「え?」
その質問に、トリスはすぐに答えることが出来なかった。
「私も、他の奴も、自分のことだけで精一杯だ。今日一日、明日一日、生き延びられるかどうかさえ分からない。それなのに、どうして他人のことまで気に掛けられる?」
「それが疑問?」
「ああ。答えたくないのなら、答えなくてもいいけど」
「………………」
マティルダにはそれが分からなかったのだ。
自分のことだけで精一杯なのに、他人を助けようとする。
それは強者の余裕だろうか。
それとも別の理由だろうか。
それが気になった。
そこにある種の強さが、マティルダの知らない強さがあるのなら、この行き詰まった状況の突破口になるかもしれないと思った。
その部分に関しては大して期待していなかったが、それでも疑問に思っていたことは確かなのだ。
「やっぱり、おかしいと思う?」
それを問いかけられたトリスは苦笑していた。
自分でもおかしなことをしているという自覚はあるらしい。
そしてマティルダのような考え方が、この状況では正しいのだということも理解している。
「おかしいと思うし、不思議だ。だから理由が知りたかった」
「そっか。まあ、大した理由じゃないんだけどね」
「そうなのか?」
ここでようやくマティルダが振り返った。
きょとんとした、不思議そうな表情だった。
トリスを嫌っている筈なのに、そこにあったのはあどけない表情だ。
トリスはマティルダのそんな表情を初めて見た。
少しだけ胸が高鳴る。
「うん。本当に、大した理由じゃないんだ。僕自身の為でしかないから」
「………………」
マティルダは視線だけで先を促す。
トリスもここまで話した以上、隠すつもりもなかった。
「僕はマティルダがここに来る前から捕まっていたからね。その時からずっと闘っていた」
「知ってる」
「だから、君が知らない僕もいる訳だ」
「当然だろう」
「うん。そうだね」
そこは少しぐらい興味を持って欲しいと思ったのだが、実にどうでもよさそうだった。
興味があるのは肝心の理由なのだから。
「僕も最初はマティルダと変わらなかったよ。自分が生き延びるので精一杯で、他人のことなんて気に掛ける余裕がなかった。それに最初の頃は僕も弱い方だったからね」
「トリスが?」
信じられない、という表情でトリスを見るマティルダ。
今のトリスからは信じがたいのだろう。
「努力の結果だよ」
「なるほど」
それなら納得だ。
努力は成果に繋がる。
報われるかどうかは別として。
しかしその努力も余裕があるからこそ出来るのではないかと思う。
生き延びるのに精一杯で、怪我をしたら回復するので手一杯なのだ。
時間がある時は休息を摂るのがここにいる子供達の通常スタイルだ。
余計な体力を消耗すれば、それだけで命取りになるのだから。
「僕はね、何度目かの戦いの時に、女の子を一人殺しているんだ」
「え……」
それは信じられないような言葉だった。
誰のことも傷つけたくない、誰も殺したくない。
それがトリスの考えだった筈だ。
それなのに、同じ亜人を、しかも女の子を殺したことがある。
それはマティルダにとって衝撃的な事実でもあった。
トリスは辛そうに目を伏せる。
その時のことを思い出しているのだろう。
「その子は、僕の幼なじみだった。同じ村で育って、兄妹みたいに過ごしてきたんだ。僕は彼女が大好きだった。彼女も、きっと僕を家族みたいに考えてくれていたと思う」
「初恋だったのか?」
「初恋とは、少し違うかな。傍に居るのが当たり前で、自然なことに思えたっていう関係。多分、家族みたいなものだったんだ」
「そうか」
初恋というには近すぎる関係だったのだろう。
マティルダにはそういう存在はいなかった。
いや、居たのかもしれないが、もう思い出せない。
ここに来る前の記憶は、既に霧の彼方へと消えている。
過去がほとんど思い出せない。
毎日電気ショックを身体に浴びせている悪影響もあるのかもしれないが、単純に思い出したくないからなのかもしれない。
両親のことも、そこで過ごしていた記憶も、思い出せない。
そしてそれを辛いと思えない。
そんなことを考える暇があるのならば、今を、そして明日を生き延びることに使いたいと思っている。
それは刹那的な生き方でもあった。
しかしそうしなければ生き延びられなかったのだ。
少なくともマティルダはそう信じている。
しかしトリスは違う。
過去を捨てていないし、捨てようともしない。
忘れることに逃げたりはしない。
いや、その子が傍に居たからこそ、忘れられなかったのかもしれない。
支えてくれる存在だったのか。
それとも逃げられない足枷だったのか。
トリスにとってどちらだったのかは分からない。
いや、本当は分かっている。
大切な存在を足枷だと思えるような性格ではない。
