人目を気にしながら睡魔の話を聞くのは寛を後ろめたい気持ちにさせた。しかし、寛には緋咲家というバックボーンが有るから良いが、睡魔や莞爾は立場が微妙なのだ。そもそも、睡魔は寛がそうであるように、自分のことを語りたがらない。寛が知っているのは睡魔が鈴宝院家に仕える諸家の出身だという事くらいだった。
「睡魔さんの苗字……」
「朧家がどうした?」
「その名が……稲邪寺では禁忌になっています。ですから、稲邪寺では誰も睡魔さんのことを朧と呼びません」
「!?」
寛は耳を疑った。
莞爾の言うことが事実なら、睡魔の家は存在しないという扱いを受けている。そして、考えてみれば……確かに蛮堂泰斗や莞爾を含め、睡魔を苗字で呼ぶ者を見たことが無い。
「何故……朧家は禁忌の扱いを受けている?」
寛は戸惑いと怒りを押し殺しながら尋ねた。睡魔本人や家族からそんな話を聞いたことは無い。今更ながら、寛は言いようのない疎外感に包まれた。
莞爾は寛の気息を計りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは……朧家が一度、鈴宝院家を裏切ったからです」
「裏切った!?」
寛は足下の地面がグラグラと崩れ落ちる感覚に陥った。そして、寛の脳裏を睡魔の笑顔が掠める。あの笑顔の裏で、睡魔は苦悩を抱えていたのだ。それに気づかず睡魔に接していたかと思うと、寛は自分が憎い。
「朧家で帰参が許されたのは睡魔さんだけです。睡魔さんは……実家の信頼を取り戻す為に必死なんです」
山門に設置された巨大な木彫りの仁王像が寛と莞爾を見下ろしている。
石の階段を前にして寛は足を止めると莞爾を睨んだ。
「……莞爾。何故、今その話をする?」
普段の寛は莞爾を決して呼び捨てになどしない。それだけ思考が混乱し、心の針が怒りに傾いているという証拠だった。
「……醜聞ですが……今、鈴宝院家は二つに割れています。」
「……」
「一つは幼子である臣様の派閥。もう一つは、臣様が幼いことを理由に鈴宝院家の当主交代を目指す派閥」
「当主交代だと!?」
莞爾の話は初耳だった。
「ええ……。鈴宝院家は二つに分かれて派閥争いを繰り返しています。朧家は臣様を擁護し、当主交代論を厳しく糾弾していました。ですから、謂れの無い汚名を着せられ……稲邪寺を追い出されたのです。戻れたのは、坊っちゃん……いえ、寛様の許婚である睡魔様だけです」
「……何故、そんなデタラメが罷り通る?」
莞爾の話が本当なら、睡魔や朧家への迫害は不当で理不尽極まるものだ。
「それは……つまり……」
莞爾は言葉を濁した。
「莞爾さん、教えてくれ。……頼む」
寛は努めて冷静に聞いた。
「鈴宝院家の当代を狙う派閥の領袖……それは、稲邪寺の警備主任である唐島碧と……寛様の御父上である緋咲兵衛様だからです」
「!!??」
寛は心が千々に乱れ、言葉を失った。
鈴宝院家の諸家に生まれた者は幼少期より鈴宝院家に対しての忠誠を叩き込まれる。寛も例外ではなく、両親から鈴宝院家に対する絶対の忠誠と貢献を教え込まれた。
しかし……。
今はその父親が鈴宝院家の当主交代を目論んでいるという。
「寛様。惹キ神の討伐を手土産に、一刻も早く稲邪寺へお戻り下さい。我が黒鉄家はもちろん、諸家は寛様のお帰りを心待ちにしております」
そう言うと、莞爾は深々と頭を下げて寛を見送った。
× × ×
駐車場へと来ると、睡魔は泰斗たちと一緒に警備員室で寛の帰りを待っていた。
「どうだった? 上手くいった?」
「ああ……ちゃんと莞爾さんと会えたよ」
「そっか……良かった。じゃあ、帰ろう」
心配そうに聞いて来た睡魔は寛の返事を聞くと、深く尋ねることをせずに軽自動車へと乗り込んだ。その姿に、寛は睡魔の細やかな気遣いを感じた。
寛が助手席に座ると、窓がコンコンと叩かれた。見ると、蛮堂泰斗が真剣な顔をして立っている。寛が車窓を開けると、泰斗は顔を近づけ、小声で囁く。
「寛さん、早く稲邪寺に戻って来て下さい。俺たち、覚悟は出来てますから」
意味深な言葉を告げると、泰斗は警備員室へと手で合図を送った。
シャッターが開閉音と共に上がり始める。
程なくしてシャッターが開ききると、軽自動車は稲邪寺の外へと向かって動き始めた。
× × ×
嫌な夢を見た。
ひどく印象深かった筈なのに、夢の内容が上手く思い出せない。
起き上がると寛は額の汗を拭った。隣では睡魔が静かな寝息を立てている。
白い羽根布団から覗く睡魔の細い右腕には梵字のタトゥーが彫り込まれている。それこそ、睡魔の鈴宝院家に対する忠誠と貢献の証だった。
──どんな気持ちで、退魔のタトゥーを……。
そう思うと、寛は居たたまれなかった。今の稲邪寺は睡魔の忠誠を踏みにじり、侮辱している。寛は自分もその一員である気がしてならなかった。
そもそも、寛と睡魔は家同士が決めた許婚だった。
緋咲家の長男と、朧家の一人娘。家同士が決めた婚約であったが、幸運にも、寛と睡魔は互いに想い人となった。
きっと、許婚でなかったとしても、睡魔と出会ったなら恋に落ちていただろう。寛は本気でそう思っていた。
しかし、あろうことか、今は自身の父親が睡魔の一族を稲邪寺から追いやったと言う。その事実を睡魔は最後まで寛に告げなかった。
寛は自身の無関心を呪うばかりだった。
──睡魔はどんな気持ちでタトゥーを入れ、どんな気持ちで俺と肌を重ねていたのだろう。
寛は現実こそが酷い悪夢のように思えた。
寛はベッドからそっと出ると、その筋肉質な身体にジーンズを穿き、長袖のインナーを着込んだ。そして、シャツを羽織ると睡魔を起こさないように物音に気を付けて寝室を後にする。
静かに寝室の扉が閉まり、寛の気配が消えると、睡魔はゆっくりと目を開けた。
睡魔は寛の寝ていた場所にゆっくりと手を伸ばした。シャンプーの残り香と、いまだ温もりの残るシーツに触れて睡魔は再び目を閉じる。
「……わたしはもう……緋咲の女……」
か細い声で言うと、睡魔の瞼の隙間から、一筋の涙が零れ落ちた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!