それから一週間ほどかけて、マーシャはユイとの交渉を終わらせた。
マーシャがいくつかの条件を提示して、それをユイに飲ませることにも成功したので、後は資金援助をするだけだ。
一つ目の条件は研究の全てはロッティで行うこと。
これは機密漏洩防止の意味合いもあるし、いざという時にリーゼロックのお膝元に居た方がいろいろと対応しやすいからだ。
二つ目はその研究内容は全てマーシャ・インヴェルクと彼女が指定した相手に提示すること。
三つ目は研究開発の助言者としてヴィクターという男の通信を受け入れること。
四つ目はマーシャ・インヴェルクとリーゼロック・グループ以外の勢力にこの研究内容を知られないようにすること。
圧力がかかった場合は即座に連絡すること。
五つ目は研究成果の全てはマーシャ・インヴェルクの自由に出来ることを了承すること。
これらの条件を全て呑ませることにより、契約は成立した。
それらの内容が書かれた契約書をじっくりと読むユイ。
マーシャの契約書はシンプルな内容でまとめられて、後でトラブルになるような詐欺的要素は一つも含まれていない。
全ての内容をしっかりと頭に叩き込んでからサインを行う。
これで契約成立だ。
エミリオンの首都リオールにある高級ホテルの一室で行われている契約はこれで完了した。
「じゃあこれからよろしく頼む。ミスター・ハーヴェイ」
マーシャは笑顔で手を差し出した。
「はい。よろしくお願いします。ミス・インヴェルク」
ユイも差し出された手を握った。
「ロッティに研究施設を移すということは、本格的な移住になりそうですし、少し時間がかかりますけど、それでもいいですか?」
研究機材の移動だけではなく、新たな研究施設の確保、そして住居の確保も行わなければならない。
かなり大がかりな作業になるし、予算も必要だ。
すぐに出来ることではないだろう。
「そこまで急いではいないけど、でもそんなに時間はかからないと思うぞ」
「え?」
「既に移送用の宇宙船は手配した。ミスター・ハーヴェイが言っていた機材の量ぐらいなら十分に収容出来るし、その他にも引っ越し用の私物も持ち込める。新しい研究施設についても既に用意してあるし、そこは住居も兼ねている。宇宙船まで機材を運ぶトラックも手配しているし、その気になればすぐにでも作業出来るぞ」
「いつの間に……」
「もちろん費用は全部こっち持ちだ。安心していい」
「いいんですか? そこまでしてもらって」
「構わない。独占契約を結ぶんだから、待遇はきちんとしておかないとな」
「ありがとうございます」
今まで切り詰めた予算で研究を続けていたユイは大喜びだった。
他の研究で獲得した報酬を、趣味の研究であるフラクティールにつぎ込み続けてここま出来たのだ。
フラクティールの為だけに予算を貰えて、ここまでの好待遇をしてもらえるというのは、大変ありがたい話だった。
うきうきしてしまうのも無理はない。
「それからこれを渡しておく」
「?」
マーシャは携帯端末をユイに渡す。
「これは、携帯端末ですか? 一応、自分の分も持っているんですが」
「それはそれとして使い続けて構わない。だけどこの端末は私達に連絡を取る時に使って欲しいんだ」
「専用ということですか?」
「いや。もちろん私用に使ってくれても構わない。ちょっと特殊な技術が使われていて、勝手に暗号化して通信してくれるから、傍受の心配が無いんだ。セキュリティ面で安心出来るというだけだ。ちなみに恒星間通信機能も組み込んであるから、通信衛星のある惑星間ならどこに居ても通信出来る」
「っ!?」
同じ星の中ならばどこでも自由に通信出来るが、星を跨いだ通信の場合は専用の恒星間通信施設を利用しなければならない。個人で恒星間通信機を所有するにはとんでもない金額が必要になるので、大抵の場合は公共の恒星間通信施設を利用する。
恒星間通信機はかなり大がかりな機械でもあるので、個人所有は難しいという理由もある。
しかしこの小さな携帯端末に恒星間通信機能があるという。
驚きを通り越して震えてしまうユイ。
「あのぉ……」
「ん?」
「これ、一体どうなっているんですか? 一体何処の機種なんですか?」
「これは私達が使っている特殊な端末で、メーカーとして販売している訳じゃないぞ。ここまでコンパクトにまとめるのは苦労したけど、やってしまえばなんとかなるものだな」
