旗艦アイリスがロッティへ戻ったのは、それから二日後のことだった。
推進機関を撃たれたので、その修繕作業にかかりきりだったのだ。
その間、マーシャとトリス、そして他の隊員達は居住区画でのんびりと過ごしていた。
運行に必要なメンバーは交代で艦橋に残っていたが、その他の人間は特にやることもなかったのである。
暇を持て余していたが、これで給料が発生するのだから儲けものだという意識らしい。
敵を取り逃がしたのは痛恨だが、それに関しては今後も調べていけばいいと割り切っている。
そしてトリスの方はほぼマーシャに付きっきりだった。
「マーシャ。食事を持ってきたよ」
マーシャの待つ部屋に二人分の食事を持ったトリスが入ってくる。
トレイに乗った食事は出来立てで、かなり美味しそうだった。
メニューは焼きたてパンとスープ、そしてフレッシュジュースだ。
片手で一トレイずつ持っているので、落としたら大惨事になるが、トリスはうまくバランスを取っていた。
落としそうだという不安定さは見受けられない。
「ありがとう。でも、自分で取りに行けるぞ」
「駄目だよ。まだ肩の傷は治ってないんだぞ」
「それはそうだけど。でもトレイぐらい片手で持てる」
「駄目だ」
「……トリスは過保護だ」
あまり過保護にされるとむくれてしまうマーシャだった。
過保護は嫌いではない。
しかしそれは大人にされる場合だ。
大人が過保護になる場合は自分をそれだけ可愛がってくれているし、子供は大人に護られるものだという意識があるからだ。
しかしマーシャにとってのトリスはあくまでも対等な仲間なので、ここまで過保護にされるのは面白くないと感じてしまうのだ。
「ごめん。でも、無理したら治るのが遅くなるかもしれないし、それは嫌なんだ。僕がつけた傷だから」
「気にしなくていいのに」
「無理だよ」
「まあ、トリスはそういうタイプだよな」
「うん」
マーシャの前に食事のトレイを置くと、自分もその隣に座る。
「でも、もうほとんど痛まないぞ。むしろ痒いぐらいだ」
「……掻いちゃ駄目だからね」
「駄目かな? むずむずするんだけど」
「絶対駄目」
「む~……」
痒いのに掻けないというのは、それなりにストレスが溜まるようで、マーシャは少しだけむくれた。
しかし早く治ってくれるに越したことはないので、大人しく従うことにした。
マーシャの怪我が治らない限り、トリスは過保護をやめようとしないだろう。
それは困るのだ。
早くいつもの調子を取り戻して欲しい。
「トリス」
「何?」
「シチューの肉、ちょっと分けてくれ」
「いいよ」
トリスは素直に従ってくれる。
自分のシチューに入っていた肉を三切れほどマーシャのところに移す。
彼も肉食獣なので肉は恋しい筈なのだが、マーシャのおねだりには弱い。
そしてこれが自分とマーシャの違いなのだろうと思っている。
自分はマーシャほどあけすけになれない。
欲しいものを欲しいと素直に言えない。
だけど自分とマーシャは違う存在なのだから、無理に変わろうとする必要は無いのだろうと自分を納得させている。
全部食べ終わると、今度は片付けまでトリスがやってくれる。
至れり尽くせりだったが、ここまでされると少し居心地が悪い。
「ちょっとは自分で動きたいんだけど」
「駄目だよ」
「ちょっとは自分で動いた方がリハビリになると思うんだけど」
「駄目だよ」
「………………」
てこでも動かない態度だった。
完治するまではマーシャをとことん過保護にするつもりらしい。
マーシャはやれやれとため息を吐いた。
何を言っても無駄ならば従うしかない。
心配をかけていることも事実だし、その件に関してトリスが負い目を感じているのも確かなのだから。
それに付き合う義理があるのだろう。
義務ではないのだから反発してもいいのだけれど、今のトリスをこれ以上不安定にするのは気が進まなかった。
「まあいいけどさ。じゃあ片付けの方はよろしく」
