「………………」
せめて声だけでも聞かせてやろうという配慮に、トリスはまた泣きそうになる。
「レヴィ? なかなか戻ってこないけど、何してるんだ?」
「おう、マーシャ。ちょっとな。せっかくだからクレイドルをうろうろしているんだ。美味しいブレヒト蟹を出す屋台を見つけたぞ」
「ブレヒト蟹を屋台で? なんだそれは。正気じゃないな」
「だよな~。でもまあ美味いぜ。臓物の煮込みとか最強だな」
「それは私も食べてみたいな。今から合流してもいいか?」
「俺の方はもう満腹だからなぁ。折角だから明日にしないか?」
「それもそうだな。じゃあ明日で」
「おう。もう少ししたらホテルに戻るから、その後たっぷりもふもふさせてくれよな♪」
「そればっかりだな。まあいいけど。じゃあ待ってるから」
「おう。じゃあな」
そして通話は切れた。
「………………」
トリスは久しぶりに聴いたマーシャの声に表情を緩めていた。
昔と較べて随分と大人っぽい声になっている。
それでいて、幸せそうな声だった。
それだけで十分だと思えるほどに。
「俺は明日もマーシャとここに来るけど、トリスはどうする?」
「……俺は、いい。まだ会えないから」
「そうか」
会いたい。
ずっとずっと、会いたかった。
それでも、まだ会えない。
今の自分は、七年前から一歩も進んでいない。
目的を果たすまで、戻ることは許されない。
それが自身に課した誓いだから。
トリスは無意識に胸の辺りを握りしめていた。
服の下にあるのは、マーシャの尻尾の毛で作られた御守りだった。
トリスがリーゼロックから飛び出す前に、マーシャが託してくれた想い。
それを握りしめて、自分の気持ちを押しとどめる。
立ち止まりそうになる度に、諦めそうになる度に、この御守りを握りしめていた。
そうすることで、あの時の気持ちを思い出せるように。
戻りたい。
だけど戻れない。
あんな想いを抱えて生きていくぐらいなら、壊れるまで、燃え尽きるまで進み続けることを選ぶと決めたあの日。
それを思い出す度に、トリスは折れそうになる意志を奮い立たせてきた。
「トリス?」
苦しそうにしているとリスを心配そうに見つめるレヴィ。
「何でも……ない……」
「………………」
何でもないという表情ではないのだが、そういう青年の強がりをレヴィは理解していた。
自分にも覚えがあることだからだ。
辛い時にこそ、折れる訳にはいかない。
だからこそ、他人の前では強がる。
そしてもう一度立ち上がる。
そういう経験を、レヴィもしてきているのだ。
何を言っても無駄だろう。
止めたところで、止まらない。
放っておくことも出来ないが、だからといって止める権利も無い。
だからこそ、言えるのはたった一つの気持ちだけだった。
「トリス」
辛そうに俯くトリスの頭を、少しだけ強く撫でる。
「レヴィ……さん……?」
昔と同じように、くしゃくしゃと撫でる。
今はカツラで隠している獣耳がぴくんと動くのを確かに感じた。
本当はありのままのトリスを撫でてやりたかったが、それでも気持ちは伝わるだろう。
「何をするつもりなのかは知らない。止めるつもりは無いし、俺には止める権利も無い」
「………………」
「だけど、これだけは覚えておいて欲しい」
澄んだ金色の瞳が、荒んだアメジストの瞳をじっと見据える。
変わらないものと、変わり果てたもの。
それでも、変わらない関係だけは確かに存在した。
「俺も、マーシャも、クラウスさんも、トリスが戻ってきてくれるのを待っている」
「………………」
「今すぐじゃなくてもいい。トリスにも譲れない目的があるんだろう?」
「………………」
くしゃくしゃに顔を歪めたトリスが俯きながら頷く。
そんなトリスの頭を、更に優しく撫でるレヴィ。
「ただ、待っていることを頭の片隅にでもいいから、覚えておいて欲しいんだ」
「……分かってる」
「だよな。トリスはそういう奴だ」
「………………」
誰よりも優しかった少年。
成長して、闇に堕ちて、荒んでしまっても、奥底にある心だけは変わらない。
