ちびトリスは海を眺めていた。
ロッティの海はかなり整備されていて、白い砂浜と温かな陽射しが美しい景色を作り出している。
海が見たいと思ったので、無人タクシーに乗って遠くの海水浴場を目指したのだ。
なるべくリーゼロック邸から離れたかった。
正確には、トリスから離れたかった。
自分がいなくなればいいと考えて、咄嗟に家を出てしまったが、どこに行けばいいのか、どこに行くべきなのかも分からない。
ただ、トリスと同じ場所には居たくなかった。
こんなことをしても、すぐに発見されてしまうであろうことは分かっている。
家出をするにもクラウスから与えられたカードを使っているし、無人タクシーにもその記録が残っている。
ちびトリスの痕跡を辿ろうと思えば、簡単に出来てしまうのだ。
「でも俺、何も持ってないしな……」
リーゼロックに保護されたからこそ生きていられるちびトリスは、自分の財産と言えるものは何も持っていない。
お金も、物も、何一つ持たない。
クラウスはちびトリスが望めば大抵の物は与えてくれるが、それを自分のものだとはどうしても思えない。
自分の力で手に入れたものでなければ、胸を張って自分のものだとは言えないと思っているのだ。
だからこそ、家出してきたといっても、どうせすぐに見つかると諦めてしまっている。
しかしお金が無ければ動くことも出来ないのがこの世界の仕組みだ。
移動するにもお金が必要。
この惑星から出ようとするなら、更なるお金が必要になる。
密出国するような知識は無いし、結局のところ、クラウスから与えられた財産に頼るしか方法が無い。
しかしクラウスから与えられた金でこの星から逃げ出すようなことは出来ない。
それではあまりにも不実過ぎる。
だったらどうして飛び出してしまったのかという話に戻るのだが、それこそ、そうせずにはいられなかったというだけだ。
あのままあそこにはいられなかった。
少なくとも、今だけは逃げ出したかった。
すぐに見つかるとしても、あの場所に居続けて、トリスと顔を合わせて、いつも通りに振る舞うのは致命的な敗北になってしまうような気がしたのだ。
明確な理由は無いけれど、本能がそう訴えている。
「はぁ……中途半端だな、俺は……」
本当に逃げ出したいのなら、他にも方法はある筈だった。
知識は無くても、暴力を使えば方法は増える。
しかしそんなことはしたくなかったし、無関係な人間を巻き込みたくもなかった。
かつてオリジナルのトリスもここにいられないという気持ちになって逃げ出したようだが、それでもクラウス達との繋がりは保っていた。
譲れない復讐と、仲間の遺体を取り戻す為の長い旅路。
その支援を受けながら、ようやく成し遂げてここに帰ってきた。
だからこそ、今のトリスはあんな風に穏やかに笑っていられるのだろう。
自身に課した誓いを果たすことが出来たと確信しているからこそ、残りの人生は自分を大切にしてくれる人たちの望みに添うようにしたいと考えているのだろう。
優しい人だと思う。
優しいからこそ、不器用で、見ていられない時もある。
自分に対する態度もどうしたらいいのか分からずに、戸惑い、歩み寄れずにいることも知っている。
でもちびトリスにだってどうしたらいいのか分からないのだ。
だから気遣う余裕は無かった。
ただ、あいつが嫌いだという気持ちがあるだけだ。
「畜生……俺が一番、どうしようもないな……」
感情を持て余して、何処にも行けずに、ただ中途半端に逃げ出している。
情けないにもほどがある。
「………………」
家出してきたのもただの勢いだ。
本気で出て行きたかったのに、いざ行動を起こせばこの程度。
本当に情けない。
涙が出てくるぐらいに情けないけれど、泣くともっと情けなくなるのでぐっと堪える。
今はただ海を眺めていたい。
海を見て、大きなものに包まれて、ただぼんやりとしていたい。
そうやって心の中を空っぽにしていけば、この情けない気持ちも、どうしようもない気持ちも、空っぽになってくれるかもしれないから。
ぼんやりと海と空を眺め続け、そして時間の経過を感じる。
