クラウスからの餞別を受け取ったトリスは、そのまま自分の部屋へと戻った。
「………………」
部屋の中にはまとめた荷物がある。
すぐにでも出て行ける。
マーシャには何も言わずに出て行くつもりだったが、クラウスと話したことで気が変わった。
黙って出て行くのは良くないと思ったのだ。
少なくとも、自分の意志は伝えておくべきだと思った。
「……やっぱり、手紙かな」
直接は会えない。
会えばきっと、マーシャに対する未練が残る。
自分はそれほどまでにマーシャに依存しているという自覚がある。
それに、マーシャはトリスを放っておいてくれないかもしれない。
自分も一緒に行くと言うかもしれない。
それは嫌だった。
これから自分が進むのは、血に塗れた修羅の路。
心を壊し尽くしてでも取り戻すと決めたものの為に、決して止まることは出来ない、奈落への道標。
そんな道行きにマーシャを巻き込むことだけは出来ない。
彼女にはここで幸せに暮らして欲しい。
そしていつかレヴィアースとも再会して欲しい。
それが彼女の目標だから。
「………………」
大人になったマーシャとレヴィアースが隣に並ぶ姿を想像して、少しだけ胸が痛んだ。
自分にはまだこんな感情が残されている。
それが少しだけ嬉しくもあり、疎ましくもある。
感情を殺して、心を壊して、全ての力を目的の為に向けなければ、きっと叶わない。
そう信じているから。
「駄目だな。僕は。お爺ちゃんとも約束したのに」
いつか、帰ってくる。
その約束を違えるつもりはない。
少なくとも今は。
だけどすり切れていく心と向き合いながら、その約束をいつまでも覚えていられる自信はなかった。
次に会う時は、自分は今とは全く違うのかもしれない。
取り返しの付かないほど、変わってしまっているだろう。
変わってしまっても構わないと思っているから。
その時、マーシャが傷ついてしまうかもしれないことが辛かった。
だから、今の気持ちを残しておこうと思った。
今の気持ちを、形にして残しておきたかった。
★
マーシャへ
ごめん、マーシャ。
僕はやっぱり出て行くことにするよ。
どうしても、みんなの遺体を取り戻したい。
そしてセッテ・ラストリンドとそれに関わった人間達を殺したいんだ。
どうしても許せない。
今も自分の気持ちが憎悪で染まっていくのが分かる。
僕はいつか取り返しのつかないほどに壊れてしまうだろう。
ここに居れば、マーシャが居てくれれば、踏みとどまっていられることも分かっている。
マーシャやお爺ちゃんがそれを望んでくれていることも、理解しているつもりだ。
それでも、僕はその状況が許せない。
あんな状態のみんなを目にして、今も弄ばれていることを知っていて、それでも日々を安穏に過ごす自分が許せないんだ。
誤解しないで欲しいのは、マーシャに同じ事を求める気持ちは無いということだ。
マーシャはそのままでいいと思っている。
むしろ、このまま過去を振り返らずに、未来のことだけを考えて欲しい。
幸せになってもらいたいんだ。
いつかレヴィアースさんとも再会出来るといいね。
次に会う時、僕は取り返しのつかないほどに変わっているだろう。
それでもマーシャだけは今の僕を見つけてくれるかもしれない。
この場に置き去りにした僕の心の欠片を、マーシャならもしかしたら、取り戻してしまうかもしれない。
その時のことを考えると少し怖いけれど、それでもマーシャがそう決めたのなら、僕は受け入れるよ。
全部終わったら、ここに帰ってくると約束したから。
お爺ちゃんと、マーシャが待ってくれているこの家に帰ってくると約束したから、いつか帰ってくるよ。
僕が目的を果たせずに、途中で力尽きて死んでしまったとしても、心だけはここに帰ってくると約束する。
マーシャ。
君は僕にとって、最後に残された家族だ。
