トリスに連れられて戻ったナギは、心配を掛けてごめんなさいと謝った。
クラウスからもマーシャからもこってりと叱られてしまったが、それは本当に心配していたからこその説教なので、ナギは逆に嬉しいと思ってしまった。
勝手に飛び出しただけなのに、こんなにも心配してくれる人たちがいる。
それはこんなにも幸せなことなのだと、改めて実感出来たのだ。
そしてトリスから新しい名前を貰ったことも教えた。
「そうか。ナギか。うん。いい名前だと思う」
「これからはナギじゃな。うむ。ちびトリスのままだと、身長が伸びた時に困るからのう」
「お爺さま。そういう問題でもないような気が……」
「いやいや。自分よりも背の高い相手にちびトリスなんて呼んだら、違和感ありまくりじゃろ?」
「確かにそうかも……」
成長したちびトリスを見上げながら『ちびトリス』と呼びかける自分に激しい違和感を憶えた。
「何はともあれ、これからはナギなんだから気にしなくていいか」
「そうだよ、マーシャ。これから俺はナギなんだからな。ちゃんとそう呼んでくれないと」
「もちろんだぞ。ナギ」
マーシャはナギを抱き上げてから笑いかける。
この少年がこんなにも明るく笑うようになったのは初めてだということに気付いた。
きっと憑きものが落ちたのだろう。
新しい名前を与えられて、オリジナルのトリスと多少なりともぶつかり合って、素直に気持ちを吐き出すことが出来た。
そのことで、ようやく自分自身が持て余していたもやもやした気持ちに決着を付けることが出来たのだと思う。
トリスとの向き合い方、そして自分自身との向き合い方。
それをはっきりさせたからこそ、今のナギはこうして笑っていられる。
きっとこれからは大丈夫だろう。
悩んだりすることも、迷ったりすることもあるだろうけれど、自分の中にある確かな拠り所を見つけたから、もう心配はいらない。
後は最後の仕上げをするだけだった。
★
リーゼロック総合病院の病室に横たわっているナギは、緊張の表情で目を閉じていた。
これから自分の記憶の一部が消されるかと思うと、かなり緊張してしまう。
それはナギが望んだことであり、それが必要なことだと分かっているからこそ、嫌だと思ったりはしないが、それでも緊張だけはしてしまう。
頭の中を覗き見されて、好き勝手に弄られるような不快感も存在しているが、記憶というデリケートなものを処理する以上、それは仕方の無いことだと割り切らなければならない。
「大丈夫か? ナギ」
病室には白衣を着たマーシャがいた。
そしてトリスもいた。
専門家の先生達も居るが、どの記憶を選んで消去するかはこの二人がサポートすることになっている。
「うん。大丈夫」
ナギは深呼吸をして落ちついてから答えた。
あまり心配させたくはないと思っているのだろう。
こういう健気な部分は本当にトリスそっくりだ。
そっくりだからこそ、トリスを嫌っているのかもしれないが。
「改めて確認するけど、本当にいいんだな? トリスの記憶を消しても」
消すことこそが望ましいと分かっている。
しかしいざその時になってみると、その記憶を惜しむかもしれない。
そういう心配をしていた。
自分のものではない記憶であっても、ナギにとっては心を形作る一部でもあると考えているから。
「大丈夫。遠慮無くやって欲しい」
惜しむ気持ちはもちろんある。
だけど自分の記憶をこれから増やしていく為にも、まっさらな状態で生きていきたいと願うから。
だから、借り物の荷物は置いていく。
それがナギの決意だった。
「分かった。じゃあ、始めるから眠っていていいぞ」
「うん。マーシャ」
「何だ?」
「記憶を無くす前に、一個だけ言っておきたいことがあるんだ」
「それは記憶があるからこそ言えることか?」
「多分ね。記憶を無くしたら、この気持ちも無くなっていると思うから、今の俺の『遺言』として聞いて欲しい」
「たとえが悪いなぁ。もっと別の言い方は無いのか?」
「これが一番しっくりくるし」
「まあいいけど。それで、何だ?」
「うん」
ナギはトリスの方を見た。
「?」
トリスの方は首を傾げる。
どうしてこのタイミングで自分を見るのか、理解出来なかったからだ。
しかも目が合うとニヤリと笑われる。
「ナギ?」
底意地の悪い笑みだ。
どうしてそんな笑みを向けるのか、全く理解出来ない。
しかし嫌な予感がした。
このまま何かを口にされてしまえば、トリスにとっての致命打になるという予感がひしひしと襲いかかってくる。
「俺はマーシャが好きだよ」
「それが言いたかったことか? いつも聞いているけど」
「そう。いつも言ってる。俺はマーシャが大好きだ。将来はレヴィから奪い取って俺のお嫁さんにしたいぐらいに大好きだ」
「……それは記憶が消えたら言えなくなることなのか?」
「うん。だってこれ、元々はあいつの感情だし」
「え……」
「っ!?」
マーシャがきょとんとした表情で首を傾げ、トリスがぎょっとした表情でナギを見る。
その顔には冷や汗がだらだらと流れている。
そしてナギはニヤニヤと笑っている。
この感情が自分のものではないのなら、これぐらいの意趣返しはしてもいいだろうと思ったのだ。
トリスの焦った表情も堪能出来たし、最後の楽しみ方としては悪くない。
というよりも、かなり気分がいい。
「そ、そうなのか?」
少し赤くなりながらトリスを振り返るマーシャ。
トリスの方は少しどころか完全に赤面してマーシャから視線を逸らした。
「む、昔のことだ。い、今はそんなこと思っていない」
嘘だ。
本当は今も想っている。
