シルバーブラスト

水月さなぎ
水月さなぎ

トリストレヴィ 3

公開日時: 2021年6月22日(火) 08:44
文字数:3,196

「………………」


 せめて声だけでも聞かせてやろうという配慮に、トリスはまた泣きそうになる。


「レヴィ? なかなか戻ってこないけど、何してるんだ?」


「おう、マーシャ。ちょっとな。せっかくだからクレイドルをうろうろしているんだ。美味しいブレヒト蟹を出す屋台を見つけたぞ」


「ブレヒト蟹を屋台で? なんだそれは。正気じゃないな」


「だよな~。でもまあ美味いぜ。臓物の煮込みとか最強だな」


「それは私も食べてみたいな。今から合流してもいいか?」


「俺の方はもう満腹だからなぁ。折角だから明日にしないか?」


「それもそうだな。じゃあ明日で」


「おう。もう少ししたらホテルに戻るから、その後たっぷりもふもふさせてくれよな♪」


「そればっかりだな。まあいいけど。じゃあ待ってるから」


「おう。じゃあな」


 そして通話は切れた。


「………………」


 トリスは久しぶりに聴いたマーシャの声に表情を緩めていた。


 昔と較べて随分と大人っぽい声になっている。


 それでいて、幸せそうな声だった。


 それだけで十分だと思えるほどに。


「俺は明日もマーシャとここに来るけど、トリスはどうする?」


「……俺は、いい。まだ会えないから」


「そうか」


 会いたい。


 ずっとずっと、会いたかった。


 それでも、まだ会えない。


 今の自分は、七年前から一歩も進んでいない。


 目的を果たすまで、戻ることは許されない。


 それが自身に課した誓いだから。


 トリスは無意識に胸の辺りを握りしめていた。


 服の下にあるのは、マーシャの尻尾の毛で作られた御守りだった。


 トリスがリーゼロックから飛び出す前に、マーシャが託してくれた想い。


 それを握りしめて、自分の気持ちを押しとどめる。


 立ち止まりそうになる度に、諦めそうになる度に、この御守りを握りしめていた。


 そうすることで、あの時の気持ちを思い出せるように。


 戻りたい。


 だけど戻れない。


 あんな想いを抱えて生きていくぐらいなら、壊れるまで、燃え尽きるまで進み続けることを選ぶと決めたあの日。


 それを思い出す度に、トリスは折れそうになる意志を奮い立たせてきた。


「トリス?」


 苦しそうにしているとリスを心配そうに見つめるレヴィ。


「何でも……ない……」


「………………」


 何でもないという表情ではないのだが、そういう青年の強がりをレヴィは理解していた。


 自分にも覚えがあることだからだ。


 辛い時にこそ、折れる訳にはいかない。


 だからこそ、他人の前では強がる。


 そしてもう一度立ち上がる。


 そういう経験を、レヴィもしてきているのだ。


 何を言っても無駄だろう。


 止めたところで、止まらない。


 放っておくことも出来ないが、だからといって止める権利も無い。


 だからこそ、言えるのはたった一つの気持ちだけだった。


「トリス」


 辛そうに俯くトリスの頭を、少しだけ強く撫でる。


「レヴィ……さん……?」


 昔と同じように、くしゃくしゃと撫でる。


 今はカツラで隠している獣耳がぴくんと動くのを確かに感じた。


 本当はありのままのトリスを撫でてやりたかったが、それでも気持ちは伝わるだろう。


「何をするつもりなのかは知らない。止めるつもりは無いし、俺には止める権利も無い」


「………………」


「だけど、これだけは覚えておいて欲しい」


 澄んだ金色の瞳が、荒んだアメジストの瞳をじっと見据える。


 変わらないものと、変わり果てたもの。


 それでも、変わらない関係だけは確かに存在した。


「俺も、マーシャも、クラウスさんも、トリスが戻ってきてくれるのを待っている」


「………………」


「今すぐじゃなくてもいい。トリスにも譲れない目的があるんだろう?」


「………………」


 くしゃくしゃに顔を歪めたトリスが俯きながら頷く。


 そんなトリスの頭を、更に優しく撫でるレヴィ。


「ただ、待っていることを頭の片隅にでもいいから、覚えておいて欲しいんだ」


「……分かってる」


「だよな。トリスはそういう奴だ」


「………………」


 誰よりも優しかった少年。