お爺ちゃんも大切な家族だけど、君は僕にとって唯一護りたいと思った家族なんだ。
だから君は君らしく、真っ直ぐに幸せを掴んで欲しい。
どれだけ僕が壊れてしまっても、その心だけは変わらないと思うから。
どうか幸せに。
別れの言葉は言わない。
いつかもう一度会うから。
それまで、元気でいてくれると嬉しい。
トリス・インヴェルク
★
「これでいいかな」
トリスはマーシャへの手紙を封筒に入れて、自分の机の上に置いた。
これでマーシャに自分の意志は伝わるだろう。
何も言わずに出ていくことになるが、何も知らせずに出て行く訳ではない。
そう思い込むことで少しだけ楽になろうとしていた。
卑怯なことは分かっているけど、そうせずにはいられなかった。
そして自分の荷物の中身を改めて確認する。
これから必要になるものを忘れていないか、最終確認の為だ。
「っ!?」
しかしその中に見覚えのないものが入っていてぎょっとする。
「これは……」
中に入っていたのは小さな首飾りだった。
ただの首飾りではない。
亜人だけが知る習慣の一つとしているものだった。
自らの毛を用いてアクセサリーを作る。
そしてそれを大切な人に与える。
自分の一部が大切な人を護ってくれますようにという願いを込めているのだ。
つまり、御守りだった。
金具でまとめられた真っ黒な毛が小さな尻尾のように揺れている。
その尻尾は金具の輪に革紐が通されていて、首飾りとして使えるようにしてある。
「マーシャ……」
マーシャはとっくに気付いていた。
トリスが出て行こうとしていることを見抜いていた。
その上で、何も言わずに居てくれたのだ。
「ごめん……ごめん……マーシャ……」
トリスは首飾りを持ったまま嗚咽を漏らした。
自分には止められない。
だけど、ついて行くことも認めてくれない。
だからせめてこれを託したい。
そんな気持ちが痛いほどに伝わってきたのだ。
恐らくマーシャはこれをトリスが居ない間に荷物に紛れ込ませたのだろう。
トリスがクラウスに最後の挨拶に行っている間に、部屋の中に入り込んだのだろう。
トリスが今日行動に出ることも知っていた。
いや、気付いていたというべきか。
「………………」
トリスはマーシャが作ってくれた首飾りを身につける。
ふわっとした感触が心地よかった。
マーシャの尻尾から作られたものは、仄かな温もりが残っていた。
「ありがとう、マーシャ」
何よりもの餞別だった。
何も言わずに残してくれた御守りこそがありがたかった。
そしてトリスもお返しになるものを作った。
変わってしまう前の自分を残しておこうと思ったのだ。
金具と革紐を用意して、自分の尻尾の毛を一部切り取る。
マーシャと同じ黒い毛並みだけではなく、先端だけ白い部分も切り取った。
自分のものだと明確に分かるようにする為だ。
マーシャほど上手には出来なかったが、それでもトリスなりの御守りが出来上がった。
先端だけ白いミニチュア尻尾の御守り。
革紐に通されたそれを、置き手紙の横に並べておいた。
その二つを見て、そして壁に視線を移す。
マーシャは隣の部屋にいて、壁の向こうにいる。
もう眠っているだろうか。
それとも、トリスが出て行くまで起きているのだろうか。
「じゃあ、僕は行くよ」
誰に言うでもなく、トリスは一人呟いた。
そっと部屋の扉を開けてから、トリスはリーゼロック邸を出て行く。
「今までありがとう。ここは僕にとって、最もあったかくて、大切な場所だったよ」
門を振り返って、トリスはもう一度呟く。
そしてぺこりと一礼した。
この日、トリス・インヴェルクは旅立った。
自らを闇に堕とす旅の始まりでもあった。
しかし心の中に小さな光が宿っている。
その光だけは、どれだけ闇に染まっても消えないと信じていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!