「いただきます」
「うむ」
グラスに注がれたワインをじっと眺めて、そして老人とグラスをぶつけた。
車内の乾杯というのもなかなか珍しい経験だった。
そして一口飲むと、芳醇な香りとピリッとした辛さが口の中に広がる。
かなり美味しかった。
「いいですね」
「じゃろう? 儂のお気に入りじゃ。毎月飲んでおるよ」
「………………」
自分の年収が吹っ飛ぶ酒を毎月飲んでいるらしい。
深く考えない方が良さそうだ。
「自己紹介が遅れたな。儂はクラウス・リーゼロックじゃ」
「……リーゼロックって、もしかしてあのリーゼロックですか?」
「うむ。多分、お主の考えておるリーゼロックで間違いないじゃろうな」
「………………」
クラウス・リーゼロック。
リーゼロック・グループの総帥であり、この惑星ロッティの経済を支配していると言われる大富豪。
元々は宇宙船開発の小さな会社だったが、そこから運送業、製造業、飲食業や民間軍事会社にまで手を広げて、一大グループを築き上げている。
このロッティにおいてリーゼロックの影響を受けていない企業はほとんど存在しないと言われている。
クラウス・リーゼロックはその頂点に立つ人間だ。
この惑星における経済的な支配者で、その気になれば政治にも口を出せる。
エミリオン連合もロッティにおいては彼を無視出来ないと言われている。
現場の軍人であるレヴィアースですらこの程度のことは知っているのだ。
実際の権力は更に大きいのだろう。
とんでもない人物に会ってしまったものだ。
いや、遭ってしまった、というべきなのかもしれない。
「俺はレヴィアース・マルグレイトです」
「ふむ。レヴィアースか。何となく軍人っぽい雰囲気じゃの」
「……本職はそうです」
「ならばロッティ軍所属かのう?」
「いいえ。エミリオン連合軍です」
「ほう。エミリオン連合軍の軍人さんがこんなところに何の用じゃ?」
「今は私用ですね。この子達の保護者みたいなものです」
レヴィアースはマティルダとトリスを見る。
肉串は既に無くなっていて、マティルダの視線はじーっとレヴィアースの肉串に注がれていた。
「………………」
食欲旺盛すぎる。
元気なのはいいことだが、元気すぎるのもどうかと思う。
五本あった肉串は四本にまで減っている。
レヴィアースはまだ一本しか食べていないのだ。
なかなか美味しかったので出来ればまだ食べたいし、食べてしまいたいのだが、キラキラした銀色の瞳を見ていると、それをすれば恨まれることは確実だった。
自分の分を食べるだけなのに恨まれるのは理不尽だが、子供相手だとどうしても甘くなってしまうのが困りものだった。
「食っていいぞ」
仕方なく自分の肉串の入ったパックをマティルダの方に寄せる。
「ただし、トリスと半分こだ」
「え?」
きょとんとしたトリスはレヴィアースの方を見る。
しかしレヴィアースはトリスの紫色の瞳も少しだけ物欲しそうにしているのを見逃したりはしなかった。
彼の性格からして、自分から欲しいとは言い出せなかったのだろう。
そしてマティルダが欲しがるのなら喜んで譲る筈だ。
そんな優しい少年にも、少しはいい目を見て欲しかった。
「食べたかったんだろう?」
「……うん」
じっとトリスを見てそう言うと、彼も照れたように頷いた。
なかなか素直な感情を表に出せない少年だが、だからこそこうやって素直になってくれた時は可愛らしいと思える。
「じゃあ、トリスと半分こだな」
マティルダの方はかなり素直に喜んでいるので、すぐに食べ始めた。
「やれやれ。轢いてしまった時は焦ったが、これだけ元気なら本当に大丈夫そうじゃな」
「ご心配をおかけしました」
「構わんよ。こちらの不注意でもあったのじゃ。警察が介入してこないなら、どうとでも出来るしのう」
「………………」
それはそうだろう。
リーゼロックの権力を使えばその程度は朝飯前の筈だ。
「レヴィアース」
「ん? どうした?」
肉串を食べながら、マティルダがレヴィアースの方をじっと見る。
「それ、飲んでみたい」
「え?」
じっと見ているのはレヴィアースとクラウスが飲んでいるワインだった。
『ミラージュ・コンティス』。
一本でレヴィアースの年収が消費されていく代物。
余程美味しそうに飲んでいたのだろう。
