ジュディン・ダイは限界に膨らんだ自分のお腹に隠れた足元を、ゆっくり気をつけながら診察室に入っていった。
「予定日、来週だったね」レディースクリニック院長のサカリナ・ヤンミョンがモニターをベッドに横になっているジュディンに見えるように角度を変えながら言った。
「はい、月曜日」お腹の横に軽く手を添えながら顔だけを動かして答えた。
「うん。まーここまできたら風邪とかほんときをつけてね。来週また寒波くるっていってるし」
「はい」
「お産は、バービー記念病院なんだよね」
「あ、はい」
「うん。それじゃ元気な赤ちゃん産んでね」サカリナ院長がリモコンを操作してベッドを起こした。
「はい」ジュディンは上体が程よく起き上がるとサイドガードを掴んで足をおろしてブルーのクロックスを履いた。「ふう~」と一息入れてから立ち上がった。
「どうだった?」自分と妻の二人分のコートを抱えたホーマック・ダイが、診察室から出てきたジュディンを見てベンチから立ち上がって聞いてきた。パンデミック以降、診察室へは一人しか入れなかった。
「うん。大丈夫」
「そか~」マスク越しの夫の眉はそれでも八の字のままだった。
「さ、行こ」心配顔な犬のような夫に言った。
「うん」
自分より背の低い夫が優しく手を引いてくれるのにジュディンは気分が満たされた。日本のシバイヌの散歩動画を思い出した。
ゆったりとした広さの駐車場に止まっている黒のトヨタ・ヴェンザの助手席ドアをホーマックが開けてくれた。SUVのシートの高さは乗るときよりは降りるときの方で妊婦に圧倒的に楽だった。ホーマックが3ヶ月前にカムリから買い換えたのだった。
「カムリは下取り良いしさ」ホーマックは両手を降りながら「それに今年は雪も多いかもだし」
「やはり車高が高くてAWDというのは心強いですよ」 ディーラーのスタッフが両手を顔の横に広げて話しかけていた。
確かに、駐車場から出て雪の積もった車道を高めの座席からフロントガラス越しに見ると、SUVの履く大径タイヤは頼もしいかもとジュディンは思った。ジュディンは左肩越しに後部座席に取り付けたチャイルドシートを見た。
「また見てるの?」ホーマックが聞いてきた。
「うん」ジュディンは体を前に戻して「今度こそ来てくれるかなって」
「大丈夫、きっと来てくれるさ」
「うん」自分に言い聞かせるようにはっきりと頷いて言った。
ダイ夫婦のトヨタ・ヴェンザは駐車場を右に出てトリニティ記念ストリートを東に走ってロックイヤーサークルに向かった。ラウンドアバウトに入ってからUターンをするようにして反対車線に乗ろうとしていた。
トヨタ・ヴェンザは、ラウンドアバウトに近づくにつれスピードを落としてサークルに進入するタイミングを慎重に伺った。真新しいトーヨーのオールシーズンタイヤがしっかりと四輪駆動の性能を路面に伝えていた。
ホーマック・ダイは十分な余裕を見てヴェンザを右折させた。信号機の無い環状交差点に入るにはドライバー同士のあうんの呼吸が必要だった。制限速度こそ設けていないがサークル内を走る車はおおむね時速三〇マイル前後である。進入車にはそういう前提があった。ホーマック・ダイもそういうタイミングの取り方をしてからアクセルを踏み込んだ。
あうんの呼吸というものは、AIが制御する自動運転車には可能のか?
可能である。そして、人間と同じように学習次第でもあった。
ジョージ・ホチャカの乗るゴリラ・スタイルMはレベル4の自律運転EVであった。ゴリラ社独自の強力なAIチップは短期間でドライバーの情報も学んだ。ドライバーからの訓練により、AIはより賢くなっていく。そしてジョージ・ホチャカの訓練は多くのスタイルMオーナーと同じようにAIにとってはひどく易しいものだった。
レベル4程度の自動運転は、幼児のハイハイの進行方向の危険を親が予め避けておくような過保護なシステムだ。自律にはほど遠い。完全な自動運転車ならばそもそも運転席すら無いはずである。しかし、初めてハンズフリードライブの衝撃を受けたユーザーの多くが、車の性能を過大に見積もってしまいがちになるのもあり得る事だった。
親の口座の五万ドルと引き換えに手にしたゴリラ・スタイルMのドライバーズシートでスマホゲームに課金していたジョージ・ホチャカはその典型的過ぎる例だといえた。
ジョージはAIの支援に依存して普段からスピードを上げる傾向にあった。自動ブレーキによる減速や流れるようなレーン移動は、さすがは時価総額最大の企業が開発したAIの独壇場だった。
その日はFOXニュースのウェザーリポートでやっていたとおりに午後から雪が本格的に降りだしてきていた。路面はあっという間に白くなっていった。白い流麗なボディのゴリラ・スタイルMは雪景色の中に溶け込んだ。
降りしきる大粒の雪は、スタイルMのミリ波レーダーのドームを覆ってった。アリゾナ工場で造られた車体のセンサーには、雪を溶かす機能が備わっていなかった。
“視界”の一部を覆われ前方に障害物ありと判断したスタイルMはブレーキをかけた。積もり始めていた雪に四〇マイル以上出ていた車体を、サマータイヤではコントロールしきれなかった。
反時計回りのサークルの中で、スタイルMも左に急激に回転するように振られた。ジョージ・ホチャカはシートの上で放られる感覚でゲーム中のスマホから顔を上げた。締め付けてきたシートベルトの圧迫に横向きに持っていたスマホを両手から落とした。ABSの出すゴ、ゴ、ゴ、という断続的な音が聞こえた。AIはインモーターに最後まで命令を出してスタイルMを立て直そうとしていた。しかし路面で摩擦を得られず、滝唾へと流される筏のように横向きに滑っていった。
ホーマック・ダイは空転を避けるため、白い路面をタイヤでロックさせるように慎重に進入した。
ホーマック・ダイは本降りの雪の中を横向きに高速で滑ってくる何かをじっくり見てしまった。それが数瞬後に起こす絶望に対する思考が止まってしまった。
スタイルMはトヨタ・ヴェンザの運転席に右側トランクを振り回したハンマーのように突っ込んだ。
ジュディンの顔をエアバッグの衝撃が襲った。右肩の衝撃がサイドエアバッグが吸収する。強力に巻き取られたシートベルトがシートにジュディンを押さえつけた。気を失う前にジュディンの下腹部に鋭い痛みが走った。ジュディンはそれが何の痛みか知っていた。
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