「駄目なんだ。僕を止める為にマーシャはあんな深い傷を負った。自分を見失った僕は、マーシャのことにすら気付けない。傷つけて、殺しそうになって、ようやく気付ける。それが僕には許せない。もう二度と、マーシャを傷つけたくないんだ」
「つまり、マーシャを殺しかけたことが一番の原因なのか?」
「……うん。それが一番許せない。今の僕に、マーシャの傍に居る資格はない。少なくとも、僕はそんな自分を許さない」
「……困ったもんじゃな」
トリスを引き戻せるのはマーシャだけだが、それには代償が伴う。
次もマーシャが生き残れるとは限らないのだ。
殺していてもおかしくはなかった。
それはトリス自身が一番よく分かっている。
だからこそ自分自身が許せないのだろう。
「マーシャが傍に居て欲しいと願っても、その気持ちは変わらないか?」
「うん。僕はもう、マーシャの傍には居られない。セッテ・ラストリンドは必ず殺すし、仲間の遺体も取り戻す。いや、取り戻せなくても、もう二度とあんなことに利用させない。焼き尽くすか、塵に還す。それを達成するまで、僕は止まれない。もう、止まるつもりもないんだ」
「儂が先に見つけるかもしれんぞ」
「お爺ちゃん?」
「トリスの懸念は仲間の遺体と、それを辱めたセッテ・ラストリンドへの復讐じゃろう? ならば儂が先に見つけて処理すれば、トリスには復讐を続ける理由が無くなる。違うか?」
「………………」
「もちろん、トリスに復讐の機会は残しておく。見つけたら、必ずトリスに知らせる」
「どうして……」
「ん?」
「どうして、僕にそこまでしてくれるの? 僕は、お爺ちゃんを憎むかもしれないって言ってるのに……」
「憎まれても可愛い子がいるんじゃから仕方ない」
「………………」
「その憎しみは、優しさの裏返しじゃろう? 否定したりはせんよ。トリスらしさでもある。哀しいことではあるが、それはトリスがトリスでいる為に必要なことでもある。だから、儂は儂に出来ることをしようと思う」
「お爺ちゃん……」
「儂は引き留めたりはせんよ。ここを出て行きたいというのなら、好きにするといい。ただし、いくつかの条件は守って貰う」
「条件?」
「連絡先を明らかにしておくこと」
「……それは」
トリスが気まずそうに視線を逸らす。
これから自分がやることは、犯罪者そのものだ。
迷惑を掛けない為にも、クラウス達との繋がりは断っておく必要がある。
しかしクラウスはそれを許すつもりなどなかった。
「心配しなくてもマーシャには教えたりせんよ」
「え?」
「マーシャに教えたら追いかけられるかもしれないって心配しているのじゃろう?」
「それは……」
「居場所を明らかにしろとまでは言わんよ。ただ、この携帯端末を持っていって欲しいだけじゃ。それでいつでも連絡が取れる。たまに話をしたくなった時に、相手になってくれると嬉しいんじゃがな」
「………………」
差し出された携帯端末を受け取るトリス。
クラウスが本気で自分を心配してくれているのは分かっている。
その気持ちを無碍にすることは出来なかった。
「それからこのカードも持っていけ」
渡されたのは、限度額ほぼ無制限のカードだった。
これがあればほぼ何処の地域でも通用するし、カードが使えない店であっても現金を引き出すことが出来る。
トリスが一人で生きていく為には絶対に必要なものだった。
「僕は自分勝手に出て行くのに、そこまでしてくれなくてもいいよ」
流石にこれはトリスも辞退しようとした。
自分勝手に出て行くのだから、それぐらいは自分で何とかしようと思っていたのだろう。
しかしこの姿のトリスが真っ当に働くとは考えにくい。
というよりも、事実上不可能だろう。
「これも条件の一つじゃ」
「え……」
「この先何をするにしても、先立つものは必要じゃろう?」
「それは……」
「その為の軍資金じゃな」
「でも、僕がこれからやろうとしているのは……」
「犯罪行為、じゃろう?」
「うん」
「それを分かった上で手を貸していれば、儂も巻き込まれる。トリスはそう心配しているんじゃな?」
「うん……」
それだけは嫌だった。
クラウスのことは今でも大事な家族だと思っているし、きっとこれからも同じ気持ちだと信じている。
しかし自分の中にある憎悪の気持ちも止められない。
いつか、彼にもそんな気持ちをぶつけてしまうかもしれないことが怖かった。
「トリスは優しいな」
「え?」
「優しいからこそ、こういう時に苦しんでしまうんじゃろうな」
「お爺ちゃん……?」
「心配しなくても、それは出所を突き止められないように細工済みの金じゃ。儂もこれだけの企業のトップじゃからな。裏の仕事をまったく依頼していないとは言えんよ。もっとも、それほど汚いものではないがな。表沙汰にするには少しばかり気が引ける程度のものばかりじゃ」
「………………」
「だから、その金を使っても儂に迷惑はかからんよ。心配しなくてもいい」
「………………」
「それに、その金を使わなかったら、トリスは軍資金を調達するのに犯罪行為に走りかねんじゃろう?」
「う……」