「うん。任せて」
トリスは二人分のトレイを抱えてから、再び部屋から出て行く。
その後ろ姿を見送ったマーシャがため息を吐く。
「駄目……なのかな……」
呟いた言葉はトリスには届かない。
しかし届いたところで無駄なのは分かっている。
トリスの自由意志を止めることは、マーシャにも出来ない。
だからこそ辛かった。
「レヴィアース。私はどうしたらいいのかな……」
自分を助けてくれた人の名前を呼ぶ。
もう会えないかもしれない人。
だけどもう一度会いたいと、心から願う人。
今ここにいてくれたなら、何を言ってくれるだろう。
悩むマーシャのことなどお構いなしに、最善の道を示してくれそうな気がするのに。
こんな時にこそ居て欲しいのに。
しかし甘えてはいけない。
レヴィアースにはレヴィアースの人生があるのだ。
それを自分達の都合でかき回してはいけないことぐらい分かっている。
「トリスに対して何を言ったらいいのか分からないんだ。どうしたらいいのかも分からない。正しくなくてもいいんだ。ただ、この時間が、今の日常が、続いて欲しいだけなのにな……」
やっと手に入れた平穏な日常。
幸せだと思える毎日。
ささやかな日々がいつまでも続いて欲しい。
そう願うことはそれほどまでに贅沢なことだろうか。
マーシャは続くことを願っている。
そしてトリスは自分からそれを壊そうとしている。
未来よりも、過去を選ぼうとしている。
「結局、私ではトリスを変えられなかったってことなのかなぁ……」
誰よりも近い存在のつもりだった。
少なくとも、生き残ってからはそう感じていた。
だけど今はトリスが遠い。
彼が何を考えているのかが分からない。
何をしようとしているのかは分かるのに、その心の中がどれほどの憎悪に苛まれているのか、察してやることが出来ない。
マーシャはトリスほど仲間を大切にしていた訳ではないから、仲間の死をそれほど悼むことが出来ないのだ。
だからマーシャにトリスの気持ちは分からない。
分かりたくても、分からない。
分かってあげられないことが哀しかった。
★
それからアイリスの修理が完了して、ロッティへと戻った。
トリスは真っ先にクラウスの所へと連れて行かれた。
仕事中だったクラウスはその手を止めてトリスへと駆け寄った。
「トリス。無事で良かった。よく無事で戻ってきてくれたな」
ぎゅっと抱きしめてくれるクラウスの腕が温かくて、泣きそうになってしまう。
トリスもクラウスを抱きしめてから頷いた。
「心配掛けてごめんなさい。お爺ちゃん」
「いいんじゃ。トリスの所為ではないからな。うちの護衛が少し甘かったのは確かじゃが、ここまでのことを想定していなかった儂の責任でもある」
「助けてくれてありがとう」
「それは当然じゃ。可愛い孫みたいなものじゃからな」
「うん」
当然のように言ってくれる言葉が何よりも温かい。
「詳しい報告もハロルドから聞いている。大変じゃったな」
「うん……」
「セッテ・ラストリンドのことは儂も調べておく。今は悔しいじゃろうが、耐えてくれるか?」
「うん……」
「トリス。お帰り」
「……ただいま」
ただいまと言えるこの場所が大事だった。
何よりも大切で愛おしい、自分の居場所。
居てもいいと言って貰える場所。
おかえりと言って貰える。
そしてただいまと言える。
それはこんなにも幸せなことだと、トリスには分かっている。
だけど、だからこそ、そこに甘んじることは出来ないという気持ちがあった。
今の自分にそんな資格はないのだということを、トリスは何よりも自覚していた。
「………………」
そんなトリスの様子の変化にクラウスは気付いていたが、何も言わずにトリスを抱きしめ続けた。
この少年が何を決意したとしても、自分は止めることも出来ないだろうと分かっていたからだ。
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