シルバーブラスト

水月さなぎ
水月さなぎ

ちびトリスの失踪 3

公開日時: 2021年8月2日(月) 10:09
文字数:5,869

「ちびトリス」


「……なんだよ」


「お前に、受け取って欲しいものがあるんだ」


「なに?」


 トリスを見上げると、やや緊張した表情があった。


 自分と同じ顔。


 きっと、大人になったらこんな顔になるのだろう。


 トリスは大きく深呼吸して、じっとちびトリスを見下ろした。


「ナギ・インヴェルク」


「は?」


「その……いつまでもちびトリスとか呼ばれていたら、余計に本物だと思えないだろう? だからその……名前を考えてみたんだ。お前だけの名前を。き、気に入らないなら別の名前にするが……ど、どうかな?」


 おろおろしながら言うトリス。


 気に入らないと言われたらどうしよう……と顔に書いてある。


「ナギって……俺の名前?」


「そ、そうだけど。気に入らないか?」


「それ、お前が昔読んでいた絵本のヒーローの名前じゃなかった?」


「……その記憶もあるのか」


「ちょっとだけ」


「そ、そうか。やっぱり気に入らないか?」


「というよりも、どうしてその名前にしたんだ?」


「俺がなりたかった姿だから、かな」


「………………」


「絵本を読むことが出来ていたのは、本当に幼い頃だけなんだが、だからこそ忘れられない印象として残っている。奴隷闘士として闘わされていた時も、ナギみたいにみんなを護ることが出来たらいいのにって、ずっと思っていたんだ」


「実際はへたれだったけどな」


「う……」


「俺の記憶の中だと、マーシャの方がよっぽどナギに近いぞ。もっとも、マーシャの場合はその意志を自分だけに向けていたみたいだけど」


 どんな状況でも諦めない。


 前を見て、未来を諦めず、ただ戦い続ける。


 その眩しい姿は、トリスよりもマーシャに近い。


「うぐ……」


 へたれだと言われたり、マーシャと較べられて落ち込んだりと、踏んだり蹴ったりのトリスだった。


 しかし僅かな記憶の中でも『ナギ』の存在の大きさはちびトリスの中にきちんと感じ取れている。


 その名前を託そうとしてくれた気持ちも、なんとなくだが分かってしまう。


「トリスは、俺にナギみたいになって欲しいのか? みんなを救えるヒーローに?」


「いや。そうじゃない。その、自力でいい名前を考えられなかったというのが一番大きな理由なんだが……」


「情けないな」


「う……すまん……。ええと、だから、その、みんなを護って欲しいんじゃなくて、自分の運命と向き合える強さを持って欲しいというか、その手助けになればいいと思ったんだ。ナギの強さが、お前の中で根付いてくれたら、きっと、自分自身を本物だと信じられるから」


「………………」


 誰かを護れる強さじゃなくてもいい。


 ただ、自分と向き合う強さを持って欲しかった。


 普通の生まれ方をしていないからこそ、他の人よりもそれがずっと難しい。


 そして向き合うことこそが残酷だと分かっている。


 しかしそれでも、この少年にはそれが必要なのだ。


「ナギ。この名前を、受け取ってくれないか? そして帰ってきて欲しい。俺はお前の前に姿を現さないようにするから、これからを、ちゃんと自分自身として、幸せに生きて欲しいんだ」


