彼は誰時。
まだ薄暗い明け方の相良川の土手に一台の軽自動車が停まった。
軽自動車から降りて来たのは寛だった。
グレーのダウンジャケットを着た寛は、後部座席に置かれたショルダーバッグからコルト・ガバメントを取り出し、寒風が吹き荒ぶ川縁へと歩を進めた。
辺りに人の気配は全く無い。遠く見える工場の煙突から出る煙は強風で横へと流されている。
茶色に枯れ、背が低くなった草を踏みしめながら寛は無造作に歩いた。
やがて……。
小さな雑木林が見えてくると、寛は足を止めた。そこは、シゲさんの遺体が発見された場所からそう遠くない場所。睡魔が『惹キ神』が出ると教えてくれた場所だった。
立ち止まった寛はシゲさんとの会話を思い出していた。
髪を切る間の何気ない会話。その中で、シゲさんは「朝方に相良川の周辺を散歩する」と言っていた。
この場所は、シゲさんが言っていた散歩コースの途中にあたる。
日の出が迫り、辺りは明るくなってきているが、眼前の雑木林はその暗さを増している。寛には、そう見えた。
「……居るんだろ? 出て来いよ……」
誰に言うとも無く、寛は呟いた。
その声が聞こえたのか……。
寛の前にぼんやりとその『姿』は浮かび上がった。
丁度、雑木林と枯れ野の境界に子供を連れた女性が立っている。女性は三十代の中頃だろうか。黒髪で赤のセーターを着ており、どこか思いつめた表情で、生気が全く感じられ無い。そして、右手と左手はそれぞれ男の子と女の子と思しき幼子と繋がれていた。
スゥっと、雑木林の暗がりから突然に湧いて出た親子に寛は目を細めた。
「……こんな所で何してる?」
寛の言葉に女性は一瞬だけ顔を上げた。しかし、次の瞬間には子供たちと手を放し、雑木林の暗がりへと踵を返して消え去った。子供たちも女性の後に続いて、雑木林の中へと溶け込む。
──人じゃない。
寛はそう確信した。人が歩く時に見られる肩の上下運動が全く無かったのだ。何より、寛自身が親子から人ならざる気配を感じ取っていた。
「……今、行ってやるよ」
まるで誘うかのような女性と子供たちの態度に、寛は意を決して雑木林へと向かう。コルト・ガバメントを握る右手は寒さで赤みが差していた。
『惹キ神』をこの手で倒し、シゲさんの仇を討つ……その一念で頭が一杯だった寛は、一つ大事なことを忘れていた。それは、寒さの中ではガスガンの威力が極端に低下するということだ。
× × ×
雑木林の中は先程までの強風がまるで嘘のように已み、静かだった。
冷たく乾いた空気が歩を進める寛を包み込む。
サラサラ、サラサラ。
枯れ木の隙間からは相良川の流れが見える。
人が通った後なのだろう。林道を少し進むと、相良川に面して少し開けた場所に出た。そして、そこに女性の姿が在った。女性は再び子供たちと手を繋ぎ、川面を見つめている。その後ろ姿に寛は陰鬱な気配を感じ取った。
「……よお。ここで何してる?」
寛の呼びかけに女性はぴくりとも反応しない。
「何をしてる? って、聞いてんだよ!!」
寛は強い口調で言いながらコルト・ガバメントを構えた。
寛が女性に銃口を向けた瞬間。
女性の首から上だけがゆっくりと動き始めた。
ギッ、ギッ、ギッ、と機械音でも聞こえてきそうな歪で不規則な動きをしながら、女性の頭が回転している。その光景に、寛は迷わず引き金を引いた。
パシュッ。
パシュッ。
パシュッ。
しかし、銃口から放たれたBB弾はさほど飛ばずに、力なく地面に落ちた。寒さの為に、マガジン内部の液体ガスが気化しにくくなり、BB弾を射出する圧力が弱まっていたのだ。
「!?」
寛は自身の不手際を悟り、後悔した。
刹那。
女性の顔が、寛の眼前に迫った。
それこそ、目と鼻の先。
虚ろな目、ダランと呆けたように開いた口……女性は空間を飛び越えたかのように寛の懐へと侵入していた。
「ッッ!!??」
足と腰から一斉に力が抜ける感覚がしたかと思うと、寛は地面に転がった。
仰向けに倒れた寛を押さえつけるように女性……いや、『惹キ神』は跨った。
寛は精一杯の抵抗を試みるが、手足の自由が全く利かない。まるで、万力で挟まれて固定されているかのようだ。
惹キ神は細かく顔を振りながら寛の耳元へ口を近づける。その口から伸びた舌がチロチロと蠢き、寛の耳へと侵入してゆく。途端に、寛の両眼は大きく見開かれ、血走り、涙が溢れ出た。そして、口からは涎が止め処なく溢れ出る。
舌の侵入と比例するように、寛の鼻の両穴からは大量の血が流れ出た。
脳幹に長い針を打ち込まれるような鋭い痛みと、異常な速さで脈打つ鼓動。
激痛、恐怖、そして絶望に支配され、寛は失禁し、ピクピクと小刻みに震えることしか出来なかった。
その時。
ザッ!!
