前に万全の状態で戦うことができなかったとは思いたくはない。それでも疑問はある。本当に父はエルザや王妃、黒の城の臣下たちのことを考えずに戦えたのだろうかと。
いずれにせよ、父を殺した男は殺す。父の仇は討つ。
そんなことを考えながらどれほどの時間が過ぎただろう。
「おい。そろそろ休めるぞ」
“エリニュスの狂乱”が不意にそう告げた。
「大丈夫なのですか?」
「ああ。この付近に魔物や野盗の類はいない。そこの木陰で食事と水分を取って、横になれ。俺が見張っておいてやるから」
「分かりました」
エルザの足は棒のようになっていた。
引きずるようにして歩き、木陰に入ると背中に背負っていた食料と水を広げる。
きっちり1日分。エルザは取り分けて、口に運んだ。
パンは保存を目的としており非常に硬い。干し肉も石を噛んでいるかのように硬い。
「湯を沸かせよ。焚き火のやり方は知ってるか?」
「……いいえ」
「まあ、仕方ない。何事も初めてがある。まずは薪を集めよう。俺が指示するから、俺の指示した薪を拾っていけ。俺が見分けてやるからな」
“エリニュスの狂乱”はそう告げるとエルザに薪を集めさせた。
ちゃんと乾燥した薪を、エルザは拾い集めていき、“エリニュスの狂乱”の言うとおりに組み上げた。そして、そこに簡易の炎の魔術で火をつける。
「上等だ。後は湯を沸かして、それで少しずつ溶かしながら食うといい。体も温まるし、食い物も食える一石二鳥だ。だが、保存食の味は期待するな。保存食ってのは保存を第一に考えている。味は二の次だ」
「はい」
確かに保存食は固くて食べにくいだけで味気はほとんどなかった。
その味気ない食事でも必要なカロリーと栄養素は摂取できる。エルザは義務的に食事を続け、食べ終えるとお湯を残さず飲み干した。
「さあ、腹も膨れただろう。今日はゆっくり休め。疲労が溜まってちゃ、俺も満足なパフォーマンスは望めないからな」
「分かりました」
エルザは外套に丸まり、木の根元で横になる。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
エルザが目を閉じると“エリニュスの狂乱”はひとりで見張りを続けた。
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