「マティルダ!!」
宙を舞うマティルダを見て、トリスも焦る。
まさかマティルダがあの程度のものを避けられないとは思わなかったのだ。
レヴィアースと一緒に居ることでそれだけ気が緩んでいたのだろう。
それは嬉しいことの筈だったのに、今は焦ってしまう。
その所為でマティルダが危険な目に遭ってしまったのだから当然だ。
マティルダを轢いた車の運転手も慌てて降りてくる。
そして後部座席に乗っていた老人も慌てて車を降りた。
六十を過ぎている老人に見えるが、その動きはしっかりとしている。
着ている服や雰囲気からして、かなり地位のありそうな人物だった。
「大丈夫か!?」
レヴィアースが慌てて駆け寄ってマティルダを抱き起こす。
救急車を呼びたかったが、マティルダ達はレヴィアースと違って不法入国者なので、それは出来ない。
身元が割れたら無事では済まないからだ。
ならばその心配がない闇医者が最適なのだが、ロッティに来たばかりのレヴィアースにそんな伝手は無い。
彼は本気で焦っていた。
助けた命が目の前で失われるかと思うと、怖くてたまらなかった。
「……痛い」
そしてマティルダはあっさりと起き上がった。
「え……」
そのあまりにもあっさりとした様子にぎょっとするレヴィアース。
「急に起き上がって大丈夫なのか?」
「とっさに後ろに飛んで衝撃をある程度殺したから平気。あと、受け身もしっかりと取ったし」
「………………」
とっさの判断でそこまでのことが出来るマティルダに驚いてしまうレヴィアース。
しかし無事であることが何よりも大事だった。
「大きな怪我はしていないんだな?」
「ぶつかった時に結構痛かったけど、我慢出来ないほどじゃない」
「そりゃよかった。まあ念の為、医者には診せておきたいんだよなぁ。どうするか」
レヴィアースが考え込んでいると、老人が話しかけてきた。
「そちらの子供は大丈夫なのか?」
「ああ。急に飛び出してしまって済まない。こちらの管理不行き届きだ」
車の方は信号を守って動いていたのに、マティルダの方が赤信号を無視して飛び出してしまったのだから、被害者側であってもこちらが謝るべきだと判断したレヴィアースは大人しく謝罪した。
「いや。無事なら何よりだ。出来れば示談で済ませたい。警察沙汰になると時間を取られるからな」
「……それはこちらも望むところですが」
確かに交通事故ならば警察が介入してもおかしくはない。
しかし警察も救急車もやってくる気配は無い。
どうやらこの老人が手を回したらしい。
短時間の間に恐るべき手際だ。
あるいは、部下の手際だろうか。
どちらにしても、この老人は相当な地位にあると考えて間違いないだろう。
「それは助かる。ではそちらのお嬢さんも医者に診せる必要があるだろう。車に乗るといい」
「……少々訳ありでして。一般の医者にかかる訳にはいかないのですが」
「……ふむ。ならば我が家の専属医でどうじゃ? 秘密は厳守させるし、外部に漏れる心配も無い」
「………………」
レヴィアースは少し考え込む。
マティルダは平気そうに見えるが、それはそう見えるだけなのかもしれない。
内臓にダメージがあるかもしれない。
レヴィアースとしては一刻も早く医者に診せたかった。
この老人の正体は分からないが、悪人には見えない。
罠だとしても、出会ったばかりの人間相手にそんなことを仕掛ける理由が無い。
だとすれば、ここは素直に従っておくのが最善だろう。
「トリス。構わないか?」
マティルダをこの老人に任せても構わないかどうか、トリスに確認する。
レヴィアースは任せてもいいと思っているが、マティルダにとって最も近い存在はトリスなのだ。
彼の了承を得られないのなら、ついて行く訳にはいかなかった。
トリスの方も老人をじっと眺める。
信用出来るかどうかは分からない。
しかしマティルダを一刻も早く医者に診せたいという焦りはあったので、ここは頷いておいた。
「構わない。マティルダのことは一刻も早く確認したいし」
「だよな。では、お世話になります」
マティルダの方も異論はなかったようだ。
「ちょっと待って」
しかし車に乗り込もうとするレヴィアースを呼び止めた。
「どうした?」
「肉串、まだ買ってない」
「………………」
「………………」
この状況で自分の怪我よりも肉串のことに意識を向けられるメンタルに呆れてしまうレヴィアースとトリス。
しかし安心出来る要素でもあった。
それだけ元気だということでもあるからだ。
少なくとも、何かを食べたいと思える程度には無事なのだ。
それは二人にとって嬉しいことだった。
「トリス。買ってきて貰っていいか?」
レヴィアースはトリスにお金を渡して頼み込んだ。
「分かった。何本ぐらいいるかな」
「マティルダが満足出来る量って、俺には分からないぞ」
「僕にも分からない……。とりあえず、自分が食べる量を基準にして、その三倍ぐらいでいいかな」