枯草を力強く蹴る音がしたかと思うと、梵字のタトゥーが施された手が、惹キ神の髪を掴み、寛から引き離した。そして、意表を突かれた惹キ神の顔を鷲掴みにする。惹キ神はその場に両膝を着き、身動きが取れなくなった。
「ゲホッ、ゲホッ!!」
惹キ神が離れると、寛は嘔吐きながらやっとの思いで頭だけを上げた。見ると、手の主は黒髪で黒のアワードジャケットを着ている。
薄れゆく意識の中で見慣れた背中を確認すると、寛は安堵して気を失った。
× × ×
「波打つ甍に仇なす怨敵よ。現世の理にて汝を裁かん!!」
睡魔が力強く言葉を紡ぐと、惹キ神を捉えた手の甲に掘られた梵字がうっすらと黄金色に輝く。睡魔の右手はバチバチと小さく放電し、その五指が惹キ神の顔へとめり込んだ。
指先まで漲る力を感じると、睡魔はその手を思い切り、握り締めた。
「ア゛ア゛ア゛ーーー」
惹キ神は静寂を劈く断末魔を上げて霧散した。
惹キ神の顔を握り潰し、その姿が消滅したのを視認すると、睡魔は振り返った。背後では寛が倒れたままだ。その顔は涙と涎、鼻血に塗れている。そして、ジーンズの股間が濡れていた。
生死の境目を見た寛は無惨な姿を晒して倒れている。睡魔は小さくため息を吐きながら再び視線を前へと戻した。そこには取り残された幼子の惹キ神が、ジィっとこちらを見ている。幼子たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
睡魔はアワードジャケットの内側に手を入れ、そこから小さなガラス瓶を取り出した。ガラス瓶の中には霊木を燃やして作られた灰が入っている。それは、除霊の効果があるものだった。
「……お母さんの所に行こうね……」
柔らかな声で言うと、睡魔は小瓶の中の灰を幼子たちに向かって撒いた。
灰はサラサラと幼子たちに降りかかる。すると一瞬だけ強い光を放ち、幼子たちは掻き消えた。
「……ごめんね」
幼子たちの残影に小さく呟くと、睡魔は寛の所へと戻った。
相変わらず、寛は気を失い、醜態を晒して倒れている。
睡魔は無言で、寛の手を引いた。
「「手伝いますよ、睡魔さん」」
そう言いながら木立の中から現れたのは莞爾と泰斗だった。
寛が出発してすぐ、睡魔は莞爾と泰斗に連絡を取り、惹キ神の出現地へと向かっていたのだ。
睡魔はプライドの高い寛が、同道を許さないと自覚していた。だから、黙って後をつけることにしたのだ。結果として、その行動は正解だった。寛の行動を黙認していれば、今頃、寛は死んでいる。
「……有難う」
莞爾と泰斗が寛に肩を貸すのを見て、睡魔は短くお礼を言った。
寛は莞爾と泰斗に両肩を支えられ、引きずられるようにしてその場を去って行く。
そんな寛の背中を見ていた睡魔の口が動いた。
「話さなかったんじゃない……あなたが弱いから、話せなかったの……」
雑木林の中は寒風と朝の強い光を取り戻しつつあった。
睡魔の独り言は樹々の騒めきの中へと消える。
アワードジャケットのポケットに両手をしまうと、睡魔は三人を追った。
× × ×
稲邪寺にある医務室のベッドで寛は目を覚ました。
トランクス一枚で目覚めると、寛は自身の置かれた状況に愕然とした。
「とりあえず、シャワーでも浴びてきたら……」
医務室の扉の横に、睡魔が腕を組んで立っている。睡魔はウォールシェルフからバスタオルを取ると寛へ投げ渡した。
