その夜、クラウス・リーゼロックが屋敷に戻ってきたので、夕食は三人で摂ることになった。
肉をメインとした料理がずらりと並んでいる。
ちょっとした晩餐会並のメニューだったが、食欲旺盛な子供達は大喜びで食べている。
揺れる尻尾を眺めながら、クラウスは目を細めていた。
実に微笑ましい、と思っているのかもしれない。
「ここの生活にも少しは慣れたかな?」
クラウスが問いかけると二人はきょとんとした顔で彼を見た。
「少しは慣れてきたと思う」
「うん。最初は戸惑うこともあったけど、今は大丈夫」
最初は戸惑った。
あまりにも違う環境に、心の方が追いつかなかった。
しかし生活していく内に、それが自然なことだと感じられるようになった。
自然なことというよりは、かなり恵まれた環境なのだが、他をほとんど知らない二人は、ここを今の『普通』だと思い込んでいるのだ。
ここで生活する限り、それは間違いではないのだが、人並みの環境に戻る時は少しばかり苦労するのかもしれない。
いや、一度は地獄を経験しているので、案外簡単に馴染んでしまうかもしれないが。
「それは良かった。何か不便なことがあればいつでも言うんじゃぞ。出来る限り対応するからな」
「今のところは無いかな。お爺ちゃんには良くして貰っているし」
「うん。恵まれすぎているぐらいだと思う。勉強も面白いし」
二人は興味のある分野を徹底的に勉強している。
新しいことを学ぶのは楽しいし、いずれは自立したいと考えている。
いつまでも世話になり続ける訳にはいかないと思っているし、いつかは恩返しがしたいとも考えている。
その為には力が必要だ。
単純な戦闘能力ではない。
社会で生きていく為の力が必要だった。
その為に必要なのは知識であり、技能だった。
マティルダは経済の知識や宇宙船関連の知識を求めた。
経済の知識は金銭的に自立する為であり、宇宙船関連の知識は命の恩人であるレヴィアースを目指してのことだった。
自分が何になりたいのかはまだ掴めていないが、それでもやりたいと思ったことは片っ端から手を出してみることにしているのだ。
トリスの方は基礎課程から大学の修士課程まで、興味のあることならば何でも学んだ。
マティルダとの付き合いで宇宙船関連の知識にも興味を示しているが、経済関連の興味はそれほどでもない。
しかし要領の良さもあって、経済関連の知識もそれなりに身につけつつあった。
つまり、二人とも浅く広くではあるが、凄まじい量の知識を身につけていたのだ。
外見年齢は十二歳ぐらいなのに、すでに大学卒業レベルの知識を有している。
通信教育で学べるだけ学び続けた成果でもあるのだろう。
「学ぶことは良いことじゃな。学校に通いたいというのなら、その希望も聞き入れるぞ?」
「それはいい」
「流石にこの外見だと目立ちすぎるからね。通信教育だけで十分」
「可愛くて人気が出ると思うんじゃがのう」
「………………」
「………………」
確かにこの屋敷では人気者の二人だが、それが外でも通じると思えるほどお気楽な性格はしていない。
しかし変装すればそれも不可能ではないということは分かっていた。
カツラで獣耳を隠し、腰巻きなどで尻尾も隠してしまえば、普通の人間の子供として振る舞うことも出来るだろう。
もちろん、着替えが必要な場合はバレてしまうが、それはそれで対処のしようがある。
「やっぱり、家で学ぶだけでいい」
「うん。それで十分だと思う」
「儂としては外の人間とも普通に関わり合って欲しいんじゃがな」
「でも……」
「それは、難しいと思うんだけど」
「私達は表向き、滅ぼされた種族ってことになっているし」
「流石に目立つんじゃないかな」
「そのあたりの対策はしっかりしておるぞ」
「え?」
「どういうこと?」
得意気に笑うクラウスに首を傾げる二人。
対策の内容に興味があるらしい。
マティルダ達も、外に出るのは怖いが、外に出たくない訳ではないのだ。
自由気ままに生きたいという希望ぐらいは持っている。
だからこそクラウスがどういう対策をしているのかが気になった。
「滅ぼされたのはジークスの亜人だけじゃからな。ジークスの外で暮らしている亜人については無事でいる。土地や政治の問題で滅ぼされた訳だから、亜人そのものが付け狙われている訳ではない。だからこそ、他の土地で生きている亜人の情報を集めて、そこからロッティに移住したという形を作るつもりじゃ。マティルダやトリスもそういった立場の亜人として扱えば、ジークスの生き残りだという線は消えるじゃろう? ロッティを普通に歩き回っていても、物騒なことにはならないと思うんじゃがな」
「………………」
「………………」
確かにジークスの外にも亜人はいる。
亜人そのものがすべて滅ぼされた訳ではない。
だから自分達がジークス以外の亜人として振る舞えば、危険はほとんどない筈だった。
「その為に必要なものも準備するつもりじゃ」
「必要な物?」
「何それ?」
何が必要なのだろう、と首を傾げる二人。
まだまだそういう知識は足りないらしい。
「何をするにも基本じゃぞ。これが無いと何も出来ん」
「?」
「?」
もったいぶった言い方をしているが、二人にはそれが何なのか分からないらしい。
知識も足りないし、そもそもそういった価値観に欠けているのだろう。
「身分証明じゃよ。要するに、自分が何者であるかを証明する書類じゃな」
「ああ、なるほど」
「確かにあったね、そういうの」
ようやく二人は思い出したらしい、
そういったものを持ったことはないが、そういったものがあることは知っている。
ただ、自分達には関係の無いものだと思っていただけだった。