それぐらいは察することが出来た。
「僕も、彼女も、生き延びるのに精一杯で、相手を気遣う余裕はなくなっていた。彼女と闘いたくないと思うような余裕すら無くなっていて、僕は必死で闘ったよ。そして。気付いたら彼女に致命傷を与えていた」
「………………」
「その時、久しぶりに正気に戻った気がするよ。久しぶりに彼女の顔をまともに認識出来た気がした」
「………………」
そこまで荒みきったトリスの姿というのが想像出来なかった。
しかしそれだけの地獄を経験したからこそ、今のトリスがあるのかもしれない。
なんとなくだが、マティルダはそう考えた。
「……泣いていたんだ」
「………………」
そう言ったトリスの方が泣きそうな声を出していた。
そして今すぐにでも泣き出してしまいそうな表情だった。
「死にたくないって、泣いてた……」
「………………」
「ずっと、死にたくない。このまま終わりたくないって、泣いてたんだ。そして、そのまま事切れてしまった」
「トリス……」
「僕は、その時の彼女の言葉と表情が忘れられない。どうしても、忘れられないんだ。それから、仲間を殺したり、壊したりするのが怖くなった。それが嫌だったから、強くなろうとした。必要以上に傷つけなくて済むように」
「つまり、その記憶から逃げたかった?」
「そうかもしれない。どうしても思い出してしまうから」
「忘れたい?」
「……分からない。忘れたら、きっと楽になれると思う。だけどそれは許されないような気がするんだ。僕が彼女を殺したから。死にたくないっていう、家族の願いを踏みにじったから。きっと彼女は僕を許してくれない。謝ることももう出来ないけど、ずっと許してくれないことだけは分かる。だからこそ、忘れたらいけないのかもしれない。忘れることすら、きっと許して貰えない」
「………………」
死者は何も思わない。
だから生きているトリスがそこまで自分を責める必要はないと、そう言ってあげられたら良かったのかもしれない。
しかし言えなかった。
楽になれないのではなく、楽になろうとしていない相手にそんなことを言っても、意味はないからだ。
忘れたいと口にしていても、きっと忘れたくないと思っている。
その記憶が今のトリスを支えているのなら、尚更だろう。
「僕は優しい訳じゃないよ。ただ、嫌な記憶と向き合いたくないだけなんだ。強くなんてないし、そう言われる資格もない」
「そうだな」
マティルダはトリスのことを強いと思っていたが、その考えは改めることにした。
彼は弱い。
優しく見えるのは、嫌な記憶から必死で逃げようとしている結果なのだろう。
それでも、逃げたらいけない部分では逃げていない。
ギリギリのところで踏みとどまっている。
それだけは認めてもいいと思った。
「私が仲間を壊すのを責めるのは、自分がその記憶を思い出したくないからってことか」
「……ごめん」
「いいさ。理由が分かったら、少しだけすっきりした」
「そう言って貰えると助かるけど」
「つまり、偽善でも何でもないんだな。トリスはトリスなりに、必死なだけなんだ」
「うん」
「それが分かっただけでもいい」
「マティルダ?」
「でも、一つだけ忠告する」
「?」
「どうせ嫌な記憶から逃げるなら、もっと前向きになった方がいい。現状が変わらないと分かっていてみんなを助けようとするよりも、自分が助かることを優先して、努力をした方が、明るい未来が待っているかもしれないだろう?」
「あるのかな、そんな未来」
「分からない。実際は、酷い未来かもしれない。でも、そう信じなければ、前になんて進めないだろう。生きている以上、希望は必要なんだ」
「確かにね」
マティルダの言うことは正しい。
生きている以上、希望は必要なのだ。
いや、生きようとする以上、というべきか。
生きていても希望が無いのなら、死んでしまえばいい。
自分で自分の命を絶てば、絶望はそこで止まるのだから。
ただ、最期まで救われないだけだ。
彼女のように、救われないまま終わるだけだ。
それは嫌だった。
終わりが見えない、何も変わらないと分かっていても、こうして足掻き続けているのは、やはりどこかに希望を探しているからなのだろう。
「言いたいことは分かるよ。でも、これまでのやり方は簡単には変えられない」
「だろうな」
絶望から逃げる為にみんなを助けようとしているトリスは、簡単には変われない。
今はトリスこそがみんなにとっての安心なのだ。
彼がその考えを突然変えてしまえば、みんなは一転してトリスを憎悪することになるだろう。
幼なじみの絶望を受け止めきれなかった彼に、他の仲間達の憎悪を受け止めろというのは酷な話だ。
きっと耐えられないだろう。
だからこそ、トリスは変われない。
変わりたいと願っていても、簡単には変われないのだ。
