僕が戻ってきたとき、みんなの間には微妙な空気が流れていた。
「どうしたの?」
「なんでもないよー。ささ! 早速描き始めましょうぞ!」
「え? あ、うん」
佐藤さんに促されるまま、僕は、大園先輩の用意してくれたカンバスの前に座る。
すると、大園先輩が慌ただしく部屋を出ていく。
「ごめんね! わたし委員会の仕事があって!」
「先輩、準備ありがとうございました」
「いいよー! 今度何かおごってね!」
「学食でいいですか」
「やだ! カフェで!」
「……考えときますね」
「よろしくね!」
そう言って、大園先輩は、バタバタと足音をさせながら、教室から出ていった。
僕はその足音が聞こえなくなってから、木戸口さんの方に向き直った。
「じゃあ始めるね」
「は、はい」
そう言って木戸口さんは、座る姿勢を正した。
けれど、首が微妙に傾いている。
緊張しているのか、木戸口さんは床を見ていた。
少し気がかりだったけど、僕は気にせず描き始めることにした。
最初はゆっくりと、手探りをするように線を描いてゆく。
自分の中を探るように、線を引いてゆく。
描いては消し、消してしまっては描き直す。
描き始めは、川上さんたちに見られているのが、気になっていた。
けれど、そのうちに川上さんたちが、僕の周りにいるのも忘れてしまうほどに、僕は集中し始めた。
そして、あらかた方向性が決まって、筆を入れようとした時。
川上さんが、久しぶりに声を出した。
「私、帰る」
室内全員の視線が、川上さんに集まる。
僕は、そっかとも、じゃあねとも言わないで、何と言えばいいのか迷っていた。
すると、佐藤さんが川上さんに、なにかを言い始めた。
「もういいの?」
「うん」
「どうだった?」
「やっぱり、私、間違えてないと思う」
「見えたんだね」
「うん」
「そっか」
すると、佐藤さんも川上さんと同じように帰ると言い始めた。
「じゃあ、あたしも帰るー」
「いいの?」
「のめり込まないだけで、春奈も瑠美と同じなのさー」
「そっか」
そう言って二人は、二人の間だけで納得したらしい。
そして二人ともカバンを持って、部屋から出ていこうとする。
「それじゃねー」
「頑張ってね、峯村」
最後に川上さんが、木戸口さんにこう言った。
「眼を見るのは、自由だよ。怖くないことだから」
「……わかりました」
僕には何も分からない。
けれど、木戸口さんには何かが伝わったようだった。
ガラガラと扉が閉まり、僕と木戸口さんだけが教室に残された。
「続けるね」
「はい」
それからはお互いに無言だった。
筆が水彩紙の上を走る音だけが心地よく響く。
そして絵が7割ほど完成した頃。
木戸口さんが沈黙を破って、口を開いた。
「……断りました、告白」
「……そうなんだ」
「怖かったですけど、ちゃんとしなきゃと思って」
「……すごいよ」
僕は、口を動かしながら筆を持ち換えて、木戸口さんの方を見た。
今まで僕の足元を彷徨っていた眼線が、一直線に僕を見つめていた。
木戸口さんの真っ赤な眼が、僕を見つめていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでも、ないです」
木戸口さんはそう言ったっきり、また眼線を彷徨わせる。
それからまた無言の時間が続いた。
日が暮れ始めて、もう光無しでは描くことが出来ないほど薄暗い頃。
そんな時間に、やっと絵は完成した。
「出来た……」
僕がそう言うと、木戸口さんはダラリと姿勢を崩した。
「ずっと同じ姿勢ってやっぱり疲れるんですね」
「姿勢なんて、変えてもよかったのに」
「え? でも描くなら……」
そう言って、木戸口さんが立ち上がり、僕の絵を覗き込む。
「……なんですか、これ?」
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