「トリス」
「………………」
「俺は、トリスに対して掛けられる言葉は持たない。憎しみを忘れろとも、未来を生きろとも言えない。その無念と憎悪はトリスにしか分からないからな」
「うん……」
「トリスが許せないのは、仲間達を無残に殺されたことか?」
「………………」
「それとも、仲間達は死んだのに、自分達だけ生きていて、しかも幸せな環境を手に入れてしまったことか?」
「………………」
それは憎悪というよりも後ろめたさだ。
自分達だけ助かった。
そして自分達だけ幸せになる。
仲間達の死を利用して、自分だけ逃げ出したような罪悪感があるのだろう。
マティルダは日々を楽しく過ごしている。
仲間達の事を想わなかった訳ではない。
ただ、それは後悔しても仕方の無いことだと割り切っているだけだ。
優先順位をはっきりさせている。
まずは自分が助かること。
そして一緒に生き延びたトリスが助かること。
その上で悔やむのなら、それは彼らの自由だ。
だけど悔やんだところで取り戻せないのなら、自分達だけでも幸せになるべきなのだ。
少なくとも、その努力を怠るべきではない。
それがマティルダの考えであり、彼女はその通りに行動している。
今を楽しみ、そして未来を見ている。
しかしトリスは違う。
未来を見ることが出来るのに、過去に縛られようとしている。
仲間を想うあまり、自分が幸せになろうとするのを許せないでいる。
「全部だと思う……」
「そうか……」
いろんな感情が渦巻いているのだろう。
幼い少年の中で、憎悪と希望と過去と未来がごちゃまぜになっている。
優しすぎるからこそ、そこから逃げることを自身に許していない。
「マティルダのことはどうなんだ?」
「え?」
「自分だけ幸せになったことが許せないというのなら、マティルダは? 同じように、仲間の死の先に幸せを掴んだあの子のことも、許せないと思っているか?」
「そんなことないっ! マティルダはこれまでずっと頑張ってきたっ!! 辛いことにずっと耐えて、生き残る為に自分を痛めつけてきたんだっ! 今度こそ幸せになって欲しいって思ってるよっ!」
「それなのに、自分に対してはそう思えないのか?」
「っ!! それは……」
「マティルダがトリスと同じように考えないことについては、どう思っている?」
「どうって……そんなこと、考えた事も無いよ……」
許せないと考えるのは、トリスだけの感情だ。
マティルダにまで同じ感情を共有して欲しいとは思わない。
いや、共有して欲しくない。
マティルダは、これから幸せだけを求めて欲しい。
トリスは心からそう願っている。
憎悪に染まるのは自分だけで十分だと、そう考えている。
「なら、自分もマティルダと同じように生きようとは思えないか? 今のマティルダを責める気持ちが無いのなら、自分が同じように生きることにも抵抗はない筈だろう?」
「………………」
「駄目か?」
「……僕は、マティルダとは違うよ。マティルダほど強くなれない。未来だけを見つめて生きることなんて、きっと出来ない。ずっと、過去に縛られて彷徨い続ける。そんな気がする」
「俺も、クラウスさんも、そしてマティルダもそんなことは望んでいないのに?」
「それは……」
そんなことは分かっている。
分かっていても、憎悪が止まらない。
湧き上がってくる感情を処理しきれない。
だからこそトリスは苦しんでいる。
「ごめんな。難しいことを求めているよな」
「レヴィアースさん……」
「憎しみを忘れろとか、耐えろとか、復讐はやめろとか、そんな薄っぺらい言葉でトリスを何とか出来るとは思っていないよ」
くしゃくしゃとトリスの頭を撫でるレヴィアース。
トリスよりもかなり大きな手は、撫でられるだけで安心してしまう。
この手に自身を委ねてしまいたい。
守ってもらって、そしてその庇護の中で時間を過ごしたい。
そんな気持ちにさせられる、温かな手だった。
しかし同時に湧き上がってくるのは、ぬるま湯に浸かろうとする自身への憤怒。
そんなことは許さないと、自分自身が訴えてくる。
相反する感情と常に向き合い続けることに、トリスは苦しんでいた。
幸せを実感する度に、憎悪の炎が身を焦がす。
どうすればいいのか分からなくて、顔を歪めてしまう。
泣き出したい、叫び出したい気分になる。
