そして翌日、マティルダとトリスの新しい名前が決まった。
トリス自身のファーストネームはそのままだが、新しくファミリーネームが付け加えられたことは大きな変化だと言えるだろう。
「マーシャ・インヴェルク?」
マティルダがきょとんとしながら新しい身分証明カードを眺める。
カードタイプのそれはとても小さく、手のひらサイズに収まる程度のものだった。
こんなもので自分の身分が保障されるというのが不思議な気分でもある。
トリスも同じ気持ちのようだ。
首を傾げながら手の中にあるカードを眺めている。
「トリス・インヴェルク……」
マティルダと同じファミリーネームだった。
二人とも兄妹という設定なのだろう。
「一応同じ名前にしてみたのじゃが、気に入らなかったかな?」
クラウスが少し心配そうにトリスを見る。
しかしトリスは笑いながら首を振った。
「ううん。少しびっくりしたけど、マティルダと同じ名前なら悪くないよ。ありがとう、お爺ちゃん」
「うむ。一応トリスの方が兄という設定にしておいたからな」
「うん」
「む……」
そしてトリスが兄と聞いてむっとなるマティルダ。
「どうしたんだ? マティルダ」
「どうしてトリスが兄なんだ……」
「え?」
「同い年だと思うんだけど」
「それはまあ、僕の方が背が高いし……」
「むー……」
「も、もしかして姉が良かったの?」
「そういう訳じゃないけど、トリスの妹っていうのが気に入らない」
ぷくっとふくれっ面になるマティルダ。
妹という立場が気に入らないのだろう。
「そんなこと言われても……」
「まあまあ、そんなにむくれなくてもよいではないか、マティルダ。いや、もうマーシャと呼んだ方がいいかのう?」
「ん。マーシャか。いい名前だと思う。私はこれからマーシャになる。ありがとう、お爺ちゃん」
「どういたしまして。気に入って貰えて嬉しいのう」
「うん。気に入った」
マティルダ改めマーシャの尻尾がぱたぱたと揺れる。
本当に嬉しそうだ。
感情表現が素直なので、クラウスとしても嬉しくなる。
「僕もマーシャって呼んだ方がいい?」
「もちろんだ。これから私はマーシャなんだからな。そう呼んで貰えないと困る」
「分かった。マーシャだね。これからそう呼ぶことにする」
「うん。それにしても、妹か……」
「……どうしてもそこが気に入らないの?」
「少しな。なんか、下になっている気分で気に入らない」
「そんなに僕が嫌い?」
「? 別に嫌ってはいないぞ。昔と違って今は大事な家族みたいなものだからな」
「………………」
あどけない笑顔でそう言われると照れてしまうトリスだった。
「ただ、なんとなく対等でありたいと思っているだけだ」
「別に兄妹っていう設定だけで上下は関係ないと思うけど」
「分かっている。気分の問題だ」
「じゃあ双子にする?」
「……それはなんかやだ」
「そこまで嫌がらなくても……」
双子ほど近くなるのは嫌なのだろう。
本気で嫌そうにしているマーシャを見て落ち込んでしまうトリス。
「まあいいや。よろしく。『お兄ちゃん』」
「………………」
なんとも皮肉な『お兄ちゃん』である。
そんな顔で呼ばれるぐらいなら普通に呼び捨てされた方がマシだ。
しかし悪い気はしなかった。
今まではただ一緒にいただけのマティルダ……いや、マーシャと確かな繋がりが出来たような気がしたから。
宙ぶらりんで、不安定だったトリスの心が、確かな何かに繋ぎ止められたような気がしたのだ。
それが不思議な安心感としてトリスの中で根付いている。
「とにかくこれで二人は正式な身分を得た。インヴェルクというのはマーシャの希望で格好いい名前として考えてみたが、気に入ったかな?」
「うん。気に入った。ありがとう、お爺ちゃん」
「どういたしまして」
尻尾をぱたぱた振りながら喜んでくれるので、クラウスも嬉しくなる。
とにかくこれで一仕事が終わった。
「これで外を出歩いても問題は無いだろう。亜人として見咎められても、正式な身分があるのなら誰も手出しは出来ない。更に言えば保護者が儂じゃからな。ロッティでマーシャ達をどうこう出来る愚か者がいるとも思えん」
「じゃあ外に出てもいいの?」
「もちろんじゃよ。今までは不自由をさせて悪かったのう」
「ううん。外は危ないって分かっていたから、それはいいんだ。でも、出歩けるようになったのは嬉しい」
この数ヶ月、ずっと家の中で過ごしてきた。
リーゼロックの家は庭も含めてかなり広いので、外に出られなくても閉塞感などはなかったのだが、それでも外の世界に興味があったことは確かなのだ。
それでも今の自分達がかなり危うい立場にいることは分かっていたので自粛していた。