「……一つ、訊いていいか?」


「俺に答えられることなら」


「シエルのこと」


「………………」


「死にたくないと言っていた彼女のこと、まだ忘れていないんだよな?」


「ああ」


「忘れたいとは思わなかったのか? 正直、あれは二度と見たくない記憶なんだけど」


「それも見たのか。俺がシエルを殺してしまったところを……」


「うん。仕方ないって分かってる。生き残るにはああするしかなかったんだろう?」


「そうだな。シエルは強かったし、手加減なんて出来なかった。あの頃は俺も弱かったから、死にたくなくて必死だった。だけどシエルのことも殺したくなかったんだ。それなのに、自分を生き残らせる為に殺してしまった。あの時間、あの瞬間に戻ったとしても、俺は同じ事をしていたと思う。あの時は、死にたくないだけの子供だったから。だから強くなりたかった。手加減して、自分が生き残って、相手も生き残らせる。それぐらいの力が欲しかった。だから必死で強くなろうとして、努力してきたつもりだけど、それは破滅を引き延ばしにしているだけに過ぎなかった。自分には何も出来ない、何も変えられないと思い知った時、俺は初めて死にたいと思ったよ」


「……うん。それが不愉快だ」


「え?」


「その記憶もある。俺は死にたくないのに、俺が死にたいと思っているような錯覚に陥って、それが不愉快なんだ」


「……すまん」


「別に、お前が謝ることじゃない。セッテの奴が生きていたら拷問でもしてやりたいけどな」


「……拷問か」


「悪いか?」


「いや。俺が殺したからな。それも含めてすまん。お前の獲物でもあったのにな」


「まあいいけど。とにかく、自分の記憶や感情以外のものに振り回されるのはご免だよ」


「だろうな。記憶を消して貰えば、ある程度は緩和されると思う」


「うん。俺はそうしようと思う。だけどトリスは?」


「え?」


「辛い記憶なら、同じように消して貰えば、幸せになろうと思えるんじゃないか?」


「……俺はいいんだ。これは自分の記憶だから。ちゃんと、向き合って、抱えていくよ」


「……辛いことなのに?」


「辛いことだけど、シエルのことも忘れたくないんだ。シエルを殺したことを忘れたら、シエル自身のことも忘れてしまうかもしれない。今の俺を形作っている最初のきっかけでもあるから、忘れたくないんだ。忘れたらいけないとも思う」