身分証明というのは戸籍が存在して初めて意味を持つ。
マティルダもトリスも、親の顔すら知らない。
もちろん、正式な戸籍も存在しない。
つまり、社会的には存在しない筈なのだ。
死人同然の立場だと言える。
だからこそ、身分証明とは縁の無い立場だった。
「でも、私達には戸籍がないよ」
「戸籍がないと身分証明って作れないんじゃないの?」
「もちろんじゃ。しかし現状ではあっても困るじゃろう?」
「?」
「?」
無いよりはある方がいいと思うのだが、どうしてあると困るのだろう。
そこが二人には分からなかった。
「戸籍があるということは、二人はジークスで滅ぼされた筈の亜人だという証明になるからじゃよ」
「あ」
「確かに……」
それは困る。
ものすごく困る。
確かにそういう戸籍ならば無い方がいいに決まっている。
「だからこそ、戸籍がない現状の方が都合がいいのじゃよ。一から好きなように作れるからのう」
「それって……」
「偽造って言うんじゃ……」
「何か問題あるかのう?」
「………………」
「………………」
大ありだと思うのだが、自分達のことなので、それは言えなかった。
確かに今の自分達が戸籍を得ようと思うのなら、偽造するしかない。
元々持たない戸籍を新しく作るだけなのだが、真実の戸籍としてジークスを出身地とする訳にもいかないので、偽造になるのは必然だった。
「まあ心配するな。儂はこれでもそれなりの権力を持っておるからのう。二人分の戸籍ぐらい、自在に出来るぐらいの力はあるつもりじゃ」
「つまり……」
「僕たちに戸籍を作ってくれるってこと?」
「うむ。名前はそのままにしておくか? 不都合ならば変えることも出来るぞ」
「名前……」
「うーん……」
言われて、二人は考え込む。
名前そのものにこだわりはないマティルダは、少し考えただけで首を振った。
「お爺ちゃん」
「なんじゃ?」
「どうせなら、お爺ちゃんが新しい名前を付けてくれると嬉しい」
「儂が?」
「うん。今の名前にはこだわりも愛着もないんだけど、自分で適当な名前も思い付かないから。それなら、今の私を大事にしてくれる人に新しい名前を付けて貰いたいな」
本当ならレヴィアースに付けて貰いたかったと思ったマティルダだが、それは叶わない願いなので言わなかった。
レヴィアースと同じぐらい、クラウスのことも大好きだったので、彼に新しい名前を付けて貰えるのなら嬉しいと思ったのだ。
「うむ。そうかそうか。ならば可愛い名前を考えてやるとするかのう。といっても、今の名前とあまり違いすぎても慣れるまで時間がかかるじゃろうから、出来れば似たような名前がいいかもしれんのう」
それを聞いたクラウスはご機嫌になった。
彼はマティルダのことを非常に可愛がっているので、名前を付けて欲しいと言われてとても嬉しかったのだ。
「トリスはどうする? 儂が考えてもいいのなら、張り切って考えるが?」
「ううん。僕はこの名前のままがいい」
「そうか」
「ごめんなさい。お爺ちゃんに考えて貰うのが嫌だという訳じゃないんだけど」
トリスは今の名前を捨てがたいと思ったのだ。
名前そのものに愛着がある訳ではない。
恐らくは適当に付けられた記号のようなものだということは分かっている。
それでもこの名前が、かつての仲間達との繋がりだという気持ちを捨てられなかった。
トリスがトリスとして繋ぎ止められるものの一つとして、この名前がある。
自分をこの名前で呼んでくれた仲間達の事を忘れられないからこそ、この名前を捨てられない。
そういう気持ちがあるのだ。
「………………」
マティルダはそんなトリスを痛ましげに見つめた。
忘れた方が楽になれる。
そう言ってやりたかった。
だけど言えなかった。
きっとどんなに言い聞かせても、トリスは絶対に聞き入れない。
トリスが本当に忘れたくないのは、忘れられないのは、初めて殺した幼なじみのことだろうから。
彼女のことを忘れられないからこそ、同じように仲間のことを忘れられない。
一番辛い思い出であると同時に、一番大切な思い出でもある筈だから。
マティルダにはそういった思い出がない。
大切だと思えるのは、今の生活に関わる人たちなのだ。
トリス、クラウス、そしてレヴィアース。
他にもこの屋敷で自分達の世話をしてくれる人たち。
全て大事だと思える。
だけど過去は過去として切り捨てている。
今の自分が幸せになる為には、過去を忘れた方がいいと思っているからだ。
薄情なのかもしれない。
だけど幸せになることを諦めないマティルダは、それでいいと思っていた。
「僕は、トリスのままでいたい」
しかしトリスは何も捨てられない。
何一つ忘れない。
それがトリスの選んだ生き方ならば、マティルダが口出しをする権利は無い。
「分かった。トリスがそう望むのなら、そのようにしよう」
クラウスはトリスがどんな思いを抱えているのかは知らない。
しかし彼なりの信念があるのだということは理解した。
「では明日には用意しておくから待っておくといい」
「早いね」
「戸籍ってそんなに早く準備出来るものなの?」
「普通は出来ん。しかし予め用意はしておいたからのう。後は必要な情報を整えるだけなんじゃよ。名字の方は適当に決めて良いのじゃろう」
「うん」
「それは何でもいいよ。元々家名なんて持ってないしね」
「でも格好いい名前だと嬉しいかも」
「よしよし。任せておけ」
クラウスは得意気に請け負った。
格好いい名前も考えてくれるだろう。
こうして、その日の食事は終了した。
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