だからこそマティルダが興味を惹かれたのかもしれない。
「いや、しかしなぁ。子供に酒を飲ませるのはちょっと……」
困ってしまうレヴィアース。
美味しいことは確かなのだが、未成年の飲酒はあまり賛成出来ない。
頭の堅いことを言うつもりもないのだが、健康に悪影響を与えるかもしれないことを考えると、どうしても賛成しかねるのだ。
しかも今のマティルダは車に轢かれたばかりで、平気そうに見えてもどこかを悪くしているかもしれない。
そんな時に酒を飲ませるのは、どう考えてもよろしくない。
「飲みたいな」
「………………」
しかし銀色の上目遣いで見られると弱い。
困ったようにクラウスを見るレヴィアース。
しかしクラウスの方は茶目っ気も悪戯心も満載の老人だったので、楽しそうに頷いた。
「よし。では飲んでみるか?」
「うんっ!」
水の入っていたグラスにワインを注ぐ。
マティルダは琥珀色の液体を興味深そうに見ていた。
「そういえばそちらの嬢ちゃん達の名前はまだじゃったな。教えてくれるかのう?」
「マティルダだよ」
「トリス……です」
「ふむ。マティルダにトリスか。儂はクラウスじゃ。よろしくな」
「よろしく」
「よろしく」
ぺこりと頭を下げるマティルダとトリス。
こういう部分はきちんと礼儀正しい。
敬語は使っていないが、そういう環境で育っていないことを考慮すれば十分すぎるぐらいの態度だった。
「せっかくじゃからトリスも飲んでみるか?」
「いいの?」
「うむ。遠慮することはないぞ。仮に倒れたとしても責任を持って介抱してやるからな」
「……倒れるのは嫌だけど、でも興味はあるから」
おずおずとグラスを差し出すトリス。
遠慮深い性格をしているが、いざとなれば自分の要求をきちんと口に出来る。
琥珀色の液体を嬉しそうに口にするトリス。
そして、その顔がほころんだ。
「美味しい」
「それは良かった。まだお代わりはあるから遠慮無く飲むといい」
「私も!」
さっそく一杯目を空けたマティルダがキラキラした瞳でお代わりを差し出す。
「おいおい……」
結構度数の強い酒なのだが、一気飲みしてしまったらしい。
流石に心配になるレヴィアース。
それ以前に、知らないというのは恐ろしい。
レヴィアースでさえもったいなくて少しずつ味わって飲んでいるのに、あの酒を一気飲み出来る神経が信じられない。
知らなければそんなものなのかもしれないが。
……いや、度数を考えてもおかしいことは間違いない。
マティルダは将来とんでもない酒豪になるかもしれない。
トリスの方はきちんと味わって飲んでいる。
そしてクラウスの方は面白がってお代わりを注ぐ。
「あっという間に無くなったのう。もう一本出すか」
「え……」
あっさりと言ってのけるクラウス。
これと同じクラスの酒がもう一本……。
考えただけで恐ろしくなった。
金持ちの感覚とは、一般人とはかけ離れ過ぎてついていけない。
……結局、マティルダとトリス、そしてレヴィアースとクラウスで五本は空けてしまった。
「これは将来が楽しみな子供達じゃのう」
「……すみません。遠慮を知らない子供達で」
酒に酔ってすやすやと眠るマティルダとトリス。
二人仲良く寄りかかって眠っているのは微笑ましいのだが、彼らが五本の内四本を空けたことを考えると、否定したい気持ちにもなってしまう。
「構わん構わん。楽しい時間じゃった」
「……なら、いいんですけど」
「到着したら精密検査から始めようかのう」
「お願いします」
「うむ。ところでレヴィアース」
「はい」
「いつまでロッティに滞在するつもりじゃ?」
「そうですね。今日を含めて一週間です」
「なるほどのう。泊まる場所はあるのか?」
「一応、ウィークリーマンションを借りています」
借りているマンションの名前を言うと、クラウスは面白そうに目を細めた。
「うちの系列じゃの」
「………………」
手広すぎる。
しかしこのロッティではリーゼロックの影響を受けていない場所の方が珍しいので、そんなものかとも思った。
「この子達が訳ありということは、エミリオンに連れて帰る訳ではないのじゃろう?」
「ええ」
「他に保護者はいるのか?」
「いいえ。俺がここにいる間に自立出来るだけの仕事を見つけてやりたいと考えています」