 成長して、闇に堕ちて、荒んでしまっても、奥底にある心だけは変わらない。


 自分を心配してくれている人、慈しんでくれている人の想いを忘れたりはしないし、出来ない。


「待っている。俺たちはずっと、トリスを待っている。待っていても、いいよな?」


「うん……」


 それは、トリスを縛り付ける言葉でもあった。


 想いという鎖。


 愛情という名の束縛。


 それは時に人を縛り付け、そして踏みとどまらせてくれる。


 燃え尽きようとしているトリスを、ギリギリのところで踏みとどまらせてくれる想いだった。


「いつか……帰りたい……」


 二度と帰れないと覚悟していた。


 それでも、帰りたいと願っていた。


 クラウスが望んでくれたように。


 マーシャが託してくれたように。


 そして、レヴィが届けてくれたように。


「待ってるからな」


 レヴィはトリスの身体を自分の方に引き寄せてから、そっと抱きしめる。


 自分と同じぐらい大きくなったのに、まるで小さな子供のように弱々しい。


 きっと根本の部分では何一つ変わっていないのだろう。


 あやすように背中をぽんぽんと叩く。


 しばらくはレヴィに身を預けていたトリスだが、すぐにその身体を離した。


「ありがとう。レヴィさん。でも、今はこれ以上、貴方に寄りかかれない」


「そうか。まあ、疲れたらいつでも言えよ」


「うん……」


 安心出来る場所。


 マーシャと同じように、トリスにとっても、レヴィの傍は心安らぐ場所なのだろう。


 自分を心から心配して、労り、受け入れてくれる場所。


 だからこそ、今はそこに身を委ねられない。


「そろそろ、行く」


「そうか。ここは奢っておいてやるから、元気でな」


「うん。ありがとう」


 トリスはゆっくりと立ち上がって、レヴィに頭を下げてから立ち去っていった。


 その後ろ姿は今にも壊れそうなぐらいに脆いものだったが、レヴィは何も言わなかった。


 言葉で止まるぐらいならば、七年前に止まっている。


 だから、今は好きにさせるしかないのだろう。


 生きていてくれた。


 どれほど変わっていても、生きていてくれた。


 それだけで十分だった。


「やれやれ。マーシャになんて言えばいいんだ、これ」


 生きていてくれたことは嬉しいのだが、マーシャにあんな姿のトリスを見せるのは気が引ける。


 マーシャを傷つけたくはなかったし、何よりも、あんなトリスを見せたくはなかった。


 しかしこのまま放っておくことも出来なかった。


 何も言う権利はない。


 それでも、何か出来ることはある筈だ。


 きっと、マーシャも賛成してくれる。


 だからこそ、トリスが何をしているのか、何をしようとしているのか、その情報が欲しかった。


「なあ、あいつって、よくここに来ていたのか?」


 レヴィが立ち寄ると分かった以上、トリスはもうここには来ないだろう。


 あんなに弱々しい自分に立ち戻ってしまうのは、トリスとしても本意ではない筈だ。


「ああ。といっても、いつもはあんな弱々しい感じじゃないけどな。どちらかというととげとげしいっつーか。まあ若いのに悲惨なものを目にしてきたんだろうなって顔だ」


「………………」


「たまにまだ三回目ぐらいだが、臓物の煮込みとか、後は適当につまみを食っていったな。酒もそれなりに強い」


「だろうな……」


 マーシャの酒豪っぷりを見る限り、トリスも同類だろうとは思っていた。


 亜人が酒に強いのか。


 それとも二人が別格なのか。


 なんとなくだが、後者のような気がする。


「堅気じゃないことは分かっているが、支払いもしっかりしているし、悪い奴じゃないと思うんだがな」


「当たり前だ。トリスはすげーいい子だぞ」


「その様子だと知り合いか」


「昔会ったっきりで、すげー久しぶりだけどな」


「その割には随分と心を開いていたようだが」


「まあな。開いてくれたのは俺も嬉しいと思ってる。でも、だからこそ心配なんだよな」


「その辺りの事情はよく分からないが、また二人で来てくれたらサービスぐらいはしてやるよ」


「おう。期待してるぜ」


 レヴィは支払いを終えてから立ち上がる。


 屋台を後にしてから、マーシャの待つホテルへと戻るのだった。



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