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──ヴェルナー
その少年とエルザが出会ったのはエルザが王太女になってから7日後のことだった。
「エルザ殿下!」
庭で季節の花のスケッチをしていたエルザに声がかけられた。
「はい?」
エルザが不思議そうに声の方向を見ると、騎士甲冑を纏った少年がいた。エルザよりも2、3歳ほど年上の外見をした人狼の少年だ。頬には擦り傷があり、唇からは血が流れている。それをみてエルザはただならぬことが起きた思った。
人狼たちはバロールの中でも精鋭の戦士たちだ。この少年はまだまだ若いので人間相手に後れを取ることもあるかもしれないが、人狼が人間を相手に傷を負わされることなど滅多にない。その人狼が傷を負っているということは、やはりただならぬことを連想させた。
「どうしました? 何があったのです?」
「いえ。バロールは今、何も起きておりません。平和そのものです。ただ、自分が名乗り出るに当たって師匠たちから精一杯しごかれただけです」
少年は真っすぐな瞳でそう告げた。
「え? しごかれた? あなたはあまり見かけない兵士ですが、新入りの方ですか?」
「はっ! 先週付けで近衛兵団に配属されたヴェルナーであります。今日は王太女殿下にお目にかかれてとても光栄であります。そして、今回はぶしつけながらエルザ殿下の剣を捧げるために参りましたっ!」
ヴェルナーと名乗った少年はそう告げて、エルザの前に跪いた。
「け、剣を捧げ……。つまり、私の騎士に?」
「はい。その通りであります」
ヴェルナーはそう告げるのと同時に、羊皮紙の書状を差し出した。
「お父様──国王陛下の推薦に、近衛兵団団長ヘルムート元帥の推薦……。あなたは優れた騎士の素質を持っておられるのですね。ですが、それならば王太女に過ぎない私ではなく、国王陛下にお仕えした方がいいのではないですか?」
エルザはこれだけの推薦が得られた前途ある少年が自分に剣を捧げるという意味を理解しているのだろうかと首を傾げた。
国王──魔族王の騎士とその後継者に過ぎない王太女の騎士では明確に格が異なる。前者は出世コースに乗ったようなものであり、バロールの誇る黒山羊騎士団に所属することも不可能ではなくなる。
対するエルザに仕えるのでは、出世は見込めない。魔族王フリードリヒは健康そのもので、後400年は生きるだろう。そして、エルザたち王族──半竜種と人狼族では寿命に開きがありすぎて、エルザが魔族王になるときには目の前の少年は年老いて果てている。
「いえ。エルザ殿下に剣を捧げたいのです。一度、バルコニーからそのお姿を拝見したときからお慕い申し上げておりました!」
「は、はい!」
ヴェルナーの気迫に思わず返事を返してしまったエルザ。
「その、私でよろしければ、その剣を捧げていただきたく思います。本当に私でよろしいのですね? 一度剣を捧げれば……」
「二言はございません。どうかあなた様に剣を捧げさせてください」
一度剣を捧げれば、主が死なない限り、騎士は忠誠を誓った相手を変えられない。
「では、剣を」
「はっ」
エルザはヴェルナーの覚悟は本物だと確信した。
その瞳に迷いはなく、自分を見つめている。彼をこれ以上疑うのは彼の名誉を汚す行いであるとエルザは思った。
「汝、ここに誓約せよ。汝、バロールの民を守り、バロールの神を守り、剣を捧げしものを守り、あらゆる嘘偽りから正義を守り、あらゆる暴力から正義を守り、あらゆる弱者や困難に遭遇したものたちを守ると」
「誓います」
エルザは剣を少年の方に乗せ、ヴェルナーは宣誓した。
「では、あなたは今日より私の騎士です。よろしくお願いします、ヴェルナー」
「はい、殿下!」
その時拍手が響き渡った。
「よくやった、ヴェルナー!」
「決まっていたぞ!」
拍手とともに姿を見せたのはフリードリヒとヘルムート元帥だった。
「お父様! 見ていらっしゃったのですか!」
エルザは恥ずかしさに顔を真っ赤にして叫ぶ。
「見込みのある男が近衛兵団に入ったと聞いたからな。どれほどのものか見定めてみようと思ったのだ。評判にたがわぬ立派な騎士だな」
「ありがとうございます、陛下」
フリードリヒが告げるとヴェルナーが深く頭を下げた。
「エルザ。お前の騎士だ。彼の信頼を決して裏切るな。立派な王族であれ」
「はい、陛下」
そして、エルザも頭を下げる。
「では、ヴェルナー。早速ですがあなたの忠誠に頼ります。この黄色いバラが今年も花開いているか一緒に調べに来てください。この庭園ではたまに意地悪な庭師がスケッチの邪魔をするので、そのときは彼を説得なさい」
「畏まりました、殿下」
ヴェルナーは僅かな笑顔を含めて頷いた。
ヴェルナーはエルザの騎士になってからエルザの遠乗りに付き添い、人間の山賊が国境線付近で暴れた場合には負傷者の手当てをエルザとともに行い、エルザに危険が迫るのであれば剣を握った。それは振るわれることのなかったが立派な剣だった。
