人の気配がする。ルーシャが背後を振り返ると、小隊の隊長であるボルドが居心地の悪そうな顔で立っていた。僅かな風に吹かれて、明るい灰色の髪の毛と腕が通されていない片袖が揺れている。
立ち上がろうとするルーシャをボルドは片手で制した。隣に座ってもいいかと尋ねるボルドにルーシャは無言で頷いた。
ボルドがここに来た理由は何となくルーシャにも分かっていた。平たく言えば心配してのことなのだろう。
ボルドが来てくれて少しだけ嬉しかったが、義務感で来てくれてもねとも思うルーシャだった。
ボルドはかける言葉を探しあぐねているようだったが、意を決したのかようやく口を開いた。
「ルーシャ三等陸兵、どうだ? その、何だ、体調の方は」
……お父さんじゃないんだから。
ボルドからやっと出てきたのがそんな言葉だったので、ルーシャは思わずそう心の中で呟いて微笑んだ。この人は本当に不器用な人なのだなと思う。だけども、それだけに裏表もなくて真っ直ぐな人なのだろうとも思う。
「大丈夫です。色々ありましたけど、まだ私は大丈夫です」
本当に色々あったのだなとルーシャは思う。ルイスやゴーダさんが死んで、そしてセシリアたちも死んでしまった。次は……。
「そうか……二週間後に要塞都市グリビアの奪還戦が決行される……」
ルーシャは無言で明るい茶色の髪を縦に動かした。そうなのかと思う。いよいよなのだ……。
「すまないと思っている。お前たちにこんなことを押しつけてしまって……」
今度は無言で明るい茶色の頭をルーシャは左右に振った。ボルドが謝ることではないとルーシャは口にしたかったが、口にはできなかった。声を出してしまうと泣き声になりそうだったのだ。
「俺が謝って何かが変わるものでもないことは分かっている。だけど、まずは謝らせてほしい。お前たちに押しつけてしまって、本当に申し訳ない」
「……大丈夫です、ボルド少尉。覚悟してきたことです。もう覚悟はできています」
「そうか。そうだったな……」
ボルドはそう言って、所在なげに揺れている腕が通されていない片袖の先を残る片手で何をするでもなくいじっていた。
「……俺の父親は魔族だが、母親は人族だった」
ボルドが唐突にそんな話を始めた。唐突な内容に少しだけ驚いたルーシャだったが、やはり少尉は人族の血を引いているから黒色の瞳なのだなとも思う。
「だが、人族の血を引いていても俺はそのことで大きな差別をされることはなかった。幸運だったのだろうな。俺は魔族の社会で普通に育ったんだ。他の魔族と同じように。だから正直、お前たち人族の苦しみは分からない」
「……はい」
少尉は何を言おうとしているのだろうか。
「お前たちが本当は何を思って、この戦争に志願したのかすらも俺には分からない。だが、やはり間違っているのだと俺は思う。お前たちがこの戦争で死ぬためだけに戦う理由なんてどこにもありはしない……」
「はい……」
やはり優しい人なのだなとルーシャは思う。ハンナさんが言うように優しいから、ずっと少尉は苦しんでいるのだ。
「なあ、ルーシャ……」
ボルドはそうルーシャに呼びかけた。ボルドの覗き込むような黒色の瞳がルーシャを捉えている。
「逃げてもいいんだぞ。こうみえても俺は有力貴族の息子だ。今は両親も死んでしまって腹違いの兄が家督を継いでいるがな。皇帝陛下に連なる家の一族とも懇意にしている。だから、脱走兵を匿うことは難しくない」
ああ、そうなのかとルーシャは思う。ボルドの姓を初めて聞いた時、どこかで聞き覚えがあるような気がしていた。テオドール。ガジール帝国の中でも有名な貴族の名だった。
そして……脱走。
考えてもみなかったことだった。驚きもあってボルドの言葉が上手く頭の中に入ってこない。ボルドは尚も言葉を続けた。
「ルーシャだけじゃない。ラルクが一緒だっていい。後づけでお前たちを戦死扱いにすることだってできるはずだ」
……そうだったらいいな。
ボルドが言うようなことが本当にできるのならば、どんなにいいだろうかとルーシャは思う。死の影に怯える必要も、死ぬ必要もなくなるのだ。
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