「………………」


 痛みを抱えて生きていく。


 辛いことでも、向き合って生きていく。


 それはかなりの覚悟が必要だろう。


 それでも、トリスは忘れることを望まない。


 大切な人の記憶だからこそ、忘れたくないと願うのだろう。


「俺が忘れるのはいいのか?」


「当然だ。それは俺の記憶であって、お前の記憶ではないのだから」


「………………」


 自分の記憶ではない。


 だけどシエルのことを覚えているのは、きっとこの世界ではトリスと自分だけなのだ。


 それなのに、忘れて構わないという。


 大切な人の記憶を、忘れてもいいと言ってくれる。


 シエルに関する記憶は、嫌なものがほとんどだ。


 殺した瞬間の記憶、殺し合いの記憶。


 そして、殺した後の苛まれる記憶。


 こんなものを背負って生きていたくない。


 だから、忘れるのが正しい。


「分かった。忘れる」


「……ああ。それがいい」


 それが正しいと分かっていても、僅かな寂しさがあった。


 そしてだからこそ、自分だけでも憶えていようと思った。


 辛い記憶であっても、大切な記憶も共に存在しているからこそ、捨てきれない。


 手放さずに、辛さも痛みも、そして微かな安らぎも抱えて生きていく。


「なら、帰ろうか。ナギ」


 当たり前のように手を差し出してくるトリス。


 ちびトリス、いや、ナギはその手を睨み付ける。


 名前を受け取る。


 そして忘れる。


 だけどトリスと打ち解けるとは言っていない。


「ああ、すまん。嫌だったか」


 そんな気持ちが伝わったようで、トリスは申し訳なさそうに手を引っ込めた。


 しかしナギは乱暴にその手を取った。


「ナギ?」


「お前が歩み寄ったんだ。俺だってちょっとは譲ってやらないとバランスが悪い」


 ぷいっとそっぽ向きながらそんなことを言うナギ。


 こういう律儀なところもトリスに似ている。


 きっと魂の芯の部分は同じなのだろう。


 それでも、違う人生を生きていくからこそ、違う存在として育っていく。


「ありがとう」


 僅かな歩み寄りを見せてくれたナギに対して、トリスは柔らかく笑いかけた。


 マーシャにすら滅多に見せない、本当に嬉しそうな笑顔だった。


「……なんだ。そんな風にも笑えるんじゃないか」


「え?」


「何でもない」


 きっとトリスは自分がそんな風に笑っていることなど自覚していない。


 この笑顔を知る人はほんの一握りだろう。


 クラウスですら知らないのかもしれない。


 そう考えると、見られて良かったという気にもなってくる。


「……なあ」


「何だ?」


 手を繋いで歩きながら、ナギは気になったことを問いかける。


「ナギって名前のことなんだけど」


「ああ」


「俺の為の名前を考えるっていうのは、トリスが自力で思い付いたのか?」


「………………」


 気まずそうに視線を逸らすトリス。


 どうやら違うらしい。


「違うんだな?」


「う……その、シデンにアドバイスされたんだ」


「やっぱり」


 ジト目でトリスを見上げるナギ。


 トリスは更に気まずくなってしまう。


「すまん……」


「別に謝らなくてもいいけどさ。きっかけはシデンでも、一生懸命考えたのはトリスなんだろう?」


「それは、まあ、そうだが。結局、オリジナルの名前には出来なかったしな」


「まあいいさ。結構悪くない名前だと思っているし」


「そ、そうか?」


 照れたように笑うトリスを見て、ちょっとだけムッとなるナギ。


 喜ばせるつもりはなかったのに、ちょろすぎる。


 海賊団の頭目としてやっていくほどに擦れた世の中を知っている癖に、まだこんな純真さを残しているのがずるいと思っているのかもしれない。


「俺はさ、やっぱりトリスが嫌いだよ」


「そ、そうか……」


 ずしーんと落ち込んでしまうトリス。


 嫌われる覚悟はしていても、口に出されると凹むらしい。


 そういう素直さも気に入らない。


 嫌われている相手なんだから、自分も嫌えばいいのにと思う。


 それが出来ないのがトリスの性格なのだろう。


 そういう優しさが腹立たしいけれど、それを責めるのも酷だ。


 それがトリスらしさでもあるのだろうから。


「でも、前みたいな拒絶はもうやめる」


「え?」


「本物だからとか、俺が偽物だと思い知らされるからとか、そういう理由で嫌うのはもうやめにする」


「そ、そうか……」


「その上で、トリス個人のことが大嫌いだ」


「う……ど、どうしてだ?」


 おろおろしながら問いかけてくるトリス。


 嫌う理由を取り払った上で、更に嫌われているのが傷ついているらしい。


「どうしても。そうやっておろおろしているところとか、ムカつく」


「そ、そんなこと言われても……」


「堂々としていればいいのに。どうしてそんなにおどおどしているんだよ」


「それはその……まだナギに対してどう接していいか把握し切れていないというか……」


