「え! 巫女さんが、あちらの世界に?」
おれは驚(おどろ)いた。
「そうですよ。色々な物を見てきました」
「あ、あの」
この世界から、いきなり向こうに行ってしまったなんて! カルチャーショックとか、怖い目にあったりとか、なかったんだろうか。
「怖いとは思いませんでしたよ。皆さんによくしていただきました」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。ただ、こちらの世界とは時間の流れが全く違うようですね。向こうでは、もう千年以上たってしまったようです」
「せ、千年?!」
おれは心底驚いた。それなら、今の元の世界はどうなっているんだ? ひょっとして、SFみたいな未来社会になってしまっているのか?
おれは別に元の世界に戻りたいとは思わない。それでも何とも言えない寂(さび)しさを感じた。もう元の世界はないのだ。おれが知っていた世界は、もう過去のものになってしまったのだ。
「アイルーン、元の世界に帰りたいの?」
「まさか、リンラ。そんなわけがないだろう」
「帰っちゃやだよ。絶対に嫌だからね!」
おれはリンラが泣いてしまうのではないかと心配になった。幸い、リンラは泣きはしなかった。
「絶対に駄目だよ」
「大丈夫だよ、リンラ。戻りたいとは思わない。おれにはここが、本当の居場所なんだ」
「よかった!」
リンラはにっこりした。やれやれ、機嫌(きげん)直してくれてうれしいけど、気分の変わり方が早すぎやしないか?
第一、今さら戻ったところで、近未来SFの世界に異世界転移した男みたいになるだけだろう? そんな大変そうなのは、おれは絶対にゴメンだね。
「そうだ、巫女さん。珊瑚(さんご)は持っていますか?」
「あるけれど、何と取り替えてほしいのかしら」
「えーと、今ここにはないんですが。何とだったらいいですか」
「そうね、これは貴重な品だから。山にある翡翠(ひすい)となら交換してあげるわよ」
翡翠と? これは難題だな。
それにしても、山に行ったら「珊瑚となら交換してやろう」と言われたらどうしよう?
おれはそんなことを考えたが、すぐに、地元の村で翡翠を持っている人と交換してもらったほうが楽そうだなと思い付いた。
山の奥まで行かなくていいし、取り引きが成立しなくて残念な気持ちになることも避けられる。
「今度来る時には翡翠を持ってきます」
おれは断言した。何とかして翡翠を手に入れるつもりだった。緑の翡翠より、桃色の珊瑚の方がリンラにはふさわしく思えた。
「ありがとう、アイルーン」
リンラはもういらないとは言わなくなった。その代わり、とても嬉しそうな顔をしていた。
「塩と魚醤(ぎょしょう)以外で、村で翡翠と交換してもらえそうな物は何かな?」
「塩と魚醤はみんなで分け合うからね。鹿を見つけたのはアイルーンだから、アイルーンの取り分は一番多いけど」
「そうか! その多い分と交換してもらえばいいんだ」
「そうだね、たぶん。取り引きしてもらえたら、だけど」
おれはすっかり良い気分になった。これでリンラに翡翠か珊瑚をプレゼントできるぞ!
「リンラ、海のそばに行きたいか?」
「やっぱり今は止めておくよ」
リンラとしては、おれが珊瑚をプレゼントするつもりなので、完全に気を良くしたのだろう。海を見たいとはもう言わなかった。
おじさんに言われなければ、妖魔にとって潮風や海水が害になるかも知れないとは、おれも考えつかなかっただろうけれど。
おれたちは、おじさん夫婦と巫女さんたちにサヨナラを言って、元来た道を戻り始めた。背後から土鈴(どれい)の鳴る音がした。おれたちを見送ってくれているのだと分かっていた。
リンラは振り返ってもう一度サヨナラを言った。おれは振り向かなかった。もう鈴の音の見送りにも慣れていて、また今度も来られると分かっていたからだ。
ただ、巫女さんが見送ってくれたのは今回が初めてだ。たまたま通りがかっただけなのだろうか。
「ね、アイルーン。海の近くの集落も良いところだったね」
リンラは満足そうな笑顔だ。
「そうなんだよ。ここへ来てから、嫌な人には一人も出くわさない。何もかもが優しく、何もかもが心地良い。本当に、なんてありがたいんだろう」
元いた世界を、おれはあまり思い出さないようにしていた。ここは平和でいい。争いもなく、否定されることも、馬鹿にしてくるヤツもいないんだ。
おれは元の世界に戻りたくなんかない。だいたい、巫女さんが言うとおりなら、今さら戻ったところで、もう元の世界はないのだ。まるでタイムスリップでもしたような気分になるだろう。あるいは浦島太郎か。
おれなら玉手箱を開けたりはしない。そのままどこかに埋(う)めて隠す。でなければ、厳重に封をした上で海に投げ込んでしまえばいい。
仮に元の世界に戻ったらどうなるのか? 日本も元の日本ではないかもしれない。
元いた世界でおれは、上から目線の金持ちの外国人と、アルバイトで話をしたことがある。
そいつはおれに、「チップをやるから向こうの事務所まで十人分のパスタを持ってこい」と言ったのだ。
おれはていねいに、「チップは受け取れません。店内でのご飲食か、お持ち帰りのみでございます。ご容赦(ようしゃ)くださいませ」と伝えた。
だがその上から目線野郎は、とにかくカネは出すから持ってこいと言って聞かない。店長に相談し、今回だけ特別に、ということでおれは持っていった。とても立派な事務所だった。シャワールーム付きで、ここに泊まりてえと思うくらいの。
おれはチップをもらったが、カネのことしか頭になさそうな、その上から目線野郎を思い出すと今でもムカついてくる。
この世界にはカネはない。上から目線野郎もいない。おれは元の世界に戻りたくはない。ここでずっとリンラといっしょに、平和に暮らしたい。それがおれの望みだ。それこそが、おれの望みなんだ。
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