確かにその通りだった。
何事にも先立つものは必要だということも分かっている。
しかし今のトリスは人間を憎悪しているので、そこから奪い取ることに躊躇いはないつもりだった。
「それは止めて欲しいんじゃ」
「お爺ちゃん……」
「トリスが人間を憎んでいるのは分かっている。じゃが、悪い人間ばかりではないということも知っているじゃろう?」
「……うん」
「だったら、無関係の人間は巻き込まないで欲しい。復讐を止めるつもりは無いし、仲間の遺体を取り戻して欲しいとも思う。その為にトリスが手を汚すのも、この際はやむなしじゃと割り切っている。トリス自身が覚悟を決めていることなら、周りが何を言っても無駄じゃからな」
「………………」
「これはその為の手段じゃよ。犯罪に加担するのではなく、必要以上の犯罪を防ぐ為のものと考えてもらいたい」
「………………」
そう言われては受け取らない訳にもいかない。
必要以上に手を汚すことも厭わないという覚悟だったが、それを止めたいと願ってくれている人の心を無碍にすることも出来なかった。
そういう部分では非情になりきれない、優しすぎる少年なのだ。
「分かった。これは、ありがたく使わせてもらう。少なくとも、目的以外のことに対する犯罪行為はしないと誓う」
「いい子じゃ」
クラウスは嬉しそうにトリスの頭を撫でた。
必要以上に手を汚して欲しくないという気持ちも本当だったが、それ以上に、必要以上に危険なことをして欲しくないという気持ちの方が強かった。
人間は金に執着する生き物でもある。
それを奪い取られるとなれば、どんな過激な防御手段でも講じるだろう。
特に大金が絡むとなれば、奪い取った相手を殺すことも躊躇わない。
トリスをそんな危険な目に遭わせたくはなかった。
「お爺ちゃん」
「なんじゃ?」
「いろいろ、ありがとう」
「構わんよ。可愛いトリスの為じゃからな」
「今まで、本当にありがとう」
「それは受け取れん礼じゃな」
「え?」
今までお世話になった礼をしようと思っていたのだが、拒絶されてしまう。
トリスは少しだけおろおろしてしまった。
礼を言われるのも嫌になってしまったのだろうか。
憎悪の気持ちに支配されそうになっても、まだ素直な部分を残しているトリスは大いに戸惑った。
「そんな顔をするな。トリスを嫌いになったりはしない」
「うん……」
「ただ、礼は言われたくないのじゃよ。今生の別れになるような礼は尚更受け取りたくない」
「お爺ちゃん?」
もちろん、今生の別れのつもりで言った筈だった。
トリスはこれから仲間の遺体を取り戻す。
そしてそれに関わった人間を一人残らず殺す。
そういう人生を歩むつもりだった。
それは命懸けの目的となるだろう。
途中で燃え尽きてしまうかもしれない。
それでも、目的に向かって突き進み続けることを止めるつもりはなかった。
「帰っておいで」
「え?」
「全部の目的を果たしたら、ここに帰っておいで」
「お爺ちゃん……」
「トリスが捨てるつもりでも、振り返らないつもりでも、ここがトリスの家じゃからな。目的を果たしたら、ここに帰っておいで」
「………………」
アメジストの瞳に涙が溢れる。
こんなにも温かい言葉をくれる人に背を向けることが哀しかった。
そしてこんなにも深い愛情を注いでくれる人を裏切ることが哀しかった。
それでも、自分の意志を曲げられないことが何よりも辛かった。
「目的を果たせなくても、疲れ果ててしまっても、それでもここに帰っておいで。帰りたくなった時、羽根を休めたくなった時、ここに帰っておいで。ここがトリスの帰るべき家で、家族が待つ場所なのじゃからな」
「うん……」
トリスはぐすぐすと鼻をすすった。
温かい言葉が何よりも嬉しかった。
そして何よりも突き刺さるものだった。
これからの自分は憎悪と共に生きていく。
人らしい感情なんて邪魔なだけだ。
それでも、この気持ちを捨てたくない。
向けられる愛情に対して、誠実でありたい。
そう願う自分もいた。
「うん」
トリスはもう一度頷いた。
しっかりと、力強く、頷いた。
「約束する。いつか、帰ってくる。ここに、ちゃんと帰ってくるから」
それは果たせない約束なのかもしれない。
だけど、決して忘れないと誓う。
それがトリスの精一杯だった。
そしてトリスは自分から立ち上がって、クラウスの腕の中へと収まった。
「ありがとう。お爺ちゃん。あなたは僕にとって、本当に心許せる家族だった。ううん。これからもそれは変わらない。だから、いつか帰ってくる。途中で燃え尽きても、魂だけになっても、きっとここに帰ってくるから」
「やれやれ。出来れば身体と一緒に帰ってきて欲しいんじゃがなぁ」
クラウスは小さな身体を抱きしめてから、頭を撫でる。
精一杯の愛情を込めた仕草だった。
不器用で、優しすぎる少年がくれた精一杯の言葉に対して、待っていることしか出来ない無力さが少しだけ歯痒かったが、それでも笑って見送ろうと決めていたのだ。
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