「堂々としていればいいじゃないか」


「い、いきなり言われても……」


「だから嫌いだ」


「う……」


 おろおろしているトリスが嫌いだとハッキリ言われて凹んでしまう。


 しかしすぐには改善出来そうにない。


 海賊団の頭目としては堂々と命令してきたのだが、これがナギ相手だとかなり戸惑う。


 しかし戸惑っている方が本来の自分なのだと分かっているからこそ、今更仮面を被ることも出来ない。


 過去に被っていた冷徹の仮面は、もう必要の無いものだから。


「努力するよ。もっと自然に、ナギに接せられるように」


 不器用に笑いながら、それでも前向きな努力をすることを示すトリス。


 不器用ながらも前に進んでいるトリスを見て、ナギもいつまでも停滞してはいられないと思った。


 自分は偽物として生まれた。


 だけど、本物として生きることは出来る。


 そのきっかけを、本物が与えてくれたから。


 だから、頑張ってみようと思うのだ。


「じゃあ俺ももっと嫌う努力をする」


「っ!?」


 せめて少しは好かれたいと思って努力宣言をしたのに、更に嫌うように努力すると言われてがびーんという表情になるトリス。


 ナギはその表情を見てしてやったりという風に口元を吊り上げた。


 ドSの気持ちが少しだけ分かったような気分だった。


「な、なんで……?」


 おろおろした表情も面白い。


 もっと虐めたくなる。


 優しいトリスと違って、ナギにはほんのりドSの性癖があるようだ。


 オリジナルとの違いを明確に自覚出来ることもあり、この性癖は磨いていった方がいいかもしれないと密かに考えていたりもする。


「いや、だってそこまで完璧超人だと、普通にムカつくだろ。同じ男として」


「か、完璧超人?」


「優しくて何でも出来て、努力も怠らない。ほら、完璧超人じゃないか」


「で、出来ないことも一杯あると思う。りょ、料理とか……」


 料理はやったことがないので、恐らくは出来ない。


 しかしきちんと学べば出来るかもしれない。


 致命的に向いていないと思うことは、今のところ存在しない。


 この辺りが完璧超人と言われる所以なのかもしれない。


「かもしれないな。まあしばらくは嫌いだし」


「う……」


「それに似たもの同士は反発するって言うだろう?」


「そ、そうかな」


「そうだよ。自分の嫌な部分が見えちゃうから、自分と似ている奴は嫌うことが多いんだ、その点で言えば俺とトリスは誰よりも似ている筈だから、誰よりも嫌っていいってことになる」


「ならないと思う……」


 なってもおかしくない、という理屈が存在するだけで、嫌ってもいいという理屈にはならない。


 しかしニヤニヤしているナギを見ていると反論も出来ない。


 ここで余計な口を挟んで更に嫌われたくないという臆病さがあるのだろう。


「そうやって凹んでいる姿を見ると気分がいい」


「……結構酷い性格になってないか?」


「自分との違いが明確でいいじゃないか」


「いいような……よくないような……」


 確かに違いが明確なのはいいことなのだろうが、そういう方面で違ってくるのは勘弁して貰いたいと思う。


「凹んでいる姿を見ると気分がいい」


「……酷い」


「だから、出て行かなくてもいいからな」


「え?」


「俺の前から姿を消したりしなくてもいいってことだよ」


「ナギ……」


 それはここに繋げる為の不器用な回り道だったのだろうか。


 そうだとしたら、その不器用さはトリスに通じるものがある。


「トリスはそうやってへたれたり凹んだりしている姿を俺に見せてくれたらそれでいい」


「……おい。あんまりな理由だぞ、それは」


「いいじゃないか。俺の前でへたれたり凹んだりしなければいいだけの話なんだから。出来るものならな」


「ど、努力する……」


「変な努力だなぁ」


「う……」


 ニヤニヤしながら虐められているトリス。


 これがナギなりの歩み寄りなのかもしれない。


 嫌うことで、距離を縮める。


 嫌うからこそ、遠慮が無い。


 だからこそ、避けるよりも嫌ってぶつかる。


 そうやってぶつかり合えば、心も開けるかもしれない。


「ナギ」


「何だよ」


「その、ありがとう」


「嫌いな相手に礼を言われてもなぁ……」


「それでも、ありがとう」


 そんなナギの気持ちが分かってしまったからこそ、礼を言うトリス。


 嫌われるのは悲しいが、それでも拒絶されるよりはずっといい。


 だから礼を言うことでその気持ちを表している。


「ふん」


 そっぽ向きつつも繋いだ手は離さない。


 自分を迎えに来てくれて、受け入れてくれて、新しい名前をくれた、もう一人の自分自身。


 もう拒絶するだけなんてことは出来なかった。


 ぎゅっとその手を握ってから、ナギは不敵に笑った。




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