「………………」
翌日の夜、トリスは一人で荷物をまとめていた。
ここに来た時は何も持っていなかった。
身ひとつでやってきた。
それなのに、今は最低限の荷物を持っていこうとしている。
随分と贅沢な考え方を身につけるようになったものだと、自分でも苦笑してしまう。
服一枚にしたところで、ぼろきれのようなものを着ていた頃に較べたら、自分は随分と恵まれている。
恵まれていると分かっているからこそ、許せないと思ってしまう。
自分を許せない。
許したくても許せない。
「……ごめんなさい」
何に対して謝ったのか、自分でもよく分からなかった。
いろんなものに対して謝りたかった。
いろんな人に対して謝りたかった。
こんなにもよくして貰っているのに、その気持ちを裏切ってしまうことが申し訳なかった。
それでも、あれを知ってしまった以上、自分だけがのうのうと陽だまりの中にいるのは許せなかったのだ。
「レヴィアースさん……僕は、結局……マーシャを護ることが出来ない。ごめんなさい」
今はもう会えない人にも謝る。
マーシャとトリスを救ってくれたレヴィアースは、トリスにとっても大きな意味を持つ人だった。
復讐したいと苦しむトリスに、レヴィアースは言ってくれたのだ。
『目を逸らし続けても、逃げてるだけだとしても、それで自分と相手が笑っていられるのなら、いいんじゃないかと思うんだよ。幸せになる為ならいくら逃げてもいいし、目を逸らし続けてもいい。辛い現実は必ずしも向き合い続けなければならない訳じゃないと思うんだ』
確かにその通りなのだと思う。
あの言葉でトリスは随分と楽になった。
そうしてもいいのだと、マーシャと一緒にこの幸せに身を置いてもいいのだと、そう思うことが出来た。
少なくとも、これまでは。
「だけど、もう駄目なんだ」
一日でも早く仲間の遺体を取り戻す。
その為にはリーゼロックの力を利用するのが一番いいことは分かっている。
リーゼロックの力ならば、そしてハロルド達ならば、きっと仲間の遺体を取り戻してくれる。
トリスが一人だけ飛び出して取り戻そうとするよりも、きっと早く目標を達成出来るだろう。
それでも、駄目だった。
トリスは自分を制御出来ない。
人間が憎くて堪らない。
セッテが憎くて堪らない。
あの日、全てを壊した惑星ジークスの人間と、エミリオン連合軍の人間が憎くて堪らない。
全ての人間を憎んでしまいそうになる。
憎悪に支配されている。
小さな身体の中に燃えている炎は、決して消えることはない。
一生、トリスの身を焦がし続けるだろう。
そしていつか燃え尽きるのかもしれない。
それでもいい。
いっそのこと燃え尽きたいと願っている。
だから、ここにはいられない。
幸せになることを拒絶してしまったからこそ、ここには居られないのだ。
荷物をまとめたトリスは部屋を出た。
そしてクラウスの私室に向かう。
重厚な扉の向こうにクラウスは居る。
仕事を終えて帰ってきて、そろそろ休むつもりだろう。
夜も遅くなっているので、あまり長い時間は話せない。
しかし用件そのものはシンプルなので、長くはかからないだろうと思っていた。
「………………」
トリスは扉をノックする。
控えめなノックだった。
「入っておいで」
トリスの来訪を予想していたのか、落ちついたクラウスの声が届く。
「うん。お邪魔します」
扉はリモコン操作で自動で開くようになっている。
トリスはおずおずとした態度で中に入った。
クラウスは寝間着姿でのんびりと酒を飲んでいた。
くつろいでいるところを邪魔してしまったらしい。
「ごめんなさい。邪魔だった?」
「構わんよ。しかし夜も遅いし、眠らなくて大丈夫なのか?」
子供の夜更かしを咎めるほど頭は堅くないつもりだが、それでも睡眠不足になるようなら心配だった。
「大丈夫。話があるんだけど、いいかな?」
「……そこに座るといい」
クラウスは正面のソファにトリスを座らせた。
そして酒用に準備していた水をグラスに注いでトリスの前に置いた。
「ジュースの方がいいか?」
「ううん。これでいい。ありがとう」
トリスは素直に水を飲む。
クラウスが用いている水はこだわりの名水なので、単品であっても十分に美味しい。
「少しだけレモンを垂らすともっと美味しくなるぞ」
「そうなの?」
「やってみるか?」
「うん」
トリスは受け取った瓶をグラスに垂らす。
中身はレモン果汁だった。
そして飲んでみるとわずかだが爽やかな酸味が口の中に広がった。
「美味しい」
「じゃろう?」
「うん」
トリスはすぐにグラスの中身を飲み干してしまった。
「お代わりはいくらでもあるぞ」
「うん。もらうね」
トリスは自分で水を注いで、レモンを垂らす。
この味が気に入ったようだ。
しかし喉が十分に潤うと、今度はクラウスに向き直った。
アメジストの瞳が揺れている。
これから話しにくいことを言うつもりなのだろうとクラウスには分かっていたが、敢えて自分から話題を振ったりはしなかった。
ただ、じっと待っている。
トリス自身が話すのを待っていた。
「ごめんなさい、お爺ちゃん。僕は、やっぱりここにはいられない」
そしてトリスは絞り出すような声で切り出した。
「そんなことじゃろうと思ったよ」
「ごめんなさい」
深いため息をつくクラウス。
トリスが何を言うか、予め予想していたのだろう。
驚いたりはしなかったし、引き留めようともしなかった。
「理由はやはり、仲間のことか?」
仲間の遺体を取り戻す。
セッテ・ラストリンドによって持ち去られた仲間達の遺体を、あのままにはしておけない。
絶対に取り戻すのだと決めている。
それはトリスが自分自身に課した誓いでもある。
