「よせっ! トリス!!」
「っ!?」
外から聞こえた声にハロルドが反応する。
あれはイーグルの声だ。
トリスに向かって叫んでいる。
何事かと思って戻ってみると、トリスがイーグルを攻撃していた。
「なっ!?」
救出に来た筈の自分達をトリスが攻撃している。
つまり敵だと思われているということだろうか。
「トリス!?」
ハロルドもトリスに呼びかける。
しかしトリスは何の反応もしない。
「まさか。操られているのか?」
脳に何らかの操作をされているのだとしたら、自分達を味方だと認識出来なくてもおかしくはない。
救出に来た筈の自分達を攻撃する理由は、他に思い浮かばない。
しかしそうなると一度トリスを無力化しなくてはならない。
今のトリスを相手に無傷で済ませるのは無理だった。
ただでさえ、格闘訓練では自分達に迫る腕を持っているのだ。
ナイフの扱いは得意ではなかったが、今は驚くべき鋭さを発揮している。
イーグルはよく避けているが、トリスが相手なだけに思い切った真似は出来ない。
このままではいずれ斬りつけられるだろう。
「くそっ! 何らかの操作を受けているのだとしたら、不味いぞ。解除させないと……」
ハロルドが忌々しげに呟く。
周りの隊員達も麻痺レベルでエネルギー銃を撃ち込もうとしているが、二人の位置が密着しすぎて上手くいかない。
イーグルを巻き添えにする可能性があるのだ。
イーグルを撃ってしまえばトリスは間違いなく彼を殺すだろう。
今のトリスにイーグルは認識出来ない。
そして正気に戻った時、彼はそれを後悔する。
そんなことはさせられなかった。
「違う。トリスは何の操作も受けていない」
しかしマーシャがそれを否定した。
確信のある口調だった。
「どうして分かる? あれはどう考えても正気じゃないだろう。そうでなければ俺たちを攻撃する筈がない」
「そうじゃない。正気を失っているのは確かだが、操作されている訳じゃない。あれはトリスがずっと抑えつけていた感情なんだ」
「なんだと?」
「トリスはずっとああしたかったんだと思う」
「ちょっと待て。つまり、俺たちを殺したかったってことか?」
「違う。『人間』を殺したかったんだ」
「………………」
「トリスは『人間』を憎悪している。もちろん、私も同じだ。許せないと思っている」
「………………」
それは無理もないと思った。
人間が亜人にしてきたことを考えれば、当然の感情でもある。
それを理解していても、マーシャの口から聞かされると哀しかった。
自分達は間違いなく彼女たちに愛情を注いでいる。
その愛情が伝わっていないのかと思うと、哀しくなってくるのだ。
「そんな顔をしないで欲しい。少なくとも、全ての人間が憎い訳じゃないよ」
マーシャは苦笑してから弁解した。
このままでは誤解されかねないと判断したからだ。
「レヴィアースに助けられなかったらどうなっていたか分からないけどな。もう駄目だと思っていた時にレヴィアースに助けられて、お爺ちゃんに出会わせてくれて、そしてみんなに出会わせてくれた。人間にもいい人たちがいるって、思い出させてくれた。私はみんなが好きだよ。人間すべては好きになれないけど、でも、レヴィアースやお爺ちゃん、そしてみんなのことは好きだよ」
「マーシャちゃん」
「トリスだって同じ気持ちだと思う。だけど、トリスは私よりもずっと情が深い。仲間達に対して、自分達に対して、そして私に対してされたことを忘れていないし、忘れられない。だから、本当はいつああなってもおかしくなかったんだ。何かきっかけがあったのは確かだけど、あれは本来のトリスだ。操作されている訳じゃない。それは断言出来る」
「だとすれば、今後も俺たちは敵として扱われるということか?」
「いや。正気を失っているからこそ私達を認識出来ないんであって、ちょっと落ちつかせれば理性は取り戻すと思う」
「どうやって?」
「私が行く」
「マーシャちゃんっ!?」
「人間は認識出来なくても、私なら認識出来る。トリスは私を一番大事にしてくれているからな。私ならトリスを止められる。その自信がある」
それは確信だった。
自分が止めに入れば、トリスは正気を取り戻してくれる。
それだけトリスに想われている自信があった。
トリスの本質は『大切な仲間を護る』ことだから。
トリスにとってマーシャはたった一人残された『護るべき存在』だから。
