「トリス先生さよーなら」
「ああ。さようなら」
「また明日ね~」
「ああ。また明日だな」
「トリスもばいばい」
「ああ。ばいばい」
夕方になると、空の家での学習時間は終わり、それぞれの家に帰ることになる。
といっても、同じ敷地内にある子供達がほとんどなのだが。
中には外から通ってくる子供達もいる。
両親を失った子供達や行き場を失った子供達だけではなく、自由度の高い教育システムを採用しているこの空の家にわざわざ子供を通わせたいという親もいるので、幅広く受け入れている。
外部からの受け入れにはそれなりの学費を払って貰っているが、教育内容は充実していて、親からの評価は上々らしい。
そして子供達は同じ敷地内の家に、外の家に、それぞれ帰っていく。
家の方と学校の方では担当者が違うので、家に帰ればまた別の世話係がいるのだ。
そちらの方では共同生活の心得や、日常生活で必要なことなどを教えている。
学校の方では勉強だけではなく、スポーツや護身術なども教えているが、その範囲が幅広い為、子供達が成長したら、かなり高度な分野で活動出来るようになるかもしれない。
将来的にはリーゼロック系列の会社での受け入れ準備もあるので、長期的視点ではリーゼロックの利益に繋がるようになっている。
もちろん子供達が他の国や会社での就職を希望すればその通りに叶えてやるつもりだが、恩を忘れていなければリーゼロックの為に尽くしてくれるだろう。
百パーセント無償の善意だけではないからこそ、そのシステムは健全に機能しているとも言える。
ゆっくりと時間を掛けて大樹を育てていくのに似ているのかもしれない。
そんな学校での生活を、トリスは受け入れつつあった。
亜人も人間も区別なく暮らしているこの環境は、トリスにとっては戸惑いも大きいが、それでも護るべき子供達が自分を慕ってくれるというのはなかなかに嬉しいと思えてしまうのだ。
自分はやはり『護る者』なのだろう、と思う。
弱い存在を護りたい。
自分を慕ってくれる存在を護りたい。
この手で護って、安らかに暮らしている姿を見守りたい。
心からそう思えるのだ。
そう考えると、マーシャはトリスに仕事を紹介したというよりは、再び生きる目的を与えてくれたという感じなのだろう。
仲間の過去に囚われ続けたトリスなので、亜人以外には興味が持てないと思っていたが、亜人と人間がごく当たり前に共存しているのを見ると、不思議な温かさに包まれる気がする。
これもクラウスやマーシャがロッティで活動した成果なのだろうと考えると、トリスは嬉しい気持ちで一杯になる。
マーシャだけではない。
トリスにとっての『帰るべき場所』も作ってくれたのだ。
人間に対しても、亜人に対しても、何のわだかまりもなく接することの出来る未来を信じて、ずっと頑張ってくれていたのだろう。
今は人間への憎しみも薄れているのが不思議だった。
昔は人間という種族そのものに憎悪を抱いていた。
もちろん例外はいる。
レヴィやクラウス達のような大切な人間を憎むことは出来なかった。
それでも人間の残酷さや非道さを経験してきているので、どうしても種族に対する憎悪は消えなかった。
しかし今は違う。
当たり前のように触れ合う二つの種族の子供達を見て、これが欲しかった未来なのだと理解出来る。
きっとこういう未来を夢見ていたのだと、自覚する。
「さてと。俺たちも帰るか、トリス」
「……うん」
もう一人の自分には相変わらず嫌われている。
無理もないと思う。
自分自身を偽物だと思い込まされ、尚且つ殺されようとしたのだから。
ちびトリス自身の責任ではないと分かっていても、そう簡単に納得出来るものでもないだろう。
授業が終わったらトリスとちびトリスはリーゼロック家へと戻ることになっているが、未だに一緒に帰ったことは無い。
「今日も一人で帰る」
「……そうか」
一緒に帰りたいという気持ちはあるが、無理強いは出来ない。
ちびトリスに対して距離を縮めたいという気持ちはあるが、どうやったら上手く出来るのかが分からないのだ。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
