おれも含めて村人六人がかりで鹿を運んできた。幅の狭い丸木橋は渡れないが、川は浅いから橋を使わずとも向こう岸まで行ける。足を太ももまで水に浸(つ)けながら、即席の担架(たんか)に乗せた鹿を運ぶ。
秋の川の水の冷たさが、まくり上げた服の裾(すそ)にまで染みてくる。草編み靴は脱いで、担架を担いでいない側の肩に紐(ひも)で吊るして運ぶ。
村がある側の川辺に上がってから、おれたちは担架を下ろし、ざっと足を拭いて、また草編み靴をはいた。草編み靴は柔らかくて足に優しいが、同時にとても丈夫で、しっかりと足を守ってくれた。元いた世界にはなかった、特殊な草のように思えるが、ここではその辺にいくらでも生えているただの草だ。
村に戻ると、リンラは喜んで再び出迎えてくれて、村の他の女たちと一緒に鹿の皮を剥(は)ぐ準備を始めた。おれが持っている物と同じ黒曜石のナイフが用意され、手入れされる。黒曜石ナイフは、本当にいろいろな用途に使えるのだ。
それにしても、おれはまだ、こうした生々しい光景に慣れないのだった。
だが慣れなくてはならない、と思っている。元々の世界でも、肉を食う時には何かの生命をもらっていたのだ。それをはっきりと見るか、見ないで済ませていたかの違いでしかない。
「アイルーンは赤い血が苦手なんだね」
リンラはおれを見ておかしそうに笑う。おかしい、か。そうだな、この世界の常識ではおかしいのだろう。
「そうだな、まだ見慣れないから、だな。でも慣れるようにするよ」
「魚を卸(おろ)すのは平気なのに、変なの」
リンラは、鹿の皮を器用にはぎ始めた。おれは目を逸(そ)らさないようにする。
「おれは、魚なら、まあ割と慣れてる、と思う」
転生前の個人的な記憶は、やや薄らいでいた。それでも思い出せる部分もある。元いた国では、魚を殺して捌(さば)くのには比較的抵抗の少ない、そんな風潮だった。
確かに変と言えば変だ。どちらにしても、おれたちはそれを食うのである。そこに何の違いがあろうか?
「赤くて温かい血が流れるのが駄目なんでしょ? 人間と似てると思ってる。そうじゃない?」
「うん……。そう、かも知れない」
そうか、温かい赤い血。それが原因なのか。自分では気が付かなかった。
リンラは鹿から流れる赤い血も、土器の皿に受けて無駄にはしないようにしている。それは別の深い土器に水と一緒に入れて、野生の山芋や山菜と共に煮た。山芋と山菜はリンラたち、村の女が北の森で採(と)ってきた物だ。煮込んだ血は肝吸いの肝のような薄味で、決して生臭くはなかった。
鹿の解体と血の煮込みの調理が一通り済むと、リンラはおれに言った。
「肉は日に干して、煙(けむり)でいぶして干し肉にするから。半分くらいを、となりの集落まで持っていってね。塩や魚醤(ぎょしょう)と交換してもらうの」
その集落は海の近くにある。ここから小さな山一つ越えた先だ。魚醤とは、小魚を発酵させて作った調味料だ。
「リンラは付いてきてくれないのか?」
「付いてきて欲しいの?」
リンラはいたずらっほく目を輝かせる。
「え? そりゃあ、危険な道のりでもないし、ここから近いし。朝に出かけたら、日が暮れるまでに帰って来られるだろう?」
何だよリンラ。付いてきてくれよ。おれは内心でつぶやく。
この楽園のような世界では、日々の糧のためにあくせく働く必要はないのだ。さして忙しくもない日々を毎日送っている。一緒に来られないはずはなかった。
「交換のための交渉が上手くいけばね、早く戻れるけど」
「そう、その交渉だよ。リンラの可愛さなら交渉も捗(はかど)るだろうなって」
それはお世辞ではなかった。心からの言葉だ。
こちらの世界の人々は皆見た目が良いのだが、それでもリンラの美少女ぷりは群を抜いていた。
「アイルーンだって、大丈夫だよ。悪くない顔してるもん、そこそこは」
おれはそれを聞いて、うれしいより気恥ずかしい気分だった。
「いや、そうかな?」
「そうだよ! でも浮気しないでね」
リンラは急におれがびっくりするようなことを言ってきた。
「う、浮気って!?」
思わず声が裏返ってしまう。我ながらここまで動揺しなくてもいいじゃないかと思ってしまう。
「冗談だよ。でもアイルーンが女の人と仲良くしてると、ちょっと妬(や)けちゃうよ」
リンラは少しだけ真剣なまなざしをしていた。
や、妬ける?
そんな。おれは浮気なんて出来るほど器用でもモテもしないぞ?
そこは向こうの世界にいた時と変わらない。
容姿について言えば、おれはこちらの世界では珍しい黒髪黒目である。銀髪は妖魔だけの特徴ではなく、人間にも銀髪の人はいる。ただ、どちらかというと黒みがかったいぶし銀の色で、リンラのように白銀に輝く髪はやはり珍しいようだ。
他には金色や明るい茶色の髪が多い。目の色は緑や茶色が大半だ。黒髪黒目はいないわけではないが、とても少ないのだ。
珍しいと言っても、幸いなことに、それが人から避けられる原因にはならなかった。だけど、自分が人を惹(ひ)き付けるほどの外見とも思えない。
見れる顔、なのか? おれは。
どっちにしろ、リンラがそう言ってくれるのは嬉しかった。
「じゃあ、明後日(あさって)干し肉ができたら一緒に行こう」
リンラは、うんと言ってくれた。
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