おれたちは地下にある、それぞれの部屋に入って眠りに就(つ)くことにした。毎晩そうしているように今晩も。
リンラとおれの部屋は少し離れている。リンラは村の人全員に育てられたから、幼い頃から自分一人だけの住まいを与えられていた。そこに今でも一人でいる。
そう、独りでいるのだ。ずっと独りだった。
おれの部屋は、リンラの部屋から、三つの家族用の住まいをはさんだ場所にある。おれが来てから新しく掘ってもらったのだ。
土壁も床も、きちんと平らに均(なら)されている。その上から、粘土(ねんど)をぬって固めている。
土器を作るのと同じ粘土(ねんど)だ。土器と違うのは火を通して固めず、自然に乾燥させて固める点だ。
天井には、細い枝を集めて藁(わら)や草から取った繊維で留(と)め付け、さらにその下にも布を張り巡(めぐ)らし、床には三枚くらい重ねてゴザを敷(し)いている。鹿の毛皮もある。これらはここへ来た時にもらった。
天井には、空気を通す穴がある。竹の太さの二倍くらいの穴だ。雨の日や雪の日のために、地上から見たこの穴には、屋根のような物がかぶせてある。風は通すが雨水は下りてこないようにしているのだ。
三畳ほどの部屋で広くはない。個人的な所有物があまりない世界なので、これで充分なのだ。
共有される土器や蓄(たく)えた食べ物は、共用の保管庫や貯蔵室に置いてある。
基本的には、食べ物も他の物もみんなで力を合わせて取りに行くからだ。
おれは特別な存在で、一人で上手い具合に食べ物を見つけ出す能力を女神から与えられた。だから、自分のためだけの物々交換が何回も出来る。
不意に夜中に目が覚めた。時計はないが、たぶん夜中だろうと思う。暗くて、空気抜きの穴から光は落ちてこない。
おれは用を足したくなったのだ。水洗トイレはこの世界にはないが、住居穴から離れた草むらで穴を掘って用を足し、その上には土と匂い消しのための香草を置いておくのだ。
この香草は、この世界に来て始めて見た。かなり強い匂いがする。どんな匂いかと言うと、柚子(ゆず)と薄荷(はっか)を混ぜて強めた感じだ。
元いた世界にあった人工の香りとは違い、すっきりとして安らぐ香りでもあった。ススキを短くした形をしていて、丈夫だからどんどん生えてきていた。
この匂い消し草は、地下の部屋や通路に少しだけ置かれることもあった。たくさん置くと香りが強くなりすぎるので、本当に少しだけが壁から吊るされる。おれは匂い消し草の香りが好きだ。
外にいくらでも乾燥させて置いてある匂い消し草を一つかみ手に取ると、おれは草むらに入った。
事を済ませて土をかぶせ、周りに匂い消し草をまいた。
この草むらの近くには、土器に灰を溶かした水が入れてある。灰汁(あく)と言うのだが、おれはその中に手をひたした。
リンラが、
「ここに手をつけるとキレイになるからね!」
と、言ってくれた。おれのおぼろげな記憶によれば、元いた世界でも古代から中世くらいまでは、灰汁は石けんの原料だったはずだ。灰汁にはそれだけでも洗浄と殺菌の作用がある。
石けんはこの世界にはない。石けんは元いた世界の古代から、灰汁と油脂と水を混ぜ、空気にさらして作っていたと聞いたことがある。灰汁は掃除に洗濯、いろいろ使えて便利だが、刺激か強く手が荒れやすい。石けんにするのは、油脂と混ぜてマイルドにするためだ。
……なのだが、おれは石けんのくわしい作り方は知らない。
しかし、おれは何とかして、リンラのために石けんを作りたいのだ。
古代ローマ人も使っていたこの原始的な石けんを、おれはいつかきちんと作ってみせる!
何回も、試行錯誤が必要だろうな。
おれは少しだけ文明の利器が恋しくなる時もある。だが、直(じき)にそんな気持ちはなくなってゆくだろう。
嗚呼(ああ)、こんなことなら元の世界にいた時に、公民館でやっていた『手づくり石けん講座〜古代ローマ人も使っていた灰と油脂のシンプルで肌に優しい石けんを作ってみませんか』に参加しておけばよかった。
人生何が起こるか分からない。知識と経験は宝だ。
「油脂は、あの鹿の脂肪がまだ氷室(ひむろ)にあるはずだよな」
脂肪は料理にも使うが、溶かして肌に塗り、冬の乾燥や様々な作業での手荒れを防ぐ。
うん? 石けん必要か?
おれごときがこの世界に文明をもたらすなんて、それは驕(おご)りやうぬぼれではないだろうか?
でも、リンラは喜んでくれるかも知れない。できた石けんには、匂い消し草を混ぜようか。そうしたら、匂い取りと洗浄と香り付けが一度でできる!
洗濯にも土器洗いにも、掃除にも使える! 体を洗うのにも!
灰汁と油脂の石けんはとてもマイルドらしいから、リンラの手が荒れる心配はもうないだろう。
そのススキみたいな香草を持っていたので、手にその香りが移っている。柚子(ゆず)と薄荷(はっか)の香り。目が覚めるような爽快(そうかい)な香り。
これから二度寝するのにな、と思いつつ、おれはその香りが好きだった。
見れば、東側の空の片すみで太陽の光が見え始める。
「もう、夜明けか」
その明るい空を見ていたら、また地下に戻って眠る気は失せた。そうやって空を眺めていると、
「アイルーン、もう起きていたの?」
リンラが起きてきた。銀色の髪が朝日に輝く。長く伸びていて、ゆるくウェーブした髪がとてもきれいだ。
濃いめの褐色の肌によく映(は)えている。あざやかな緑の目もくっきりと大きくて、その目がおれを見つめている。
「リンラ。リンラも早いじゃないか」
「アイルーン、何か考え事していたみたいだね」
「ああ、そうなんだよ。なあリンラ。おれは石けんを作ろうと思うんだ」
リンラは目をぱちくりさせて、
「石けんってなに?」
と、聞いてくれた。
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