ただし、ナギの言うようにレヴィから奪い取ってまで手に入れようとは考えていない。
「そ、そうか……」
「そうだ。だ、だから問題無い。あいつの言うことは気にするな」
「う、うん」
お互いに赤くなりながらそんなことを言う。
かなり気まずい。
家族のように大切な存在であることは確かだが、トリスをそういう目で見たことはなかったので、マーシャにとっては青天の霹靂だったのだ。
しかしトリスがずっとマーシャに恋愛感情を抱いていたのだとすれば、レヴィのことはどう考えているのだろう。
そんなことが気になった。
「トリスはきっとまだマーシャが好きだと思うけどね」
「ナギ。それ以上は……勘弁してくれ……」
赤くなりながら頭を抱えるトリス。
これ以上自分の気持ちを暴露するのは勘弁して貰いたかった。
一生告げるつもりのなかった気持ちなのだ。
それをこんな形でぶちまけられるとは完全に予想外だった。
「今の俺の『最期』の言葉なんだから、それぐらいは大目に見て欲しいな~」
「うぐ……」
ニヤニヤしながら言われると悲壮感の欠片も無い。
しかしこれは確かに今のナギにとっては『最期』の言葉なのだ。
自分の気持ちではないものに振り回された最後の意趣返しなのかもしれないと考えると、何も言えなくなる。
トリスが言えなかった気持ちを、ナギはこんなにもあっさりとマーシャに伝えている。
そのことが少し羨ましく、そして少しだけ妬ましかった。
自分はあそこまで素直にはなれない。
きっと意地を張って、一生抱えたままでいただろう。
「なんというか、ごめん……」
マーシャの方は赤くなりながらもトリスに謝る。
トリスの気持ちがマーシャにあるのだとしたら、応える訳にはいかないから。
謝ることしか出来ない。
謝ることも残酷だが、それ以外にマーシャに出来ることがないのだ。
「べ、別に謝らなくていい。マーシャとレヴィさんの邪魔をするつもりもないし。俺は、大丈夫だから」
「ん。そうか。なら、そういうことにしておく」
「ああ」
「ちょっとちょっと。これは俺の告白なんだけど? 二人で世界を作らないで欲しいな~」
ナギが少しだけふて腐れたようにぼやく。
もちろんそうなることを分かっていて言ったのだが、トリス自身の気持ちにはある程度の決着がついたと考えていいだろう。
これはナギからトリスへの嫌がらせであると同時に、彼自身への借りを返す意趣返しでもあった。
この気持ちを伝えないまま生きていくのは、きっと良くないと思ったのだ。
実らない恋だとしても、想いを抱えるよりは、伝えた方が何らかの決着を付けることが出来る。
決着を付ければ、前に進むことが出来る。
自分と同じように、未来にまだ希望を見い出せないトリスの背中を、少しだけ押してやろうと思ったのだ。
自分に新しい名前をくれて、手を差し伸べてくれて、慈しんでくれた、誰よりも近い存在。
トリスがナギに幸せになって欲しいと願っているように、ナギもトリスの幸せを少しだけ願えるようになっていた。
「ご、ごめん。ナギ。その、ナギの気持ちにも応える訳にはいかないんだけど」
「分かってる。だから餞別が欲しいな。きっとこの気持ちは目が覚めたら消えるから。今の俺にだけある気持ちに対する餞別」
「餞別って、何を?」
「キスして欲しい」
「えっ!?」
「っ!?」
いきなりの爆弾発言にマーシャが驚き、トリスは何かを噴き出す。
そんな二人の反応を見てクスクスと笑うナギ。
「そんなに焦らなくてもいいのに。キスといってもここにだよ」
ナギは意地の悪い笑みを浮かべてから自分の額を指さした。
「お、おでこか……」
ぎょっとした後に拍子抜けするマーシャ。
そこにするのなら抵抗はない。
むしろしてあげたいぐらいだった。
「………………」
そしてからかわれたと気付いたトリスは恨みがましそうにナギを見る。
その恨みがましい視線すらも、僅かな嫉妬が混じっている。
おでこにキスされるナギが少しだけ羨ましいのかもしれない。
「分かった。じゃあこれが餞別だな」
マーシャは優しげな笑みを向けてからナギの額にキスをした。
「うん。あったかい」
ナギは目を閉じてからその温かさと感触を堪能していた。
今の記憶はきっと残るだろう。
そしてもしも記憶が消えてもマーシャへの気持ちが消えなかったら、今度こそ本当にレヴィから奪うつもりで頑張ってみよう。
そんな物騒なことを考えているとは気付かないマーシャはナギの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「じゃあ、そろそろ本当に始めてもいいかな。先生達がちょっと困ってるし」
「いやあ……」
「お構いなく。見ている分には面白いので」
「そうそう。もう少し眺めていたいぐらいですね」
「………………」
「………………」
記憶消去の専門家医師の二人はニヤニヤしながら三人のやりとりを見ていた。
困っているというよりは楽しんでいる。
彼らももふもふマーシャのことは慈しんでいるし、トリスのことも気に入っている。
そしてちびもふナギのことも可愛らしいと思っているのだ。
だからこそそのやりとりが微笑ましく映ってしまう。
もう少し見ていたいと思えるほどに、気分が和むのだ。
「い、いや、もう終わったから」
「そうだな。も、もう終わった」
「俺はもう少し続けてもいいけど?」
勘弁して欲しいと願う二人とは対照的に、ナギの方は面白がってそんなことを言う。
もちろんそんなナギの意見は却下された。
玩具にされる趣味は無いのだ。
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