ちびトリスはトリスと目を合わせないまま立ち去ってしまう。
「………………」
その後ろ姿を見て、複雑な心境になる。
何かをしなければならないのに、何も出来ない自分が情けないと思ってしまうのだ。
「よう。凹んでるじゃないか、トリス」
「………………」
背後から声を掛けてきたのは、用務員姿のシデンだった。
かつてのファングル海賊団の長が用務員姿で児童養護施設の雑用をしているのだ。
なかなかにシュールな絵面だった。
「似合わないな、それ」
「うるせえな。俺だって似合わないと自覚してるさ。マーシャが紹介してくれた仕事なんだから仕方ないだろうが」
「PMCの仕事でも良かったんじゃないか?」
「それはまあ……そうなんだけどな……」
気まずそうに視線を逸らしながら言うシデン。
トリスが心配だからここにいるのだと素直に言える性格ならば、二人はもっと打ち解けていただろう。
「……悪いな」
「え?」
「そんな心配を掛けるほど、俺はまだ不安定に見えるんだろう?」
「いや、そういう訳じゃ……」
「隠さなくていい。それぐらいは分かる」
「………………」
「俺自身も不安定だと自覚しているからな。他人からそう見えるのは当たり前だ」
「……自覚はあるんだな」
「ああ。だが、ゆっくりと時間を掛ければ安定すると思う。今の時間が嬉しいと、そう思えるからな」
「正直、トリスにこういう仕事が向いているのは意外だったけどな。少し前からな考えられなかった」
「だろうな」
「こっちがお前さんの本質なんだろうな」
「かもしれない」
随分と無理をしていた。
無理をする理由があったからこそ続けていたが、心は常に悲鳴を上げ続けていたのだろう。
今は自分でも驚くぐらいに気持ちが安らいでいる。
「お前はどうなんだ?」
「何が?」
「用務員の仕事。はっきり言って似合っていないんだが、ちゃんとやれているのか?」
「失礼な。今日は花壇の手入れをしていたんだぞ。バッチリだ」
「………………」
元海賊団の副頭目が用務員姿で花壇の手入れ……
それを想像しただけで切なくなった。
しかしそれはシデンから見た自分の姿も同じなのだろう。
ファングル海賊団の頭目が、児童養護施設で子供達の先生をしているのだから。
どちらもシュールだ。
しかしどちらも上手くやれているのなら、何かを言う筋合いはないのだろう。
「………………」
「………………」
お互いに顔を見合わせて苦笑する。
どちらも似合わないと思いながらも、これで良かったのだと思える。
不思議な気分だった。
「俺の方は何も問題はないけど、トリスの方はまだ問題を抱えているみたいだな」
「問題ってほどのものでもないけどな」
「無理すんなよ。ちびトリスのこと、なんとかしたいんだろう?」
「……その通りだが、時間がかかることも分かっている。焦っても仕方ない」
「それはそうかもしれないけどな。俺としてはさっさと打ち解けて欲しいんだよな。見ていてハラハラするから」
「む……」
やはり心配を掛けているらしい。
しかし今のトリスにはどうしようもない問題なのだ。
「要するに、ちびトリスは自分の存在理由に悩んでいるんだよな?」
「その通りだ。しかしオリジナルである俺が何を言っても無駄だろう。オリジナルだからこそ、俺の言葉は壁一枚隔てた側からのものにしか聞こえない」
「だろうな。だが俺もそろそろ黙って見ているのは限界なんだ」
「ならどうするつもりだ?」
「アドバイスでもしてみようと思って」
「アドバイス?」
「聞きたいか?」
ニヤニヤ笑うシデン。
弟が自分におねだりしてくれるのをワクワクしながら待つような表情だ。
それを見たトリスは当然のようにむっとする。
しかし本当にそのアドバイスが効果のあるものならば、ちびトリスの為にも聞いておきたい。
ここは意地を張る場面ではないのだ。
「……教えてくれ」
「………………」
素直に教えを請うトリスを見て、本気で驚くシデン。
少しぐらいは意地を張ってくるだろうと思っていたのに、かなり意外だった。