「ちょっと待った。飯はきちんと後で食うから、とりあえず一本ずつでいいだろ」
レヴィアースの分も含めると三本が妥当だろうと判断した。
「五本食べたい」
「………………」
「………………」
直前に車に轢かれたとは思えない食欲である。
二人は複雑そうに顔を見合わせて、レヴィアースが仕方なく頷いた。
「仕方ないな。トリスも五本食べるか?」
「いいの?」
「じゃあ俺も五本だから、十五本だな」
「分かった」
マティルダの我が儘も快く聞き入れるレヴィアース。
子供が素直に甘えてくるのはなんだか嬉しい気持ちになってくるのだ。
トリスに頼んで十五本の肉串を買ってくる。
パックに詰められた肉串はまだ湯気を立てている。
マティルダはそれを見て銀色の瞳を輝かせた。
早く食べたくてたまらないという表情だった。
「とりあえず、車に乗り込むか」
「うん」
マティルダは自分で立とうとしたが、レヴィアースが抱っこで運んでくれると分かるとそのまま甘えてきた。
誰かに対してここまで素直に甘えるのはマティルダにとっては珍しいどころか初めてのことだが、それが自然なことのように彼女自身は思えた。
ずっとそうしていたくなるのだ。
尻尾が見えていたらぶんぶんと揺れていることだろう。
車に乗り込むと、そこはかなり広い空間だった。
車の中なのに、後部座席だけで小さなテーブルを囲んで向かい合って座れるようになっている。
かなり快適な空間だった。
買ってきた肉串はテーブルに並べられて、マティルダは大喜びでそれを頬張っている。
かなりご機嫌な表情だ。
「本当に身体は大丈夫なのか?」
「ん。少なくとも、食べられないほどじゃない」
「……それは見ていれば分かるけどな」
バクバクと肉串を頬張っているマティルダを見れば、食欲減衰とは無縁であることが分かりすぎるぐらいに分かってしまう。
食べられる元気があるのはいいことだが、元気すぎるのは逆に呆れてしまう。
それともこれが亜人の強靱さなのだろうか。
そう考えれば一応は納得出来る……かもしれない。
「トリスは? 美味いか?」
「うん。美味しい」
トリスの方はマティルダと違って、黙々と食べている。
マティルダのことが心配なのだろうが、呆れの方が勝っていて、やや複雑な心境らしい。
やはり亜人の基準からしてもマティルダの態度は微妙なのだろう。
「どれ。喉が渇いたじゃろう。何か飲み物を出してやろう」
そして老人は車内備え付け冷蔵庫の中からグラスと氷、そして飲み物を取り出した。
しかしその表情はやや複雑そうだ。
「すまんな。子供に飲ませられそうなものは水しか入っておらんかった」
老人が出してきたのは高級そうな瓶に入っている水だった。
恐らくはどこかの名水なのだろう。
よく冷えていて美味しそうだった。
「飲めれば何でもいいよ」
マティルダの方は水で十分のようだ。
水と言ってもかなり上質なものなので、むしろ興味津々だ。
「そうかそうか。なら好きに飲むとよい」
老人はご機嫌な様子でマティルダとトリスのグラスに水を注いだ。
マティルダ達は嬉しそうにそれを飲む。
「この水、美味しい」
「うん。美味しい」
名水は二人に大好評だった。
「それは良かった。そちらは酒はイケるかね? 水以外は酒しか入れてなくてなぁ」
老人は快活に笑いながらそんなことを言ってくる。
レヴィアースはかなり呆れてしまった。
「つまり、あれは水割り用ですか」
「正解じゃ。まあストレートで飲めるものもあるから、そちらでどうじゃ?」
「……いただきます」
酒を飲んでいる場合でもないのだが、この場合は好奇心が勝った。
こんな高級な車に乗る機会も、車の中で本格的に飲酒出来る機会も、この先は無いだろう。
だったら貴重な経験をしてみるのも面白そうだと思ったのだ。
「うむ。ではこれなどどうじゃ?」
老人が出してきたのは『ミラージュ・コンティス』という酒瓶だった。
「………………」
レヴィアースでも知っているかなりの高級ワインだ。
年数にもよるが、最低でもレヴィアースの年収クラスの金額が必要になる。
そんなものを車の中に入れていて、しかも気軽に勧めてくる。
ある程度は分かっていたことだが、この老人は恐ろしいほどに金持ちらしい。
しかし金持ちだということは、いろいろな伝手があるということでもある。
ここでレヴィアースの頭はマティルダの精密検査という以外にも、別の企みが生じた。
この老人と良い関係が築ければ、マティルダ達にとっても明るい未来が望めるかもしれないと考えたのだ。
金があれば大抵の無茶はまかり通る。
今後、子供二人だけで生きていくという無茶な状況も、金さえあれば割となんとかなるのだ。
この老人との関係をきっかけにして、その足がかりを得られれば上出来だと判断した。
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