風の歌は雲の彼方に

片腕を失った兵士と少女が紡ぐ物語
yaasan y
yaasan

片腕がない男

公開日時: 2021年11月4日(木) 11:09
更新日時: 2023年9月20日(水) 18:17
文字数:1,765

 アナリナは父母たちがいる隣の部屋が気になって仕方がなかった。聞き耳を立ててみたが、ぼそぼそと声らしきものが聞こえてくるだけで、父母やあの片腕のない若い男が何を話しているのかまでは分からない。

 

 気がつくとそんなアナリナの背後に弟のマシューが不安げな顔で立っている。まだ五歳でしかないマシューでさえも、この不穏な空気を感じてしまっているように思えた。

 

 ……片腕がない不気味な男。

 彼はこの家によくない物を持ってきたとしか思えなかった。

 

 もう一度、マシューの顔をアナリナは見た。マシューは今にも泣き出しそうに顔を歪めていたけれども、涙を見せてはいなかった。

 マシューはあの時からあまり泣かなくなったとアナリナは思う。でも、それと同時にあまり笑わなくもなってしまった。

 

 一番上の姉が出て行ってしまったことを自分のせいだと、今でも責め続けているのだろうか。その小さな心を今でも傷つけ続けているのだろうか。

 

 そう思うと、まだ幼いマシューが可哀想でアナリナは涙が滲んでくる。でも、泣くわけにはいかないとアナリナは思う。今、自分は一番上のお姉ちゃんなのだ。一番上のお姉ちゃんになったのだ。なのに自分が泣けば、まだ五歳でしかないマシューは一層、不安に思うだろう。だから、もっと自分はしっかりしなくてはいけないのだから……。

 

 

 

 

 結局、彼が家に来た目的がアナリナには分からないままだった。

 

 不安げなアナリナやマシューを見て父親は何も心配する必要はないと言っていたが、そうは思えなかった。

 実際、母親の頬は涙で濡れていて、父親の目は赤く充血しているのだ。

 

 やはりそうなのだとアナリナは思った。あの男がよくない話を持ってきたのだ。そう確信した瞬間、アナリナは外へ飛び出していた。

 

 あの片腕がない男は……。

 ……いた!

 

「あ、あの……」

 

 彼の背後から勢いに任せてアナリナは声をかけたものの、次に何を言えばいいのか分からずにアナリナは言い淀んでしまう。

 

 背後を振り返った彼は、アナリナの顔を見ると驚きの表情を浮かべた。

 

 既に姉を知っている人がアナリナを初めて見ると、よくこういった顔をすることをアナリナは知っていた。

 自分でも感心するぐらい姉のルーシャと自分の顔はそっくりなのだった。

 

「……君は?」

「アナリナといいます。ルーシャは私の姉です……」

「そうか……」

 

 彼は頷くと黒色の瞳を少しだけ懐かしそうに細めた。

 

「お姉ちゃんのことを知ってるんですよね?」

 

 アナリナの言葉に彼は少しだけ頷くと、改めてアナリナに向き直ってその明るい灰色の頭を彼は下げてみせるのだった。

 

 ……その時、彼が一瞬だけ悲しそうな表情を見せたのは気のせいだっただろうか。

 アナリナはそう思ったのだった。

 

 

 

 

 お姉ちゃんの好きな場所だったから。ルーシャの妹、アナリナはそう言ってボルドを村外れにある小高い丘の大木まで案内してくれた。

 ボルドを大木まで案内した後、去り際にアナリナはボルドに尋ねた。

 

 姉は、ルーシャお姉ちゃんは怯えていなかったかと。死ぬことを怖がっていなかったかと。

 

 本当は怖かったのだと思う。逃げ出したかったのだと思う。だけども、彼女はそれを口にすることもなく、逆に常に周りを気遣っていた。慰めにもならないが、彼女は立派だった。

 

 そう答えたボルドにアナリナは少しだけ悲しげにその顔を歪めてみせた。そして、何も言うことはなく一礼だけをしてアナリナは去って行ったのだった。

 

 去り行く小さなその背を見送りながら、これでよかったのだろうかとボルドは考えていた。

 

 志願兵たちが残した僅かな私物を形見として、彼らの家族へ届けること。

 それを命じた者として彼らの最後を伝えること。

 そして、最後にそれを詫びること。

 

 しかし、それらを行わなければボルドは自身がどこにも進んでいけないような気がしたのだった。

 

 だが、結局それは悲しみを乗り越えつつある彼らの家族を再び悲しみの中に引きずり戻す行為でしかなかったのではないだろうか。自身の自己満足でしかなかったのではないだろうか。

 

 ……そう。今のように……。

 

 ルイス。

 セシリア。

 ラルク。

 そして、ルーシャ。

 

 彼らが残してきたどの家族も自分たちが悲しみの中にいるのにも関わらず、ボルドに感謝の言葉を述べたのだった。ボルド自身が彼らに、彼女らに死んでこいと命じたのにも関わらず……。

 

 ボルドの口にゆっくりと苦い味が広がっていくのだった。

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