「駄目だ。危険過ぎる。下手をするとマーシャちゃんまで殺されるぞ」
「大丈夫。多少の傷は負うかもしれないけど、トリスは絶対に私を殺さない。その確信がある」
「しかし……」
「行ってくる」
「マーシャちゃんっ!」
ハロルドが止める間もなく、マーシャは駆け出した。
トリスにイーグルを殺させる訳にはいかない。
そんなことをすれば、あの優しい少年は自分をもっと責めるだろう。
それを止められるのは世界でただ一人だけ。
彼にとって唯一護るべき存在として認識されているマーシャだけなのだ。
だから自分が行く。
自分にしか出来ないことだと分かっているからこそ、マーシャは躊躇わない。
止めようとするハロルドの手をすり抜けて、マーシャは正気を失ったトリスへと駆け寄る。
★
視界が真っ赤に染まっている。
憎悪という感情に支配されていることは分かっていた。
堰き止められていたものが溢れ出している。
ずっとこうしたかった。
ずっと人間を殺したかった。
そんなことをしては駄目だという理性とずっと戦っていたけれど、今はそれすらもどうでもよかった。
切り刻まれた仲間の遺体が目に焼き付いている。
死んでからも弄ばれ続けた仲間達。
首だけになってチューブに繋がれた少女。
内臓の一つ一つを標本にされた少年。
アリシャ、アレス、グレース、ケイン、ローラ、シャルロッテ、トリエラ、キリエ……
他にも沢山の仲間達がいた。
その一人一人が、まともな形をしていなかった。
まともな遺体として残されているものが一体もなかった。
脳だけ取り出されて、ホルマリンの中に浮かんでいるものすらあった。
あれが誰なのか、トリスにも認識出来ない。
そんな有様にされたのが許せない。
あれだけは許せない。
戻れなくてもいい。
取り返しがつかなくてもいい。
あんなものを許すぐらいなら、道を踏み外した方がマシだ。
心を壊した方がマシだ。
そしてトリスは自分を壊した。
自分の意志で、自分の心を繋ぎ止めていた最後の楔を壊した。
動くものは全て敵だった。
それが誰かなんて認識していない。
ただ、人間は殺す。
全て切り刻む。
そう決めていた。
武装した人間は適度に切り刻み、白衣の人間は念入りに切り刻んだ。
白衣の人間は仲間をあんな姿にした張本人達だ。
絶対に許すつもりはなかった。
死んだ仲間達は生きながら苦しめられることはなかったけれど、それでも生き地獄を味わって貰うつもりだった。
そして殺して、殺して、殺し尽くした。
最後に残っているのはセッテ・ラストリンド。
彼だけは見逃せない。
船の中をうろつきながら、彼の姿を探し続ける。
出会う人間は片っ端から殺し尽くした。
セッテを殺すまでは自分を取り戻すつもりもなかった。
今の状態は都合がいい。
心を壊しているお陰で、身体能力も上がっている。
トリス自身が無意識にかけているリミッターが外れているのだ。
亜人の身体能力は高いが、トリスの能力はその中でも群を抜いて高かった。
しかし高すぎる能力に対して、トリスは無意識で制限をかけていたのだ。
迂闊に力を発揮すれば、大切な仲間を壊してしまう。
幼なじみの少女を殺してしまったあの時から、トリスは自分の力をセーブすることを意識していた。
自身の中にあるスイッチを切り替えれば、その制限も取り払われる。
身体にかかる負荷も無視した全力を発揮出来る。
そうなったトリスは無敵に近い。
「………………」
しかし今は手こずっている。
本来ならば簡単に殺せるぐらいの相手なのに、身体が上手く動かない。
殺せるタイミングで、どうしても動きが鈍ってしまう。
何故だろうとぼんやり考える。
殺す相手の顔は見えている。
見覚えのあるものだった。
イーグル。
彼を護ってくれる筈の顔だった。
しかし彼は『人間』だ。
憎むべき人間なのだ。
殺せという意識と、駄目だという意識が鬩ぎ合う。
正気を失っているのに、正気を取り戻そうとしている。
まだ取り戻す訳にはいかない。
だから邪魔をしないで欲しい。
セッテを殺すまでは、このままの自分でいたいのだ。
殺したくないのに、殺したいという願いが邪魔をする。
人間は全部殺したい。
そんなこと、したくないのに。
そんなことを、したくてたまらない。
相反する気持ち。
壊れてしまった心が、再び形を取り戻そうとしている。
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