時間は八年ほど遡る。
ランカ・キサラギという少女がまだ幼い子供だった頃まで。
当時はまだ八歳の子供で、幼年学校に通っていたランカは今とは違い、平穏で楽しい生活を送っていた。
学校に通い、友達と遊び、適度に勉強もしていくという、当たり前の日々。
自分の家がマフィアだということは知っていたし、知られてもいたけれど、それを理由に怖がられたり、避けられたりすることは無かった。
キサラギは地元に慕われている組織だし、街の人間もランカには気さくに接してくれる。
ランカはそんな中ですくすくと育っていった。
しかしもちろんそれだけではない。
キサラギの正統血統として、次期当主としての教育もしっかりと受けていた。
ランカの父であるトウマ・キサラギは、厳しさと優しさを兼ね備えた立派な人物だった。
彼は幼いランカによく言い聞かせてきた。
キサラギの役割は自由を護ることだと。
ニラカナからの第二期移民である北部の人間は自由の気風がかなり強い。
支配を良しとせず、共存を尊ぶ、そんな人たちなのだと。
そしてキサラギは、それを護る為に存在するのだと。
そこに生きる人々の安全と自由を護る為の盾となり、そして剣となる。
それこそがキサラギという家の役割だ。
幼いランカはその理念に共感して、将来自分がそれを実践出来るように努力した。
よく学び、よく遊び、そして強くなろうとした。
そしてそんなランカの傍に居て、ずっと見守ってくれていたのが、タツミ・ヒノミヤという、当時はまだ少年だった男だ。
護衛兼世話係兼教育係をトウマから任されているタツミは、ランカの我が儘に一番振り回される立場でもあったが、それも含めて自分の仕事を楽しんでいた。
一緒に遊んだり、学校の送り迎えをしたり、時には宿題を手伝ったりもしていた。
今はランカの希望で、棒術の訓練にも付き合っている。
正直なところ、武術を仕込むのは気が進まなかったが、子供の遊び、チャンバラごっこの延長線ぐらいなら構わないだろうと思ったのだ。
幼い身体で必死に棒を振り回すランカは「やあっ!」と可愛らしい声を上げながらタツミに突撃してきた。
もちろんそんな攻撃を食らうようなタツミではないので、苦笑しながらも軽く受け止める。
とりあえず好きに攻撃させておいて、体力が尽きるまでそれに付き合った。
ぺたんとその場に座り込んでしまったランカを抱えてから縁側まで運んでやると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。
よく冷えた麦茶を出してやると、ごくごくと一気飲みしてしまう。
そんなランカを見て、タツミが質問を投げかける。
「お嬢。どうしていきなり棒術を学ぼうと思ったんだ?」
タツミの質問に、小さな主はふふんと得意気に笑った。
「だって父さんの跡を継いでキサラギの当主になるには、強くならないといけないでしょ?」
それが当然だと信じている口調だった。
幼さ故の単純な理由に微笑ましい気持ちになるが、護衛兼世話係兼教育係でもあるタツミは、そこで大事なことを教えるのを忘れなかった。
「強さにも色々あるぞ、お嬢。暴力だけが力じゃない」
「いろいろな、力?」
「そう。たとえばボスの事を考えてみるといい」
「父さんのこと……」
トウマ・キサラギはマフィアの当主でありながらも、自らはほとんど戦闘能力を持たない。
格闘技術はもちろん、射撃の腕も人並みでしかない。
護衛に囲まれて、日々の仕事をこなしている。
しかしそれでも、ピアードル大陸北部を立派に守護している、誰もが認めるキサラギの当主だった。
誰よりも父を尊敬しているランカは、キラキラした瞳でタツミを見上げながら答える。
「確かに父さんは自分じゃ戦わないけど、でも立派な当主だよね」
「その通り。ボスは立派な当主だ。戦闘能力は無いけど、でもそれ以上の力を沢山持っている」
「それ以上の力?」
その力について、タツミはなるべく分かりやすく説明していく。
地域を活性化させる財力。
地元民との協力や共存で得られる人脈と情報。
外部からの干渉や圧力に屈しないだけの交渉力や胆力。
暴力に兵力で応じるだけの意志力と決断力。
「い、色々あるね……」
幼いランカにはまだしっくりこないものだったが、それでも自分の父親はやっぱり凄い人なんだと改めて尊敬する。
「そうとも。色々ある。でもボス自身には戦闘能力が無い」
「………………」
「でも俺達にとっては立派なボスだ」
「うん」
「つまり本人の戦闘能力はそこまで重要じゃないってことさ。そしてお嬢にはそういう『力』こそを追い求めて欲しいって思ってる。暴力での解決は俺達兵隊に任せておけばいいんだよ。お嬢はお嬢にしか使えない力を身につけるべきだと、俺は思うね」
「でもいざという時の為に、自分を護ることは必要だと思うんだけど」
「それも確かだな。だからこうやって特訓に付き合ってるんだし。まあ安心しろよ。お嬢の事は、俺が絶対に護ってやるからさ」
「本当?」
「もちろん。何があっても。どんな事をしてでも、絶対に護ってやる」
軽く言っているようでも、その決意は本物だった。
それがランカにも伝わったようで、安心したようにはにかむ。
幼い無垢な信頼は、タツミにとっても心地いいものだった。
しかしランカはまだ気付いていなかった。
何があっても。
どんな事をしてでも。
この言葉が持つ恐ろしい意味に、全く気付いていなかった。
