シルバーブラスト

水月さなぎ
水月さなぎ

憎悪の炎7

公開日時: 2021年4月16日(金) 15:28
文字数:4,259

「トリス!!」


「っ!?」


 幼い声が耳に届く。


 壊れた心に嫌というほど響いてくる声。


 彼が唯一護りたいと願った少女の声だった。


「イーグル、退がってっ!!」


「マーシャちゃんっ!?」


 いつの間にかトリスの背後に回り込んでいたマーシャはイーグルを蹴飛ばした。


 小さな足であっても、亜人の蹴りだ。


 何の防御も出来ないまま喰らえば、イーグルであっても後ろに飛ばされる。


 口で言ったところで退がってくれるとは思わなかったので、実力行使に出ることにした。


 そしてトリスへと反転する。


 トリスはイーグルへと攻撃するところだった。


 胴体を狙った突きは、身長の低いマーシャが相手だと肩に命中した。


「ぐっ!!」


「っ!?」


 右肩に突き刺さったナイフを受け止めるマーシャ。


 トリスを止める為にある程度の攻撃は喰らうつもりだったが、これは痛い。


 刃物で刺されるのは初めてだった。


 焼けるような痛みに、それでも耐える。


 今のトリスが味わっている心の痛みは、こんなものではないと分かっていたから。


 そしてこれこそがトリスを正気に戻す唯一の手段だと確信していたから。


 ぐらりと倒れるマーシャ。


 トリスも一緒に倒れた。


「あ……あ……」


 トリスの目に光が戻ってくる。


 傷ついたマーシャを見て、震えている。


「トリス……」


「マーシャ……ごめん……僕は……」


 絶対に護りたかった。


 絶対に傷つけたくなかった。


 それなのに、こんなにも深く傷つけてしまった。


 深々と刺さったナイフを見て震えている。


「いいんだ。正気に戻ってくれて良かった」


 マーシャはそんなトリスを抱きしめる。


 倒れたまま、自分に覆い被さっていたトリスを抱きしめた。


 右腕は動かないので、左腕だけで抱きしめた。


 震えるトリスを宥めるように抱きしめ続ける。


 銀色の瞳にはただトリスへの労りがある。


「違うよ、マーシャ。僕は本当は……」


「分かってる。でも、いいんだ。私は今のトリスが好きだからな。戻ってきてくれて良かった」


「………………」


 心を壊して、正気を失っていても、奥底の部分ではきちんと正気を保っていた。


 イーグルのことだって、本当は認識していた。


 ただ、表に出ている正気を失った自分を止められなかったのだ。


 駄目だと思っていても、狂気に支配された自分をを止めるつもりはなかった。


 セッテを殺すまでは、狂気に支配されていた方が都合がいいからだ。


 そんなトリスの思惑を見抜いていた。


 それでもマーシャはトリスを責めない。


 優しすぎるこの少年をそこまで追い込んだ相手こそを憎んだ。


「私だけが、トリスを取り戻せる。そう思ったから、こうしただけだ。後悔なんてしてないよ」


「でもっ!」


 マーシャに後悔はないのかもしれない。


 だけどトリスはそうもいかない。


 マーシャを傷つけてしまったことは一生の後悔として残る。


 一生自分を苛み続ける。


 たとえマーシャが意図的にそうしたのだとしても、トリスは自分を許せないだろう。


「いいんだ。その後悔が、その負い目が、トリスを繋ぎ止めてくれるのなら、無駄にはならない」


「………………」


「帰ろう。私達の家に」


「………………」


 マーシャがそう言うと、トリスは泣きながら首を振った。


「駄目だ。まだ帰れない」


「トリス」


「駄目なんだ、マーシャ」


「どうして?」


 血を失いすぎたことで意識が朦朧としてきたマーシャはトリスに問いかける。


 理由があるのは分かっている。


 だけど、それでもトリスを繋ぎ止めておきたかった。


 ここで手を離してしまったら、トリスは二度と戻ってこない。


 そんな気がしたから。


「ここに、みんながいる」


「え?」


「あの向こうに、アレスや、トリエラ達がいるんだ」


「な……」


「僕は彼らをあのままにはしておけない。人の形すら、保っていなかったんだ。絶対に取り戻して、きちんと弔う。そしてあいつは殺す。そう決めたんだ」


「………………」


 仲間達の遺体がここにある。


 それはマーシャにとっても心穏やかではいられない事実だった。


 人の形すら保っていない。


 それは切り刻まれて、標本にされたということだ。


「………………」


 トリスがどうしてあそこまで正気を失っていたのか、ようやく理解した。


 自制心の強いこの少年にそこまでの衝撃を与えたのだから、生半可なことではないだろうと思っていた。


 少なくとも、自分のことだけならば、トリスはここまで暴走したりはしなかっただろう。


 仲間をそんな目に遭わせられたからこそ、正気を失ったのだ。


 そしてその事実はマーシャにとっても他人事ではない。


 このままにはしておけないという意見にも賛成だ。


「私も行く。手伝う」


「駄目だ」


「行く」


「駄目だ」


「なんで……」


「今すぐ治療しないと命に関わる。急所は外しているといっても、さっきから出血量が半端じゃない」


 トリスは心配そうにマーシャの右肩を見ている。


 自分が刺した傷だ。


 本当ならナイフを抜いてしまいたいが、そうしたら出血量が更に増える。


 今すぐにきちんとした治療をしないと失血死してしまいかねない。


「……自分でやった癖に」


 マーシャがちょっぴり恨めしそうな声を出す。


 この件でトリスを責めるつもりなどなかったのだが、その所為で大事なところで置いて行かれるのは恨めしいと思ったのだ。


「ごめん……」


 ずしーん……という効果音が似合いそうなぐらい落ち込むトリス。