自分を心配してくれている人、慈しんでくれている人の想いを忘れたりはしないし、出来ない。
「待っている。俺たちはずっと、トリスを待っている。待っていても、いいよな?」
「うん……」
それは、トリスを縛り付ける言葉でもあった。
想いという鎖。
愛情という名の束縛。
それは時に人を縛り付け、そして踏みとどまらせてくれる。
燃え尽きようとしているトリスを、ギリギリのところで踏みとどまらせてくれる想いだった。
「いつか……帰りたい……」
二度と帰れないと覚悟していた。
それでも、帰りたいと願っていた。
クラウスが望んでくれたように。
マーシャが託してくれたように。
そして、レヴィが届けてくれたように。
「待ってるからな」
レヴィはトリスの身体を自分の方に引き寄せてから、そっと抱きしめる。
自分と同じぐらい大きくなったのに、まるで小さな子供のように弱々しい。
きっと根本の部分では何一つ変わっていないのだろう。
あやすように背中をぽんぽんと叩く。
しばらくはレヴィに身を預けていたトリスだが、すぐにその身体を離した。
「ありがとう。レヴィさん。でも、今はこれ以上、貴方に寄りかかれない」
「そうか。まあ、疲れたらいつでも言えよ」
「うん……」
安心出来る場所。
マーシャと同じように、トリスにとっても、レヴィの傍は心安らぐ場所なのだろう。
自分を心から心配して、労り、受け入れてくれる場所。
だからこそ、今はそこに身を委ねられない。
「そろそろ、行く」
「そうか。ここは奢っておいてやるから、元気でな」
「うん。ありがとう」
トリスはゆっくりと立ち上がって、レヴィに頭を下げてから立ち去っていった。
その後ろ姿は今にも壊れそうなぐらいに脆いものだったが、レヴィは何も言わなかった。
言葉で止まるぐらいならば、七年前に止まっている。
だから、今は好きにさせるしかないのだろう。
生きていてくれた。
どれほど変わっていても、生きていてくれた。
それだけで十分だった。
「やれやれ。マーシャになんて言えばいいんだ、これ」
生きていてくれたことは嬉しいのだが、マーシャにあんな姿のトリスを見せるのは気が引ける。
マーシャを傷つけたくはなかったし、何よりも、あんなトリスを見せたくはなかった。
しかしこのまま放っておくことも出来なかった。
何も言う権利はない。
それでも、何か出来ることはある筈だ。
きっと、マーシャも賛成してくれる。
だからこそ、トリスが何をしているのか、何をしようとしているのか、その情報が欲しかった。
「なあ、あいつって、よくここに来ていたのか?」
レヴィが立ち寄ると分かった以上、トリスはもうここには来ないだろう。
あんなに弱々しい自分に立ち戻ってしまうのは、トリスとしても本意ではない筈だ。
「ああ。といっても、いつもはあんな弱々しい感じじゃないけどな。どちらかというととげとげしいっつーか。まあ若いのに悲惨なものを目にしてきたんだろうなって顔だ」
「………………」
「たまにまだ三回目ぐらいだが、臓物の煮込みとか、後は適当につまみを食っていったな。酒もそれなりに強い」
「だろうな……」
マーシャの酒豪っぷりを見る限り、トリスも同類だろうとは思っていた。
亜人が酒に強いのか。
それとも二人が別格なのか。
なんとなくだが、後者のような気がする。
「堅気じゃないことは分かっているが、支払いもしっかりしているし、悪い奴じゃないと思うんだがな」
「当たり前だ。トリスはすげーいい子だぞ」
「その様子だと知り合いか」
「昔会ったっきりで、すげー久しぶりだけどな」
「その割には随分と心を開いていたようだが」
「まあな。開いてくれたのは俺も嬉しいと思ってる。でも、だからこそ心配なんだよな」
「その辺りの事情はよく分からないが、また二人で来てくれたらサービスぐらいはしてやるよ」
「おう。期待してるぜ」
レヴィは支払いを終えてから立ち上がる。
屋台を後にしてから、マーシャの待つホテルへと戻るのだった。
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