いつでもどこでも傍に居てくれて、どんな時でも自分を護ってくれる騎士《ナイト》の存在を、ただ喜んでいただけだったのだ。
だから、その翌日に起こった事も、ある意味では必然だったのかもしれない、と八年の歳月が過ぎてもランカは思うのだ。
前兆も、情報も、何も無かった。
気がついたらラリー一家の放った刺客に囲まれていて、銃を向けられていた。
その数は十二。
これだけの人数が一度もキサラギの警戒網に引っかからず、キサラギが本拠地を置く絶対的な領域の奥深くまで入り込んでいたという事実が信じられなかった。
後から調べて分かったことだが、彼らを手引きしたのは、何年も前からキサラギに入り込んでいたラリーの内通者だった。
それだけの時間と手間を掛けてまでやろうとした事が、八歳の幼女の殺害なのだから、後から考えればかなり呆れた話ではあるのだが。
しかし下準備にそれだけかけただけあって、その目論見は成功しようとしていた。
全く予想していなかった襲撃なので、護衛は運転手とタツミの二人のみ。
戦力差は圧倒的で、しかもランカだけではなく、一緒に下校していた友達も傍に居たのだ。
彼らは最初からランカを殺すのではなく、一度攫ってから、無惨な方法で処刑しようとしていた。
そうすることでキサラギの当主と、彼を慕う人間の心を折ろうとしていたのだ。
もう一人の護衛がすぐに撃たれてしまい、ランカが男達の手に捕らえられてしまう。
捕まったランカはじたばたと暴れるが、当然のようにビクともせず、そのまま車に乗せられようとしていた。
タツミも奮戦していたが、人数が多すぎてランカに近付くことも出来ない。
自分が撃たれる事を覚悟してランカの所に駆け寄ろうとも思ったが、それでは後が続かないことも分かっていた。
目の前の敵を倒しながら、どうすればいいのかを必死で考えるが、打開策は何も無い。
絶望だけがそこにあった。
ランカは知らない男の腕に抱えられながら、人生で最大の恐怖を体験していた。
これから攫われて、酷い目に遭わされて、殺されるのだと確信していた。
すごく怖かったし、泣き出してしまいたかった。
けれどキサラギの次期当主として、それだけはするまいと歯を食いしばって耐えていた。
その時、傍に居た友達のコノハがランカを捕まえた男の足に噛みついた。
「ランちゃんを離せーっ!」
幼さ故の無知と無謀な正義感が、コノハの身体を動かしていた。
子供とは言え全力の噛みつき攻撃は、男にとっても溜まらなかったらしく、抱えていたランカを取り落としてしまう。
「こ、このクソガキがっ!」
そして大事なところで邪魔されてしまった男は、怒り交じりに懐から銃を取り出す。
その銃口はコノハに向けられていた。
それを見たランカは、迷わずコノハの前に飛び出した。
「ランちゃんっ!!」
「お嬢っ!!」
コノハとタツミが叫ぶと同時に、ランカはその小さな身体に凶弾を受け止めてしまう。
撃たれる筈だったコノハを庇い、そのまま倒れ込む。
「お嬢っ!!!」
「ランちゃんっ! ランちゃんっ!! しっかりしてっ! ねえ、嘘だよねっ!? こんなの嘘だよねっ!?」
泣き叫ぶコノハの声も何だか遠くて、ランカは薄れていく意識の中で、友達を護れて良かったと安心していた。
「無事で……良かった……コノハ……はやく、逃げて……」
彼らの狙いは自分だけで、コノハが逃げ出したとしても見逃される筈だ。
だから逃げて欲しかった。
しかし恐慌状態になったコノハは、悲鳴を上げ続けるだけでその場から動こうとしない。
そしてそれを見ていたタツミの中で何かが壊れた。
「てめえら、邪魔だっ!!」
狂ったように暴れ始め、今まで以上の勢いで鋼鉄の棒を振るう。
その場に居た敵を一人残らず殺してしまう。
それまで殺すのではなく無力化する為の攻撃に限定していたのは、ランカに人の死を見せない為だった。
その甘さが間違いだとは思わないが、今だけは構っていられなかった。
一刻も早く彼らを殺さなければ、ランカが死ぬ。
その一心で次々と殺し続けた。
振るわれる鋼鉄の棒は敵の頭部を破壊し、顔を潰し、胴体を貫いた。
タツミの主武装である棒には、それだけの強度と破壊力が備わっている。
それを棒術の達人であるタツミが振るえば、立派な凶器になるのだ。
刃は付いていなくとも、それは立派な殺人武器として機能する。
殺して、殺して、殺し続けた。
相手の血で視界が真っ赤になるぐらいに、殺し続けた。
そして薄れゆく意識の中でその光景を見続けたのは、幼いランカとコノハだった。
「や……め……」
止めてっ!! と叫びたかった。
自分を護る為に、助ける為にやっているのは理解している。
タツミが敵を殺すほどに、自分が助かる可能性が増すのも分かっている。
それは痛いほどに分かっているのだ。
それでも止めて欲しかった。
『何があっても。どんなことをしてでも、絶対に護ってやる』
その言葉を思い出す。
そしてその意味を、一番残酷な形で突きつけられた。
止めてっ!
もう止めてっ!!
声にならない悲鳴は、決して届かない。
私の所為だ。
私が悪いんだ。
私が弱かったから、タツミがあんなことをしてしまった。
遠のく意識の中で、ランカは狂うほどに己の無力さを呪った。
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