しかしそれも今日までだ。
これからは自由に出歩ける。
戸籍ひとつで、身分一つでそこまで変わるというのは不思議な気分だったが、それが人間社会というものなのだろう。
亜人なのに人間社会に馴染まなければならないというのは少しだけ不満だったが、今の自分が生きているのはその世界なので仕方が無い。
意地を張っても仕方が無いし、生きるべき場所で生き抜いていくと決めたのだ。
そして人間社会というのは、レヴィアースがいる世界でもある。
マーシャはいつかレヴィアースと再会したいと思っている。
今度は助けられる側ではなく、対等な立場として。
もう一度彼に会いたいと焦がれている。
だからこそ、この世界で生きていくと決めていた。
「トリスも一緒に外に出よう。いろんな場所に行ってみたいし」
「そうだね。僕も外の世界には少しだけ興味がある」
「じゃあ明日から早速外を探検だな」
「うん」
「外に行くのなら誰かつけよう。子供達だけで街を歩くのは危ないからな」
「えー。二人だけで街を探検してみたい」
そして過保護扱いにマーシャがむくれた。
「まあまあ。初めて外に出るんじゃから帰り道も分からなくなるかもしれないじゃろう? 慣れてきたら二人だけで自由に出歩いてもいいから、最初の内は大人と一緒に行く方がいいと思うぞ」
「む……それもそうか」
帰り道が分からなくなるのは困る。
クラウスの言い分には理があったので仕方なく頷くマーシャ。
トリスの方は最初から保護者付きであることに異論は無かった。
「マーシャは外に出て何がしたいんだ?」
「別に。ただ外を歩いてみたいだけだよ。新しい何かがあるかもしれないじゃないか。ただの好奇心と言ってもいいのかもしれない」
「なるほど」
「レヴィアースといた頃に少しだけ街を歩いてみたけど、人がいっぱいいて、賑やかだった。いろんな美味しそうな店もあったし、はしごしてみたいな」
「食べ物メインなんだ……」
「肉メインといってもいい」
「あはは……」
肉食獣は絶好調らしい。
「肉ならうちの料理で毎日出しているじゃろう」
毎日沢山の肉を食べているのに、まだ他の肉に執着があるのかと呆れるクラウス。
しかしマーシャはにっこりと可愛らしい笑みでクラウスを見上げた。
「外の味には興味がある。それに外の味と較べてこそ、この家の味の素晴らしさが分かると思うし」
「うむ。そういうことならしっかりと較べてもらわんとな」
上機嫌で頷くクラウスだった。
彼はかなりゲンキンな老人なのだ。
「買い物をするならお金も必要じゃろう。このカードで買い物をするといい」
そう言ってマーシャ達に黒いカードを二枚渡した。
ロッティの店ではこのカードが使える。
使えない店もあるが、その場合もこのカードで現金を下ろすことが出来るので問題無い。
「いいの? いっぱい使うかもしれないよ?」
「構わん構わん。どうせ金は余っているんじゃからな。好きなだけ使うといい」
「……教育に悪そうな考え方だなぁ」
呆れるマーシャだが、いくら使ってもいいと言ってくれるのは嬉しい。
肉だけではなく、いろいろな物に興味を持っているので、買い物はたくさんしたいと思っていたのだ。
「あまり無駄遣いはしないように気をつける」
トリスの方はもう少し遠慮深い性格なので、きちんと自制するつもりのようだ。
しかし必要な物を買い揃えられるというのは嬉しい。
特に勉強関連で必要な教材があるので、それらを買うつもりだった。
通販でも購入出来るのだが、実際に自分の目で見て判断したいのだ。
クラウスは二人がどんな風に成長するのかが楽しみでたまらない。
小さな子供達が日々いろいろなことを学んで成長していくのを見るのが、とても楽しいのだ。
これからどんな風に変わっていくのか。
何になりたいと思ってくれるのか。
その為の手助けならば、いくらでも金を出してやりたいと思うのだった。
特にマティルダは宇宙船関連に興味があるようなので、そのあたりをしっかりと学んだり、実践したりするにはかなりの費用が必要になるだろう。
億単位でもぽんと出してしまえるクラウスにとっては、なかなかに物騒な考え方だが、それでも二人の為ならばどんなことでもするつもりだった。
トリスの方は今のところの目標は見えないが、その内しっかりと自分の道を決めてくれるだろう。
この日、二人の少年少女は新しい名前を得た。
マーシャ・インヴェルク。
トリス・インヴェルク。
この二人がこれからどんな人生を歩むのか、それはまだ分からない。
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