「普通は何とかなりませんよっ!」
大型トラックほどの大きさになる恒星間通信機の機能を、手のひらサイズにまでまとめているのだ。
悪夢としか思えない。
「別に恒星間通信機能の全てをこの端末に収めている訳じゃないぞ」
「そうなんですか?」
その言葉にはほっとするユイ。
辛うじて常識が残っていることへの安堵なのかもしれない。
「単に、通常の恒星間通信機とは違う理論を採用しているだけだ。単独で恒星間通信を行うのではなく、通常の電波を利用して、それを恒星間通信として利用出来るように手を加えているだけだ。通信衛星を経由するのは同じだが」
「……それって、通常の電波を恒星間通信用の衛星に届かせているってことですか?」
「そうだ」
「………………」
惑星内通信の電波ではそんなことは出来ないんです……と訴えたかったが、目の前の美女にはその常識が通用しないらしい。
それはそういうものとして理解しておくしかないのだろう。
「私用として使うも良し。私達への連絡専用にするのも良し。好きにしてくれて構わない」
「……個人的にはこの構造が気になるんですけど」
「解析したいのか?」
「駄目ですよねぇ……」
「構わないぞ」
「え?」
「どんなきっかけがフラクティールの研究のヒントになるか分からないからな。興味があるということは、関係ないように見えても意外なところで繋がりがあるのかもしれない。或いは、生まれるのかもしれない。だからミスター・ハーヴェイがこの携帯端末の秘密に興味があるというのなら、開示するのは構わない。ただし、部外秘でお願いしたい」
「それはもちろんですっ!」
「ではそのデータも後日送ることにしよう」
「よろしくお願いしますっ!」
ユイは大喜びで頷いた。
これで二人の契約は完了だ。
ヴィクター・セレンティーノの干渉についても、通信のみでアドバイザーが付くから、適当に折り合いを付けるようにと伝えてくる。
元より全面的に資金援助をして貰う立場上、マーシャからの要求には逆らえない。
逆らうほどのことでもないので、ユイは快く了承した。
投資によっていくらでもお金を生み出すことの出来る天才もふもふちゃんを味方に付けた以上、ユイの研究は先が見えてきたも同然だった。
★
用事が済んだマーシャがホテルから出ると、そこにはレヴィが待っていた。
「どうしたんだ? 待っていてくれたのか?」
「まあな。午前中にちょっと買い物があったから、ついでにここで待っていたんだ」
「ふうん。じゃあこのまま食事でもして帰るか?」
「その前に少し歩かないか?」
「? いいけど」
レヴィが手を差し出してくるので、マーシャはそのまま繋いだ。
そして二人でリオールの街を歩く。
何をするでもない、のんびりとした散歩だ。
こういう時間も悪くないと思う。
歩いて行くと、すぐ近くには市民公園があった。
豊かな芝生に覆われた公園の遊歩道を、ただのんびりと歩く。
人通りはそれほど多くはない。
グラウンドでは子供達がサッカーの試合をしていて、その応援で盛り上がっているようだ。
そこから離れたベンチでは若いカップルがいちゃついていたり、犬を連れた老夫婦がのんびりと過ごしたりしている。
なるべく人が居ないエリアを選んで、レヴィはベンチに座った。
マーシャもその隣に座る。
「契約は上手くいったのか?」
レヴィは今日のことについて訊いてくる。
マーシャが契約や交渉で失敗するとは思っていないが、少しだけ気になったのだ。
「うん。上手くいったぞ。ロッティへの移住も快諾してくれたし、これで一段落ついた感じだな」
「面白そうなシステムだよな。フラクティール・ドライブだっけ?」
「うん。ミスター・ハーヴェイはそう命名していたな」
「スターウィンドにも積めたら面白そうだけど、流石に無理かな」
「無理だろ。そこまでの小型化はあの変態にも無理だ」
「せめて天才で変態って言ってやれよ」
「レヴィなら言えるのか?」
「………………無理かな」
「それを私に求めるのか?」
「すみません」
素直に謝るレヴィ。
ヴィクターの変態度はそれほどまでに強烈だったということだろう。
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