しかしそんなことをすればマティルダを含めた周りの人たちを心配させてしまう。
だからこそトリスはそれをなるべく表に出さずに耐えてきたつもりだった。
しかしレヴィアースには見抜かれていた。
見抜いてくれたことが嬉しくもあり、悔しくもある。
自分はまだ未熟で、感情を隠すことすらも出来ない。
自分達だけで生きていくことなど出来ないと思い知らされる。
そんな不安定な状態で復讐を望むなど馬鹿げている。
理屈でそう考え、感情で否定する。
「その憎しみは自分の為じゃなくて、大事な仲間達の為なんだろう? それを否定したりはしないよ」
「……うん」
否定したりはしない。
その言葉だけで少しだけ気持ちが楽になった。
本当は否定されると思っていた。
これからは幸せに生きる権利があるとか、過去に囚われるのは馬鹿げているとか、復讐なんて意味が無いとか、そんな言葉を聞かされると思っていた。
そしてそんな言葉を聞かされるのが怖かった。
薄っぺらい言葉であっても、それは正しい。
だけどその正しさを認めたくないという気持ちがあるのだ。
それを認めたら、トリスは仲間達を本当の意味で見捨ててしまったことになるような気がして、怖かった。
それだけは耐えられなかった。
あの時逃げてしまったという負い目。
見捨ててしまったという恐怖。
その上でこの感情を否定してしまったら、彼らの存在ごと見捨ててしまうことになりかねない。
何かを引き継ぎたかった。
それは無念なのか、別の想いなのか。
とにかく、何かが出来るかもしれない、何かをしなければならないという気持ちにさせられる。
それがトリスの弱さであり、優しさでもあるのだろう。
「でも、少しだけ考えて欲しい」
「?」
「トリスがその感情を優先したら、マティルダはどうなる?」
「………………」
「マティルダはトリスの復讐に付き合うかもしれない。そんな泥沼にマティルダを巻き込んでいいのか?」
「マティルダはそんなことしないよ。自分の為に幸せになることを選ぶ筈だ」
それはマティルダが冷たいからではない。
取り戻せないものの為に自分を犠牲にするよりも、助けて貰った人たちに報いることを第一に考えられるからだ。
トリスと違って、未来と希望を見ているからだ。
その点ではトリスよりもマティルダが正しい。
「マティルダが一人だったらそうだろうな。だけどトリス、お前がいる」
「………………」
「たった一人生き残った仲間が復讐に身を投じようとしているのを、放っておけるような性格か? マティルダはきっと、トリスのことを放っておけないんじゃないかな」
「それは……」
それは……どうなのだろう。
そうなって欲しくはない。
だけど、そうなってくれたら嬉しいという気持ちもある。
巻き込みたくないのに、それでも巻き込むことになったら、別の喜びがあることも確かなのだ。
これも相反する感情だった。
それは自分自身のエゴに関係している。
仲間の為ではなく、トリスの為にマティルダがそこまでしてくれるということが嬉しい。
そんな気持ちがトリスの中にある。
トリスはマティルダに惹かれている。
彼女の中にある折れない強さが眩しくて、自分もそう在りたいと願い、憧れる。
どうしても折り合いが付かない部分はあるけれど、それでも今のトリスにとってマティルダは唯一守りたい存在でもあるのだ。
「憎しみを忘れろとも、復讐を諦めろとも言う気はないけど、マティルダを巻き込むのだけは勘弁して欲しい。あの子の幸せを俺は願っている。もちろんトリスの幸せも」
「うん……」
「だからトリス。それらの感情を全てマティルダを守ることに向けてみたらどうかな」
「え?」
「許せないという気持ちも、復讐したいという気持ちも、今のマティルダを守ることの方が重要だと思ったら、諦めることは出来なくても、目を逸らし続けることは出来ると思う」
「………………」
「まあ、逃げてるだけだから、あまり褒められた方法でもないんだけどな」
「………………」
「でも俺は、目を逸らし続けても、逃げてるだけだとしても、それで自分と相手が笑っていられるのなら、いいんじゃないかと思うんだよ。幸せになる為ならいくら逃げてもいいし、目を逸らし続けてもいい。辛い現実は必ずしも向き合い続けなければならない訳じゃないと思うんだ」
「逃げても、いいってこと?」
「そう。逃げてもいい」