「お前、本当に変わったなぁ」
「……ほっとけ」
「まあいいさ。どのみち教えてやるつもりだったしな。ちょっと耳貸せ」
そのまま教えてもよかったのだが、どうせなら内緒話にしておこうと思い、トリスの獣耳に口を近付ける。
トリスはそんな悪戯心に大人しく従った。
本当にちびトリスのことをどうにかしたいのだろう。
「……なるほど」
そしてシデンの案に感心した表情を見せるトリス。
獣耳がぴくぴく動いている。
アメジストの瞳がじっとシデンを見つめる。
「それは盲点だった。しかし今まで気付かなかった自分がアホに思えてくるな」
「もっと俺を褒めていいぞ」
「………………」
「何故ジト目で見る?」
「自分で思いつけなかったのが悔しいのが一つ。先に思いつかれてしまったのが腹立たしいので二つ」
「……理不尽だ」
「だが、感謝している。ありがとう」
「どういたしまして。お礼はもふもふでいいぞ」
「……お前、どこでレヴィさんの悪影響を受けたんだ?」
「失礼な。あんなアホもふもふマニアと一緒にするな。俺のはちょっとした興味本位だ。でかい尻尾だからな。前からちょっと触ってみたいと思ってたんだ」
「………………」
トリスは少し嫌そうな顔をしながらも、大人しく尻尾をシデンに向けるのだった。
「では早速♪」
前から触ってみたかった尻尾にわしゃわしゃと手を差し入れるシデン。
思った通り、かなり気持ちがいい。
「すげーな。これならあのアホレヴィが嵌まるのも分かる気がする」
「……アホレヴィって、それが定着しているのか?」
「悪いか? もふもふマニアの姿を見てアホだと思わない奴は珍しいと思うけど」
「………………」
困ったことに否定出来ない。
しかしトリスにとってレヴィは恩人であり、大好きな存在なのだ。
あまり悪く言われているのは面白くない。
「心配しなくてもそれが全部じゃないって分かってるさ。あいつの操縦は天才的だしな。操縦者としては尊敬している」
「ならいいけど」
「しかし向いていると言えばレヴィの方こそここに向いていると思うんだけどな」
人間も混じっているとは言え、基本的にはもふもふパラダイスなのだ。
レヴィの方こそここで先生をすればかなり天国だと思うのだが。
「それは無理だろう。もふもふマニアであることは間違いないが、あの人の本質は戦闘機操縦者だ。宇宙からは離れられないだろう」
「それもそうか。それにマーシャが手放さないだろうしな」
「それも間違いない」
マーシャはずっとレヴィを追いかけてきたのだ。
やっと同じ場所に立てるようになって、同じ操縦者として肩を並べられるようになったのだ。
その道を捨ててまでここで働かせるとは思えない。
「先生は出来なくても、本人はかなりここに来たがっていたけどな」
「そうなのか? ならどうして来ないんだ?」
「マーシャに究極に二択を迫られていた」
「究極の二択?」
「ここに来るなら、マーシャをもふるのは諦めろと言われていた」
「うわ……それはまた……きついな……」
もふもふマニアにとっては究極の二択だろう。
ちびもふが沢山居る空の家。
もふり放題ではあるが、マーシャをもふることは出来なくなる。
恋人であり、レヴィにとっては最高のもふもふでもあるマーシャをもふれなくなるのは拷問に等しい。
究極の二択どころか、拷問の二択なのかもしれない。
そしてレヴィは泣く泣く諦めたという訳だ。
「やっぱりあいつはアホだな」
「………………」
レヴィをアホ呼ばわりされるのは面白くないのだが、困ったことに否定出来ない。
トリスはむっとした表情で黙り込むだけだった。
「じゃあ俺もそろそろ戻る。お前は?」
「俺ももうちょっとしたら家に戻るよ。少し仕事が残っているからな」
「そうか。じゃあな」
「おう。じゃあな」
元海賊の二人は和やかな空気で別れた。
「上手くいくといいな」
立ち去っていくトリスの後ろ姿を見ながら、シデンは密かにエールを送るのだった。
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