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──戦争の渦
「ヘルムート元帥、戦死とのこと!」
「陛下は、陛下は無事なのか!?」
「敵はいったいどこまで来ている!?」
フリードリヒが部下を引き連れて出陣してから4日後。
前線との連絡は絶たれ、混乱だけが広がっていた。
誰もが恐怖し、誰もが混乱し、誰もが望みを失っている。
「お父様……」
エルザは部屋にこもっていた。
そうするべきだとヴェルナーが告げたからだ。
エルザは宮廷の者たちを安心させなければと言ったが、宮廷の恐慌は暴動に発展せんばかりに加熱し、それを危険視したヴェルナーがエルザを部屋に向かわせた。
そして、黒の城は今、各地から逃げ延びてきた難民が押し寄せている。
黒の城は安全だ。黒の城は陥落しない。黒の城まで逃げよう。
エルザが難民収容を許可したこともあって、押し寄せた難民たちで黒の城の城壁内部は難民キャンプができていた。家族を探す者たちや、この先どうしたらいいのか悲観にくれる者たちが、難民キャンプの空気を重々しくしている。
だが、それは惨劇の始まりに過ぎなかった。
「確かなのですか?」
「はい。黒の城は包囲されました」
エルザの問いにヴェルナーが迷いなく答えた。
「……敵と交渉はできないのですか?」
「こちらの使者は既に殺されています」
相手にこちらと交渉する意志はない。
普段から野蛮な魔族の根絶をなどと言っている人間たちだ。今になって急に魔族を助けてやろうなどという気持ちは湧いてきたりはしないだろう。
「では、どうすれば、どうすればいのですか……」
エルザは頭を抱え込んだ。
父も近衛兵団の団長も行方不明。
こんな状況で自分は何ができるというのか?
「逃げる、と言う選択肢しかないように思われます」
「民を捨てて逃げろというのですか……!?」
ヴェルナーが告げ、エルザが苦し気に告げる。
「王族さえ生き残っていればバロールはまた再起できます。エルザ様には生き残るべき義務があるのです。ここで死んでしまうのは、ダメなのです。あなたはフリードリヒ陛下に誓われたはず。バロールを守る、と」
「ですが! ここで逃げるのは民を守るという義務を放棄しています!」
ヴェルナーが淡々と、だが力強く告げるたが、エルザは納得できなかった。
自分だけが生き残ればいい? この黒の城に逃げてきた多くの民を見捨てて?
そんなことが許されるはずがない。自分は魔族王から、父から、民を任せたと言われているのだ。それこそが自分の義務ではないのか。
「報告!」
そこで部屋に伝令が駆け込んできた。
「隠し通路がふさがれていました。人間たちはどこからか隠し通路の情報を入手していた模様です。これでは脱出は……」
伝令の告げた言葉でヴェルナーが肩を落とした。
「エルザ殿下。それでしたら──」
「攻撃だ! 攻撃が始まったぞ!」
この黒の城のあちこちで悲鳴染みた声が上がり始めた。
「エルザ殿下! ここにお隠れを! いいというまで出てきてはいけません!」
この時、ヴェルナーは既にこの黒の城が落ちるということを感じ取っていたのだろう。彼はクローゼットの中に震えて動けないエルザを押し込み、扉を閉じた。
それから悲鳴が聞こえ続けていた。
黒の城のいたるところから響いているような悲鳴。まるでこの世界が急に地獄の底に落下したかのような悲鳴の数。悲鳴は響き続け、それに怒号が混じる。人間たちの声だ。エルザは国境地帯で負傷兵を介護していたことがあるから知っている。
「皆殺しだ! 皆殺しにしろ! ひとりも生かすな!」
軍靴の音とともに怒号は近づいてくる。
それは着実にエルザの部屋に近づいてき──。「
「そこまでだ! 人間ども!」
ヴェルナーの声が響いた。
「人狼の餓鬼か。殺せ」
その時の男の声をエルザは決して忘れることはなかった。
ヴェルナーなど歯牙にもかけないかのような口調。臓腑の底から吐き出される侮蔑の色。ただただ、ヴェルナーを目障りな虫でも現れたかのように見ていると分かる言葉。それらの入り交じった嘲笑。
エルザは怖かった。ヴェルナーの剣術の腕前は確かなものだったが、ここまで攻め込んできた人間の軍隊に勝てるかどうかは分からなかったのだ。
だが、彼女はヴェルナーを信じた。信じ続けた。
「はあああ──っ!」
エルザの耳に最後に残ったのはヴェルナーの雄叫び。それだけ。
それから急に全てが静かになった。
エルザが自分が気を失っていたということに気づいたのはいつだっただろうか。数時間後か、数日後か。エルザは目を覚まし、耳を澄ませた。
静かだった。あまりにも静かだった。
人間たちの怒号も、魔族の悲鳴も聞こえない。
あまりに静かすぎるその様子に逆にエルザは怖くなった。
ここから出ても大丈夫なのだろうか? だが、ヴェルナーはどうしたのだろうか?