睡魔は寛を救った時と同じく、アワードジャケットにジーンズ、そして黒革のブーツを履いている。
「あ、ああ……」
寛は睡魔を正視できなかった。惹キ神を倒すと息巻いて、惨憺たる結果になり、醜態を晒したのだから、当然だ。自身の無力を痛感した寛はただ、俯くことしか出来なかった。
「頭と身体に惹キ神の影響は見られないって……じゃあ、わたしは唐島さんに報告が有るから……」
憔悴する寛を見かねたのか、睡魔はそう言い残して医務室を後にした。
× × ×
熱いシャワーを頭から浴び、乾いた涙と血を洗い落とす。
身体を伝う温水は、不安や恐怖といった残穢を優しく洗い流してくれる。
生きている心地を取り戻すと、滴り落ちる水滴の中で寛は目を開けた。
今頃、睡魔は事の顛末を稲邪寺の警備主任である唐島碧に報告しているだろう。そして、謂れの無い叱責を受けているに違いない。
シゲさんの仇も討てなければ、窮地に追い込まれて睡魔に救われる。寛は惨めでしょうがなかった。余りの悔しさに、溢れ出た涙が、温水と共に流れ落ちる。全ては、自身の不甲斐無さが所以だ。
「惹キ神なんて、一人でどうとでもできる」と高を括り、楽観視していた。その甘さが慢心ともいえる油断を招き、このザマだ。これでは睡魔を守るどころか、これから先、自分の身すら守れないだろう。
寛は前方を睨んだ。
──覚悟が足りない……。
『幽霊狩り』も稲邪寺での『権力闘争』も相手がいる。その相手を憎み、見下し、徹頭徹尾、痛めつける。その覚悟が自分には決定的に欠けていると寛は思った。
「もっと徹底するんだ……」
寛は呟いた。しかし、その決断の言葉を拾う者など居ない。言葉は水滴の落ちる音と同化して消えた。
人はどこかで他人に優しくありたいと願うものだ。
他者を労り、その気持ちに想いを馳せる……。寛はこの日、その人間として大切な憐憫の情を捨てた。『護りたい者とそうでない者』。その選別を明確にし、線を引いたのだ。つまりは、護りたい者以外は全て敵。
敵。
敵。
敵。
敵は全て憎むべき存在であり、攻撃対象だ。
愛しい存在を守れる程強くなる為には、単純に考えることが最も重要で近道だと、寛は考えた。
× × ×
寛はシャワー室から出ると、真っすぐに、駐車場へと向かった。幸いなことに莞爾や泰斗が駐車場の警備担当では無かった。寛は警備担当から車の鍵を借りると、エンジンをかけた。
睡魔や莞爾、泰斗に礼すら言わずに稲邪寺を後にするのは後味が悪い。それでも、寛は車を発進させた。今の自分がいくら言葉を並べた所で、睡魔や莞爾、泰斗には響かないだろう。今の自分は感謝の言葉ですら軽薄に聞こえるはずだ。
ならどうするか?
答えは簡単だ。
行動で見せれば良い。
──もうそれしか睡魔たちの信用を取り戻す方法は無い。
と、寛は思いつめていた。
バックミラー越しの稲邪寺の門扉が遠くなる。
寛は惹キ神と対峙して転んだ時に傷ついてヘコんだシガレットケースを取り出した。そして、覚束ない手つきでタバコに火を点け、煙を深く吸い込んだ。
──何もかもがクソだ。
車内に独特の甘ったるい匂いがたちこめると、寛はアクセルを踏み込んだ。
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