ヴェルナーはエルザを支えた。時に無茶をするエルザを宥め、エルザのために貴重な花の標本を採りに向かい、そしてエルザの友人として共に成長していった。ヴェルナーはエルザにとって欠かせない友人となっていた。彼なしの人生などエルザには考えられないほどにヴェルナーはエルザに仕え、エルザはその忠誠に報いた。そして、騎士と姫という関係だけなく、友人としても会話を弾ませた。ヴェルナーはエルザの影響で植物に興味を示すようになり、エルザの教えを受けて様々な植物の名前と生態系を知った。
「植物はこの世界を支えているかのようですね」
「そうですね、ヴェルナー。植物は生命を育む揺りかごと言っていいかもしれません。肉をメインに食べる種族も、その肉が植物から来ていることは知らないでしょう。生命のバランスというのはまさに奇跡のようにできているのです」
「王太女殿下がバロールを支えているようにですね」
「やめてください。私はまだ王族としての義務を果たしたことなどそうないのです」
ヴェルナーとエルザは楽し気に言葉を交わす。
この友情にはフリードリヒもカミラも何も言わず、ただ無言でそれを歓迎した。騎士と姫として一線を踏み外さない限り、どれだけの友情をエルザとヴェルナーが育もうと、両親たちはにこやかな笑顔でそれを受け止めてくれた。
そして、そんなエルザとヴェルナーの絆が育まれている間のフリードリヒの治世は穏やかに続き、この平和が永遠に続くように思われた。あまりにも平和な時間が、ゆったりと過ぎていった。
人間たちだってこれ以上戦争は望んでいないはずだ。犠牲者ばかりが出て、得るもののない戦争などいつまでも続けるはずがない。
いつかは本当の平和が訪れる。そして、それは長く続くだろう。
エルザは心優しい両親と忠実な騎士に囲まれて、そう思った。
だが、その時既に崩壊の足音は微かながら響き始めていたのだ。
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その時は唐突に訪れた。
「伝令!」
王座の間で執務を行っていたフリードリヒの下に兵士が駆け込む。
「どうした?」
「はっ! 人間の侵攻です! 報告によれば規模は50万以上! 大侵攻です!」
青ざめた伝令の言葉に王座の間の大臣や官僚たちが言葉を失った。
「5、50万? そんな馬鹿な。人間たちが本格的に侵攻してきたというのか?」
辛うじて将軍のひとりがそう言葉を発した。
「遠見の水晶を」
「畏まりました、陛下」
遠見の水晶。遠隔地の水晶から映像を送信され、受信することのできるもの。いわば、ドローンのカメラと同じ機能を持ったもの。
「これは……」
国境線を映した映像は地獄を描いていた。
突破された防衛線の残骸。死体の山。旗を掲げ前進する人間の軍隊。
「ほ、報告!」
そして、通信室からさらに青ざめた表情の兵士が駆け込んできた。
「国境線の防衛線は完全に壊滅! 完全に壊滅です! 現在、残存部隊が市街地にて遅滞戦闘を繰り広げていますが、数によって完全に押されており、敵は恐るべき速度で前進中です! このままですと王都に敵が来ます!」
そして、さらに通信文を握り締めた兵士が現れる。
「現在敵はハドリアヌス大橋を前進中とのこと! 領内に忍び込んだ人間の兵士たちの活動によって各地で混乱が起きています! 人間の商人に偽装した兵士たちが我々の背後に現れ、攪乱を行っている模様!」
そこでフリードリヒは立ち上がった。
「分かった。敵の侵攻を食い止めなければならない」
フリードリヒは短くそう宣言する。
「近衛兵団と黒山羊騎士団は我に続け。だが、後詰の部隊を置くことを忘れるな。我々が前線で戦っている間に黒の城が襲われる可能性はあるのだ」
「し、しかし、陛下。黒の城のある最深部までくれば人間たちは瘴気によって戦闘不可能になるはずでは。人間たちにとって黒の城の付近を覆う瘴気は毒となります」
フリードリヒが告げ、将軍のひとりがそう返した。
「敵は本格的に侵攻してきたのだ。もはや何が起きてもおかしくはない。万全を尽くし、万難を排する。敵が今日という日に我々を全滅させようとしていてもおかしくはないのだ。さあ、馬を準備しろ」
「はっ」
フリードリヒは颯爽と王座の間を出ていく。
「国王陛下!」
「あなた!」
そして、城を出ようとしたフリードリヒの下にカミラとエルザが姿を見せた。
「大丈夫なのですか、陛下? 宮廷のものは皆、震えあがっています……」
「安心しろ。いつものような人間の侵攻だ。必ず撃退して戻ろう」
エルザが縋るように告げると、フリードリヒが力強くそう告げた。
「エルザ。お前は王太女だ。宮廷の者たちを安心させてやれ。だが、それ以上のことは考えるな。お前の騎士に従え。あのものはお前を守ると誓った。その誓いが試されるときが来るかもしれん。分かったな?」
「はい、陛下」
「お父様と呼んではくれないか?」
そこでフリードリヒは僅かに微笑んだ。
「ご武運を、お父様」
「ああ。必ず帰る」
そして、フリードリヒの乗った馬は黒の城を近衛兵団と黒山羊騎士団を引き連れて前線へと駆け抜けていった。
そして、戻ることはなかった。
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