エルザは必死に声を潜め、待ち続けた。
1時間、2時間、3時間、4時間……・
1分すらも永遠と思える時間の中で、エルザは待ち続け、その精神は摩耗していった。
やがてエルザはもう死ぬのならば死んでもいいと思うようになった。
もしかしたら、城を占拠した人間たちと出くわすかもしれない。だが、ヴェルナーが生きていて笑顔で出迎えてくれるかもしれない。
どちらにせよ、ここから出なければ何も始まらない。
エルザはクローゼットの扉を静かに開いた。
クローゼットから出てエルザの鼻を突いたのは死臭だった。
濃い、とても濃い死臭が立ち込めている。空気がよどんでいる。
エルザは恐怖を覚えながらも部屋の中を見渡す。
部屋は荒らされた様子もない。エルザがクローゼットに押し込まれたときのままだ。
これならばヴェルナーは生きているかもしれない。
そのわずかな望みを胸にエルザは半開きになっている扉を開いた。
「あ……」
そこにあったのはヴェルナーの亡骸だった。
鎧ごと体を貫かれた彼が地面に横たわり、剣を手にしたまま息絶えていた。
エルザは目の前の光景を現実だと思いたくはなかった。だが、目の前のものは間違いなく現実だ。死んだヴェルナー。もう目を覚まさないヴェルナー。その血は赤黒く酸化し、床のカーペットに染みついている。
「ヴェル、ナー?」
エルザはヴェルナーの傍に屈み、そっとヴェルナーの頭を持ち上げて、自分の膝に乗せた。それで彼が生き返ることを望むようにエルザはヴェルナーの生気のない瞳を見つめ続けた。だが、奇跡が起きてヴェルナーが生き返るようなことはなかった。
「ヴェルナー。ヴェルナー。ヴェルナー。ヴェルナー……」
エルザはヴェルナーの顔を手で覆って繰り返す。
「ああ。うあ……。ああああああ──っ!」
エルザはそこで初めて涙した。
現実が彼女に追いついたのだ。
残酷な現実がその手でエルザを掴み、彼女に取り返しようのない悲劇を見せつけた。
ヴェルナーが死んだ。
出世を気にせず、こんな忠誠を誓ってくれた騎士が死んだ。
エルザの頬から涙がぽとぽとと流れ続け、ヴェルナーの乾いた血の付いた顔に流れ落ちる。涙と混じった血は赤黒くなったまま、ヴェルナーの頬から流れ落ちた。
エルザはその薄い化粧が崩れきるまで泣き続けた。
10分、15分、それとも30分? いずれにせよ長い時間、彼女は泣き続けた。
やがてエルザは涙を拭ってヴェルナーの頭を丁重に床に降ろした。
エルザは泣いてばかりではいられないということを悟ったのだ。
まだ城内に生き残りがいるかもしれない。それならば自分が行って安心させといけない。エルザはフリードリヒから留守中のことを任せられているのだ。その義務を王太女としてまっとうしなければならない。
「ヴェルナー。あなたの墓はちゃんと作ります。私たちが出会ったあの庭に……」
エルザはそう告げて歩み始めた。
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