 これ以上責めたら自殺しかねないほどの落ち込みようだった。


「そ、それは別にいい。いいから。だから落ち着け」


 これには刺されたマーシャの方が焦ったぐらいだ。


 同時に呆れている。


 こんなに優しくて繊細なのに、怒り一つであそこまで荒れてしまう。


 何とも不安定な少年だった。


 トリスはマーシャを抱えてからイーグルの方に向き直った。


「イーグル。本当にごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げるトリス。


 下手をすればイーグルまで殺していたことを、トリスは自覚している。


 イーグルがもう少し弱かったら、確実にそうなっていた。


 トリスは『人間』を許せないと強く感じていたから。


 本当に申し訳なさそうにしているトリスを見て、イーグルの方が居心地悪そうに頭を掻いた。


「気にするな……と言いたいところだけどな。マジで死ぬかと思ったよ」


 それも本音だった。


 自制を失ったトリスの戦闘能力は、それほどまでに凄まじいものだった。


 いつもは子供相手ということで多少の手加減はしていたつもりだが、今回はその余裕が全く無かったのだ。


 そんなことをしていたら間違いなく殺されていた。


 改めて、亜人の戦闘能力というのは恐ろしいと実感している。


 そしてそんなトリスを拉致した犯人の気持ちも理解出来た。


 確かにこれは兵器利用としての価値が高い。


 子供でこれだけの戦闘能力を発揮するのだから、大人になれば更に凄まじいものとなるだろう。


 それだけではなく、薬物などで強化すれば、更なる脅威となる筈だ。


「ごめんなさい」


「それはもういい。正気じゃなかったなら仕方ない」


「………………」


 それも違う。


 正気を失っていたことは確かだが、心の奥底ではきちんと正気だった。


 本気で止めようと思えば止められたのだ。


 マーシャを刺してしまったことで正気を取り戻したように、気持ち一つでどうにでもなったのだ。


 イーグルに対しては戻れなくて、マーシャに対しては戻れた。


 その差はただの『優先順位』によるものだろう。


 トリスにとってはマーシャが一番大切なのだ。


 だからこそ戻ってくることが出来た。


 奇しくも、マーシャの言葉が現実となったのだ。




『私がいた方がいい。そんな気がする』




 ただの勘にすぎない言葉だが、当たってしまうとなんとも複雑だった。


 マーシャがいなければ、トリスは正気を取り戻せなかっただろう。


 下手をするとトリスによる犠牲まで出ていた可能性がある。


 改めて、彼女のおねだりを聞き入れて正解だったと思った。




「マーシャをお願いしてもいい? 僕はこの後やらなければならないことがあるから」


「マーシャちゃんのことは任された。だが、一人で行くな。俺たち全員で行こう」


 マーシャを受け取ったイーグルは緊急治療キットを取り出して、二つほどアンプルを撃ち込んだ。


「う……」


 その衝撃に顔をしかめるマーシャ。


 しかし大人しくしていた。


 今の自分が無茶をすれば本当に命に関わると分かっていたからだ。


「組織再生薬を打ち込んだから、ナイフは抜くぞ」


「うん……」


 ナイフを抜いたら血が溢れ出てしまうが、傷口の再生を行う薬を打ち込まれたので、ナイフが刺さったままだと結合が阻害されてしまう。


 残りの一つは増血剤だ。


 ひとまずこれで失血死は免れるだろう。


 ナイフを抜いた部分には専用の絆創膏を貼り付ける。


 前と後ろ両方に貼り付けて、これ以上の血が流れないようにしておいた。


 組織再生を促す効果もあるので、これで放っておいても大丈夫だろう。


「ありがとう、イーグル。だいぶ楽になった」


 イーグルに抱き上げられたままのマーシャは安心したように息を吐いた。


 痛みがかなり和らいだので、ようやくほっとしたのだ。


 その様子を見てトリスもほっとした。


 これでマーシャは確実に安全だ。


「トリス。これでマーシャちゃんは安全だ。俺たちが護る。だから一人で行くのはよせ」


 イーグルがトリスに言い聞かせる。


 放っておくと一人で無茶をしてしまいそうなこの少年のことが心配だったのだ。


「駄目だ。あれは見せられない」


 バラバラになった仲間の遺体を見せたくない。


 それはトリスの我が儘だった。


 何よりも、マーシャに見せたくなかった。


 最初は彼らの手を借りてでも取り戻すと決めていたが、マーシャにも、他のみんなにも、あんなものは見せたくなかった。


 特に、マーシャには見せられない。


 あんなものを見てしまったら、いくらマーシャでも平静ではいられない。


 マーシャは仲間に対して淡泊だったが、それは自分の身を護るという最優先事項があったからだ。


 決して仲間に対して冷酷だった訳ではない。


 そうしなければ生き延びられなかったのだ。


 だけど今は違う。


 自分の身を護りたいだけならば、トリスのことなど放っておけば良かったのだ。


 だけど身を挺して、自分の身体を傷つけてまで、トリスを正気に戻してくれた。


 今のマーシャはそれほどまでに本来の自分を取り戻しているのだ。


 本来は優しい少女なのだと思う。


 だからこそ、あんな残酷なものは見せたくなかった。


 あれは自分一人で抱え込んでおけばいいものだと思ったのだ。


 あまり悠長にしている時間はない。


 一刻も早くセッテを殺さなければ逃がしてしまう。


 戦闘員はほとんど殺したつもりだが、いざという時の逃走手段を整えていないとは思えない。


 仲間の遺体を取り戻す。


 セッテ・ラストリンドを殺す。


 この二つだけはトリスにとって譲れない事柄だった。




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