「うん。でも、それだけじゃない」
「しかし仲間の遺体を取り戻したいのなら、トリスが一人で探し回るよりも、儂らが協力した方が成功率は上がるし、早く取り戻せる。それは分かっているじゃろう?」
「もちろんだよ。お爺ちゃんのことも、ハロルド達のことも、僕は信頼してる。絶対に見つけてくれて、取り戻してくれるって信じてる」
「それなのに、頼ってくれないのか?」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。ただ、理由は知りたい。一日でも早く仲間の遺体を取り戻す。これがトリスにとって最も重要なことではないのか?」
「うん。でも、それが出来ない理由があるんだ」
「それは、儂が訊いてもいいことか?」
「うん。お爺ちゃんには知っておいて欲しい」
「ならば聞こう」
「僕は人間が憎い」
「………………」
「ずっと、憎んでいた。でも、レヴィアースさんに救われて、お爺ちゃんに救われて、いろんな人たちに優しくしてもらって、そんな人たちばかりじゃないって思えるようになった。人間にもいい人は沢山居て、全てを憎むのは間違っているって、そう思えるようになった」
「そう思えるようになってくれたのは嬉しい。じゃが、今は違うようじゃな?」
つくづく、誘拐犯のことを殺したいほど憎たらしいと思ってしまうクラウスだった。
あの件がなければ、仲間の遺体が無惨な扱いをされていることをトリスが知らないままでいてくれたのならば、長い時間をかけてでも、その傷を癒やすことが出来ただろう。
しかし傷を癒やすこともままならない内に、揺れている心に突きつけられた事実はあまりにも残酷なものだった。
優しすぎる少年の心を壊すには十分すぎたのだ。
「今も、そう思ってるよ。レヴィアースさんのことは恩人だと思っているし、お爺ちゃんのことも家族だと思っている。ハロルドやイーグルたちのことだって好きだよ」
「家族か。そう思ってくれているんじゃな」
トリスの口からその言葉を聞けたのがクラウスにとっては何よりも嬉しいことだった。
自分は本当の孫だと思って愛情を注いできた。
その愛情は決して空回りではなかったと、少しだけ報われた気持ちになれたのだ。
「当たり前だよ。でも、同時に違う気持ちも湧き上がってくるんだ」
「………………」
トリスは泣きそうな声で続ける。
こんな自分が嫌でたまらないのだろう。
「僕は『人間』が憎い。僕から全てを奪って、仲間の遺体を辱めている人間が憎くてたまらない。このままだと、レヴィアースさんや、お爺ちゃん達のことまで憎んでしまいそうになる。恩人なのに……大事なのに……同じ人間っていうだけで、僕の心は憎もうとするんだ。いけないって分かっているのに、黒いものに支配されそうになるんだ……」
「トリス。分かっておるのか? それに支配されたら、戻れなくなる」
「分かってる。でも、もう我慢出来ないんだ。これ以上、陽だまりの中にいる自分が許せない。大事な人たちを憎んでしまいそうになる自分も許せない。だから、もうここには居られないんだ……」
大切な人を傷つけたくないからこそ、ここには居られない。
大好きな人たちを憎みたくないからこそ、出て行かなければならない。
「どうしても、決意は変わらないか? さっきも言ったが、仲間の遺体を一日でも早く取り戻すつもりなら、ここに居るのが最善だということは理解しているじゃろう?」
「分かっているよ。でも、僕はみんなを憎みそうになっている。それなのに、都合良く利用し続けるなんて、出来ないよ」
「儂としては大いに利用してくれた方が安心なんじゃがなぁ。憎んでくれても構わん」
「お爺ちゃん……?」
「トリスが人間全てを憎んでいても、マーシャが傍に居る限り、踏みとどまっていられるじゃろう? そんな気がするからな。心の中では儂らを憎むことになっても、それでも道を踏み外したりはしない。違うか?」
「……ごめんなさい」
「何故謝る?」
「僕は、踏み外すつもりだから」
「………………」
「どうしても、許せないんだ。セッテ・ラストリンドも、他の研究者達も。あの時この手に掛けた人たちのことを、僕はなんとも思っていない。むしろ、もっと苦しめて、むごたらしく殺してやれば良かったって思ってる」
「トリス」
クラウスの声がトリスを咎めるものになる。
トリスにもそれは分かっていた。
しかし、引き下がるつもりもなかった。
「僕はもう、踏み外しているよ。少なくとも、僕の心はもう引き返せないところにまで来ている。それに、マーシャの傍にも居られない。踏み外した僕を唯一留めてくれる存在だと分かっているからこそ、傍には居られないんだ」
「どうしてじゃ?」
「僕がマーシャを殺そうとしたから」
「それは……」
「お爺ちゃんも聞いているよね。正気を失った僕がマーシャを傷つけたこと。たまたま肩の傷だけで済んだけど、あの時の僕はマーシャを殺していてもおかしくなかった。あの憎悪を邪魔する存在を全て殺したいと思っていたから。それぐらい、自分を見失っていたんだ」
「しかしマーシャが居たから正気に戻れたんじゃろう?」
「うん。マーシャが僕を戻してくれた。マーシャの声が届いたから、僕は戻ってくることが出来た」
「今後もそれでは駄目なのか?」
踏み外しそうになっても、マーシャが引き戻してくれる。
そうすればトリスはここにいられる。
マーシャの存在こそが、トリスにとっての救いになる。
クラウスはそう思っている。
トリスもそう考えている。
しかし、だからこそトリスはそれが許せなかった。
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