「逃げるのは、駄目だと思ってた」
「そりゃあ、駄目な場合もあるさ」
「例えば?」
「そうだなぁ。例えば、マティルダが襲われそうになっている。そしてトリスはそれを見捨てて逃げる。こういうのは駄目だろ?」
「駄目だね」
そんなことになれば絶対に守る。
逃げることなど考えられない。
まあ、マティルダの場合はトリスが守る前に自分で撃退してしまう可能性の方が高いだろうが。
それでも逃げるという選択肢は無い。
「でも、こう考えてみたらどうだ? トリスが自身の負い目から逃げなかった場合、マティルダもそれに巻き込まれてしまう。逃げれば巻き込まれない。幸せに暮らせる」
「……それは、そうだけど」
トリスにマティルダを巻き込むつもりはない。
そんなことは絶対にさせない。
しかしトリス自身がそう思っていても、マティルダの意志で巻き込まれることを選んでしまえば、トリスはそれを拒絶出来ない。
大切な人の意志を尊重したいと考えるからだ。
だからトリスがここから出て行くとすれば、一人で決めて、そしてマティルダには何一つ知らせないままにするだろう。
「マティルダに何一つ知らせないまま出て行ったとする。そうなるとマティルダは一人きりになる。クラウスさんは良くしてくれるし、この屋敷の人間もマティルダを可愛がってくれる。だけど、たった二人しか生き残れなかった仲間がいきなり居なくなったら、マティルダにとっては孤独な時間が始まるんじゃないかな。それはマティルダにとってかなり辛いことだと思うぞ」
「………………」
それは嫌だった。
だけどマティルダがそこまで自分を必要としてくれるだろうか。
少なくとも、少し前までのマティルダは自分だけでも生き残ろうとしていた。
自分だけが生き残ることを最優先にしていた。
いざとなれば、一人で生き抜くつもりだったのだ。
だから自分がいなくなっても、マティルダは案外平気なのではないだろうか。
そんな風にも思う。
「だからさ、マティルダの為にその感情を抑え込んでみないか?」
「マティルダの為に……」
「そうだ。お前のその感情は、誰かの為に発揮されているものだろう? だったら同じように、マティルダの為に発揮されてもいい筈だと、俺は思う」
「………………」
「まあ、強制は出来ないんだけどな」
もう一度トリスの頭をくしゃくしゃと撫でる。
この少年がどんな道を選んだとしても、それは尊重しなければならない。
たとえ破滅が待っていたとしても、未来が無くなったとしても、それでも、生きる道を決めるのは、自分の命をどう使うのかを決めるのは、自分だけの権利なのだから。
「ただ、マティルダのことだけはいつも考えてやってくれ」
「うん。そうだね。僕は、マティルダのことは放っておけない」
「いい子だ」
本当にいい子だと思う。
優しすぎるからこそ、憎悪に堕ちてしまいそうになる。
だけど踏み外さなければ、きっと誰よりも周りのことを考えられる優しい存在として、マティルダの支えになれると思うのだ。
レヴィアースはトリスにそれを望んでいた。
ここから離れてしまえば、そう気軽には会えなくなる。
連絡すらも取れなくなる。
軍人という立場上、本人には知らされない定期的な監査が入ることになっている。
レヴィアースの動向を探られた場合、この二人との接触を知られたら、ただでは済まない。
行動を起こしたレヴィアース自身も、それに協力したオッドも、何よりも、過去の所業を知られているこの二人を生かしておくのは危険だと判断されてしまう可能性が高いのだ。
だからこれが終わればもう会う事は無いだろう。
少なくとも、数年は会わない。
会いたくても会えない。
だからこそマティルダはレヴィアースとの別れを惜しんだのだし、こうしてギリギリまで傍に居ることを選んだ。
そしてレヴィアースさえ接触しなければ、クラウスの庇護下にあるこの二人は安全だと確信している。
亜人の存在を密告されたとしても、クラウスが全力で守るだろう。
だから安心して任せられる。
気がかりだったトリスのことも、少しは感情を吐き出して落ち着けたようだから、後はなるようにしかならない。
だけど吐き出さずに溜め込んだままで居るよりはマシだと思った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!