そよ風が頬を撫で、少しずつ穏やかな気持ちになっていく。
ぐちゃぐちゃだった気持ちも、少しずつだが本来の穏やかさを取り戻しつつある。
自然の力というのは侮れない。
何もしていないのに、こうやって気持ちを落ち着けてくれるのだから。
「ちびトリス」
「………………」
振り返ると、そこにはトリスが立っていた。
ちびトリスのオリジナル。
ちびトリスが出て行った原因。
いつか迎えが来ることは分かっていたが、よりにもよってこの相手はない。
どうせならマーシャかレヴィが良かった。
他の相手でもいい。
どうして、よりにもよってトリスなのか。
ちびトリスは盛大に文句を言いたい気分だった。
「随分と遠くまで来たんだな」
「悪いかよ」
「クラウスさんやマーシャ達が心配している。出て行くのは構わないが、行き先ぐらいはちゃんと伝えて行った方がいい」
「……本気の家出とか思わないんだ」
「本気で家出したいのなら、何もかもを捨てないとな。それは簡単に出来る事じゃない」
「……お前も、そうだったのか?」
「まあな。記憶があるのか?」
「少しだけ」
「そうか」
やはり、思った通りだった。
ちびトリスにはトリスの記憶がある。
「ちびトリス。俺と一緒にいるのがそんなに嫌なら、俺が消えるから、戻って来い」
「消えるって、どうやって」
「簡単だ。あの家から、そしてお前の前に二度と姿を現さなければいい。マーシャ達が望むならロッティから出て行くつもりはないが、それでもこの星は広い。ちびトリスと顔を合わせないように気をつけるぐらいのことは出来るさ」
「何でだよっ!?」
「ちびトリス?」
ちびトリスはトリスへと掴みかかる。
自分はこんなにも嫌っているのに、トリスはちびトリスを慈しんでくれる。
ちびトリスが安らかに生きていけるように、自分を犠牲にしようとしている。
心配している相手と二度と会わないようにするということは、その心配を一生抱え込むということだ。
それがどれほど辛いことなのか、分からないちびトリスではない。
「悪いのは拘っている俺だろっ!? なんでお前が俺にそこまでするんだよっ!?」
「……違う。お前は何も悪くない。自分のものではない記憶に振り回されたり、存在意義に迷ったりするのは、お前を造ったセッテの所為だ。そしてその原因は俺にある。だから俺は、お前が幸せになる為なら、どんなことでもしてやりたい。そう願っている。これは義務だけじゃない。俺自身がそうしたいと願っているんだ」
「どうして……俺は、お前が嫌いなのに……大嫌いなのに……」
自分の服を掴みながら俯いて震えるちびトリス。
「知ってる。俺がお前の立場なら、やっぱりオリジナルを嫌っていたと思う。だから、その感情は間違っていない」
「………………」
「自分が本物だと確信出来ないのは、辛いよな。思い込もうとしていても、自分のものではない記憶が邪魔をするのなら尚更だ」
「………………」
「俺の記憶は、かなりあるのか?」
「……それほど多くはないよ。ただ、断片的に思い出したり、後は夢の中で記憶が再生されたりするだけで」
「そうか。じゃあ、その記憶は消して貰おう」
「え?」
ちびトリスは弾かれたように顔を上げる。
自分を苛む記憶をあっさりと消してやると言われて、かなり戸惑っている。
「消すって……出来るのか? そんなこと」
「多分」
「多分って……」
ジト目でトリスを睨むちびトリス。
アメジストの瞳が絡み合う。
「いや、俺はその技術について多くを知っている訳じゃないから、はっきりとした事は言えないんだ。ただ、ちびトリスに俺の記憶が残っている可能性を考慮した時、マーシャが言っていたんだ。きちんと処置をすれば、選択して記憶を消すことが出来るって。専門家の協力が必要だが、俺の記憶をきちんと消せる可能性は高いと思っていいだろう」
「………………」
この記憶が消えるのならば、確かに自分自身として生きていけるかもしれない。
それは望ましいことだ。
その筈なのに、どうして今の自分は悩んでいるのだろう。
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