それはみんなの為ではなく、自分自身の為なのだ。
「すぐに変われなくてもいいさ。みんなを壊せとも言わない。ただ、現状維持をしながら自分が助かる道をもう少し前向きに考えてみてもいいんじゃないかって思っただけだ」
「ありがとう。努力してみる。じゃあ、一つだけお願いしてもいいかな」
「?」
「これ」
「………………」
トリスは自分の首輪を指さした。
電撃の首輪。
自分達を縛る鎖でもある。
「せっかくだから、ここから始めてみようと思う。少しだけ付き合ってくれないかな」
「死んでも知らないぞ」
「根性で頑張るよ」
「今日だけだからな」
「うん。ありがとう」
本当なら協力する義務など無い筈なのだが、トリスが自分自身の為に少しだけ歩き始めたことが嬉しくて、マティルダは手を貸すことにした。
本心を話してくれたことへの礼なのかもしれない。
マティルダはトリスの本心を知った後では、彼をそこまで嫌いとは思えなかったのだ。
自分と同じで、ただ足掻いているだけなのだと分かったからこそ、少しだけ好感が持てた。
「まずはその首輪をぐいっと引っ張る」
「うん。ぐいっとだね」
言われた通り、トリスはぐいっと首輪を引っ張った。
「ーーーっ!!」
そして凄まじい電撃が身体に流れる。
叫んでしまえば異常を知らせてしまうようなものなので、それだけは何とか耐えた。
しかし叫びそうになるぐらいに強烈な電撃だった。
「うっ!」
そのまま倒れるトリス。
身体が動かない。
指一本動かせない。
「あ……う……」
何かを言おうとするのだが、何も言えない。
口もしびれて動かせないのだ。
「最初は酷いものだろう?」
そんなトリスの様子を見てニヤニヤするマティルダ。
少しだけ意地悪な表情だ。
いつも強者の余裕があると思っていたトリスのそんな姿を見るのは、少しだけ気分がいいらしい。
あまり趣味がいいとは言えないが、協力する以上、これぐらいの報酬があってもいいだろうと思うことにしたらしい。
それからたっぷり十五分は動けなかったトリスだが、痺れた身体を何とか動かして立ち上がる。
「これは……思った以上に強烈だな……」
まだ身体を上手く動かせない。
喋ることすら億劫だった。
「無理はしない方がいいぞ。ダメージが翌日まで残ると、戦闘に支障が出るからな。最初は一回だけにしておいた方がいい。五分以内に動けるようになったら、徐々に回数を増やしていくのがいいかもな」
「う、動けるようになるのか?」
「私はなった」
「………………」
それはマティルダだからじゃないのかと言いたかった。
戦闘能力ではトリスの方が上だが、その他の面では圧倒的に劣っていると自覚せざるを得ない。
電撃の対策など、トリスには考えつかなかった。
どうすればいいのか分からなくて、ただ日々を過ごしていただけなのだ。
マティルダのように自分に出来ることを、前向きに行うということをしてこなかったのだ。
トリスは呆れると同時にマティルダのことをとても尊敬し始めていた。
「多分、亜人の身体はダメージに対する適応力が高いんだ。これは私自身の体感だけどな。徐々に身体を慣らしていくことが出来る。一度食らったダメージは、次はもっと軽くなるんだ。あくまでも、感覚的なものだけど。この適応力を突き詰めていったら、ダメージゼロも夢じゃないかもしれない」
「マジで?」
「ちょっと夢のある話だろう?」
「すごく、夢があるな」
見方を変えれば自分の身体をひたすらに虐め続ける自虐行為だが、目標がきちんと定まっている以上、これは別物だ。
「その気があるなら頑張ればいい。私は止めないし、応援もしない」
「応援ぐらいはして欲しいんだけど」
「却下。嫌いな奴の応援なんてしたくない」
「………………」
しょんぼりしてしまうトリス。
やはり嫌われているらしい。
尊敬し始めている少女から嫌われるのは、かなり凹んでしまう。
本当はマティルダもそこまでトリスを嫌いではなくなったのだが、素直に口に出すのも癪だったので、いつも通りの態度にしているのだった。
「なら、私はもう行く。起き上がれるようになったら部屋に戻ればいい」
「うん。マティルダ」
「?」
「ありがとう」
「別に、礼を言われるようなことはしていない」
「それでも、お礼を言いたかったんだ」
「………………」
マティルダはトリスをまじまじと見てから、そのままぷいっとそっぽ向いた。
どうやら照れているらしい。
尻尾が落ち着きなく揺れている。
この日、トリスとマティルダは少しだけ距離を縮めた。
お互いに、分からない部分を理解したので、相手のことを少しだけ受け入れる余裕が出来たのだ。
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