「ふむふむ。ようやく納得がいった」
「?」
「お主、儂のことをずっと品定めするような目で見ていたじゃろう?」
「………………」
「このロッティにおいて仕事を得ようとするなら、確かに儂は最高の伝手じゃからのう。信用してもいいかどうか、ずっと考えていたというところか」
「……失礼しました」
考えていたことは完全に見抜かれている。
確かにクラウスを頼ればこの二人が安定した生活を送れるようになるかもしれないとは考えていた。
しかし出会ったばかりのこの老人をどこまで信用していいかという問題があったのだ。
マティルダとトリスの正体についても、どこまで話すべきか考えていた。
いや、亜人であることはどうしても知らせなければならないだろう。
精密検査を受けさせるならば、それはどうしても露見してしまうことなのだから。
そのリスクを受け入れてでも、マティルダに精密検査を受けさせる必要があった。
今は元気そうにしていても、車に轢かれたのだから、どんなダメージを受けているか分からない。
安心する為にも、どうしても必要なことだったのだ。
「構わんよ。それだけこの子達のことが大事なのじゃろう?」
「まあ、そうですね。一度引き受けた以上、納得のいくまで面倒を見てやりたいと思っていますから」
「ふむ。そういうことなら儂の経営する児童養護施設にでも入れてみるか? しっかりとした教育を受けられるし、この幼さで仕事をさせるよりも安心じゃろう?」
「そんなことまでやっているんですか?」
「うむ。親を失った子供や行き場の無い子供達は大抵そこに入れられておる」
「慈善事業にも積極的なんですね」
「まあ、表向きは慈善事業じゃがな。それだけでもない」
「え?」
何か裏の事情でもあるのだろうか。
だとすればそんなところにマティルダ達は入れられない。
そんなレヴィアースの考えを察したクラウスは笑いながら首を横に振った。
「物騒な理由ではないよ。単に将来への投資と、治安の問題じゃ」
「投資と、治安?」
「うむ。行き場の無い子供達が生きていこうとすれば、裏社会に身を投じるか、犯罪に手を染めるか。どちらにしても方法は限られておる。そしてこれを放置すれば治安が乱れる。このロッティは儂の影響が強すぎるからのう。つまり、治安が乱れれば儂への影響も無視出来ないものになる、ということじゃ」
「なるほど」
政治家でも王族でもないのに、ロッティを実質的に経済支配している人間ならではの言葉だった。
確かに自身の足下で治安が乱れるのは無視出来ない問題だろう。
「では将来の投資とは?」
「それは単純じゃな。しっかりと面倒を見て、高度な教育を受けさせれば、それだけ将来の人材として登用出来るじゃろう? 施設で育った子供達はリーゼロックに恩義を感じて、ほとんどがリーゼロック系列の会社に入社してくれるからのう。中には儂自身が適性を見て配属した子供もいて、その子はグループ内で大きな成果を上げてくれている」
「なるほど」
長期的視点から見れば確かにリターンの大きな投資だった。
自分達を育ててくれて、教育まで受けさせてくれた相手に恩返しをしたいと考えるのは自然なことだし、そういった過去があるからこそ、リーゼロックの為にひたすら頑張れるということだろう。
普通に育って、新入社員を雇い、心構えや知識を教育していくよりも、ずっと質の高い人材が出来上がる。
確かに善意だけではない。
慈善事業というよりは、一大プロジェクトと言ってもいいぐらいの行いだった。
確かにそういった場所にマティルダ達を預ければ安心出来るのだが、そういう訳にはいかない事情もある。
「お気持ちは嬉しいのですが、そういう訳にもいかないんです」
「何故じゃ?」
「この子達は人間ではありませんから」
「む?」
その発言に初めてクラウスが眉をひそめる。
レヴィアースはすうっと息を吸ってから、心の準備を整えた。
どのみち精密検査では露見してしまうのだ。
そして医者にもそれを通達しておかなければ騒ぎになってしまう。
事前にこの情報を告げておくのは必須だった。
レヴィアースは隣で眠っているマティルダの頭に被せていた帽子を取った。
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