風の歌は雲の彼方に

片腕を失った兵士と少女が紡ぐ物語
yaasan y
yaasan

イ号作戦発動

公開日時: 2021年6月14日(月) 11:24
更新日時: 2023年9月5日(火) 09:34
文字数:2,076

「少尉、少尉!」

 

 狭い塹壕の中をルーシャが転がるようにしてボルドの下に来る。その様子を見る限り、顔は泥や煤煙で黒く汚れていたがルーシャ自身には大きな怪我はないようだった。

 

「ルイスが、ルイスが少尉のことを呼んでいます!」

 

 ボルドは無言で頷く。

 

 ルイスは上半身をゴーダに抱えられながら横たわっていた。その顔は青白く、このままでは長くないことは明らかに思えた。

 

ルイスが配属されてまだ一か月も経っていないのだ。だというのに……。

 

 いずれにしてもルイスを連れて撤退を急がなければならなかった。さもなければ、迫り来る重装歩兵に一方的に蹴散らされるだけだ。

 

 撤退の指示を出そうとしたボルドをルイスの震える声が押し留めた。

 

「少尉、申し訳ありません。へまをしたようです」

「馬鹿、ひよっこが偉そうに言うな。安心しろ。すぐに安全な後方へ連れて行ってやる。おい、ルーシャ、ゴーダと共にルイスを連れて撤退の準備を急げ。他の者も……」

 

 ルイスはゴーダの腕の中で首を左右に振った。

 

「俺はもう駄目です。ひよっこでもそれぐらいは分かります。少尉、行かせて下さい……俺は敵兵の中で死ぬために来たんです……安全な後方で死ぬためじゃない……」

 

 ルイスの黒い瞳が真っ直ぐにボルドの黒い瞳を捉えていた。声は弱々しいが、それに反するかのように瞳には力がこもっている。

 

「ルイス!」

 

 ルーシャが悲鳴のような声でその名を叫ぶ。

 

「……ラルクの兄貴には悪いけど俺が先に行くぜ。」

 

 ルーシャの顔が泣きそうに歪んでいる。だが、涙を見せようとはしなかった。ルーシャがそれを必死に堪えていることはボルドにも分かることだった。気がつくと他の志願兵、ラルクとセシリアの姿もルイスの近くにあった。

 

 ラルクはルイスに近づくと、その髪の毛をくしゃくしゃとかき回した。

 

「ルイ坊、行ってこい。お前は人族最強なんだろう? なら、こんな所で死んじゃ駄目だ。任せろ、俺がそこに連れて行ってやる」

 

 ラルクの顔はルーシャと同様に涙を見せまいと引き攣り、声は絞り出すかのようだった。それでもラルクは懸命に笑顔を浮かべようとしていた。隣のセシリアも顔を引き攣らせながら、二度、三度と頷いている。

 

 どのような状況だったとしても、味方に囲まれて死ぬために戦場に来たわけではない。これは志願兵共通の思いなのだとボルドは悟った。ボルドは下唇を噛みしめて、片手に拳を作る。片手の拳が小刻みに震えているのを自覚する。

 

 その怒りは誰かに向けたものではなく、このような彼らの境遇に何もすることができない自分に対する怒りだった。ボルドにできることと言えば、彼らが望む場所を確保してやることぐらいだった。

 

 本心では彼らの思いを間違っていると否定したい。だが、ボルドにできることは否定することではなく、彼らの思いが遂げられる場所を用意することだった。そして、この大きな矛盾に対する不甲斐ない自分への怒りだった。

 

「……馬鹿が。ひよっこどもが偉そうに言ってるんじゃねえよ。ルイスは俺がきっちりと連れて行ってやる」

 

 その胸にルイスを抱いていたゴーダがそう言った。ゴーダの瞳が濡れている気がするのは、気のせいだろうか。

 

「志願兵をそこに連れて行くのは、俺たち重装歩兵の役目だ」

 

 続けてゴーダがそう言うと、その頭を同じく重装歩兵のジェロムが叩いた。

 

「馬鹿野郎、お前こそ偉そうに言ってるんじゃねえよ。こういうことで先に行くのは、歳上からって相場が決まっているんだ」

 

「軍曹……軍曹はまだ早いですよ。軍曹にはルーシャたちの面倒を最後まで見てもらわないといけない」

「おい、ふざけるな!」

「ふざけてなんていないですよ。軍曹も似たようなものなんでしょうが、俺の家族はイスダリア教国の連中にぶち殺された。俺の望みは少しでも多く、あの連中をぶち殺すことです。なら、こんな上等な機会は譲れないですね。人族最強のルイスと大暴れをしてきますよ」

 

 ゴーダはオーク種の特徴でもある小さな茶色の瞳を器用に片方の目だけ瞑って見せた。

 

「馬鹿が、馬鹿野郎が! 行くなら歳の順だろうが」

 

 そこにゴーダの譲れない強い意志を感じ取ったのか、ジェロムが地面を拳で打ちつけた。そして、再び口を開く。

 

「少尉……俺からも頼みます。こいつらを……行かせてあげて下さい」

 

 分かっている。俺にも分かっている! 

 ボルドはそう叫びたかった。ルイスだって何もしないまま、このようなところで死ぬために来たわけではない。そんなことは分かっている。

 

 だが、これでいいのか? 

 まだ十三歳でしかない子供をむざむざと殺すだけで、この戦争が終わるのか?

 人族の地位が向上するというのか? 

 他に方法はないのか?

 

 今度はボルドが顔を伏せて残された片腕で強く地面を殴りつける番だった。

 そして、ゆっくりと顔を上げて黒い瞳をルイスに向けた。

 

 ……そう。今、やれることは……。

 

「イ号作戦を発動する。ルイス三等陸兵、貴官の出撃を命じる。同様にゴーダ一等陸兵も出撃。その支援を命じる。両者とも栄光あるガジール帝国軍人として、その任を全うせよ!」

 

「はっ!」

「はいっ!」

 

 ゴーダとルイスの声が重なり、二人ともボルドに敬礼を返した。

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