ジェロムはルーシャを抱えたままで、転がるようにして塔の内部に辿り着いた。塔内にいたイスダリア教国の兵士は三名。
その巨体に似合わず素早く起き上がると、ジェロムは瞬く間にその三名を棍棒で吹き飛ばす。
「ルーシャ!」
「はいっ!」
ルーシャもジェロムに続いて立ち上がると全神経を集中させる。
……マナを、マナを一箇所に集める。
これから死ぬことに対して、不思議と恐怖が湧いてくることはなかった。
そんなことよりも早くマナを集めなければいけない。
その思いにルーシャは突き動かされていた。
その直後、ルーシャの背後で立て続けに銃声が聞こえる。反射的に振り返ると、ルーシャの背後でジェロムが大きくのけぞっていた。
だが、ジェロムは倒れなかった。雄叫びを上げながら態勢を立て直すと、小銃を放ったイスダリア教国の兵士たちに棍棒を振り上げながら突進する。そして、銃声といくつかの悲鳴とが重なった。
早く、早くしないと……。
しかし、ルーシャのその思いに反して体内のマナは一向に集まってくれなかった。焦れば焦るほど体内のマナを集めることができない。
「どうして? どうしてよ!」
ルーシャが泣き声混じりでそう思わず叫んだ時だった。
……何をしてるんだよ? 少しは落ち着けよ。
ラルクの声が聞こえてきた。
……体の力を抜けばいいんじゃね?
ルイスの声だった。
……ルーシャちゃん、大丈夫だよ。ゆっくり、落ち着いて。ね……。
今度はセシリアだった。
ルーシャは二度、三度と頷くと、一回だけ大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
また皆に心配をかけちゃったね……。
……そんなことはないんだよ。
ふにゃっと笑うセシリアの顔が見えた気がした。
マナを一箇所に。ゆっくりと……。
もっともっと……。
ゆっくりと、そして早く……。
自分の中で一箇所にマナが集まってくるのを感じる。もう大丈夫だとルーシャは思う。後はこれを大きくして……。
最後まで皆に心配をかけてしまったとルーシャは思う。
……最後までごめんね。
ルーシャは心の中で呟く。
脳裏にラルクの顔が浮かぶ。ルイスの顔が浮かぶ。セシリアの顔も……。
そして、第四特別遊撃小隊の皆の顔が浮かんでくる。
懐かしい家族の顔も浮かび上がってきた。
……もう、いいよね。最後だから、もう泣いてもいいよね。我慢しなくてもいいよね。
だけれども、父親の顔、母親の顔、そして可愛い妹と弟の顔……。
浮かんでくる皆の顔は誰もが笑顔だった。
だから……今ここで自分だけが泣くわけにはいかないとルーシャは涙を堪える。
これで戦争が終わればいいなと心からルーシャは思って。そして願った。こんな思いをするのは私たちだけでいいのだ。
ルイス、ラルク、そしてセシリアの顔が再び脳裏に浮かんでくる。自分たちが抱えてきた苦しみ、痛み、そして悲しみ。これ以上はそんな思いをする人たちを増やす必要なんてないのだから。
いや、自分たちだけではない。第四特別遊撃小隊の皆も含めた全ての兵士たちもそうなのだ。
この戦争で沢山の兵士たちが死んでいった。その苦しみ、痛みや悲しみがこれで止まればいいのにとルーシャは心から思い願った。
それは決して自己犠牲などではなくて単純に、至極単純にこれ以上は誰も苦しみ悲しまなければいいのにとルーシャは願うのだった。
ボルドは無事だろうか。無事であってほしい。自分がまた生き残ってしまったとボルドは自分を責めるのだろうか。
もう自分を責める必要などはないのだと、もっとちゃんとたくさんボルドに伝えてあげたかったと思う。もう伝えてあげられないのだと思うと少しだけ涙が滲んだ。
悪いのはこの戦争なのだから。ボルドではないのだから。
もっとたくさん、たくさんボルドにルーシャはそう伝えてあげたかった。
だからこそ、これで戦争が終わればいいなとルーシャは再び思う。
脱走しようとボルドが言ってくれたこと、本当に嬉しかったなと改めてルーシャは思う。そしてボルドが言ったように、それができたのならばどんなによかったのだろうかと。
ボルドともっと話がしたかった。あの無愛想な少尉ともっと話がしたかった。そうすればボルドが抱えていた悲しみも少しは癒やせてあげられたのだろうか。だから、もっとボルドの傍にいたかった。
でも、とルーシャは思う。ボルドがこの場にいなくてよかった。それだけでもよかった。ボルドが死なずによかった……。
ルーシャがそう思った時だった。ルーシャの視界の片隅に、よろめきながらこちらに向かって歩いてくる兵士の姿があった。
……長身で明るい灰色の髪の毛。そして腕を通すことがなく揺れている片袖。
間違えようがなかった。
……駄目!
ルーシャが心の中で叫ぶ。この距離では間違いなく爆発に巻き込んでしまう。もう既にマナの集中を止めることはできない。間もなくルーシャの体内でマナが爆ぜてしまう感覚がルーシャの中にはあった。
止められない。来ないで!
叫んだところで声が届くはずもなかったのだったが、ルーシャはそう叫ぼうとする。でも、声を出す余裕もない。ルーシャは今にも体内で爆ぜようとするマナを抑え込むことで精一杯だった。
あんな体で、あんなにぼろぼろなのに何で……。
そうなのだ。訊くまでもないことだった。
……死ぬためなのだ。
ルーシャや皆と一緒に死ぬためだけに、きっと彼はその歩みを進めているのだ。
でも、ボルドには死んでほしくない。それはルーシャの切実な思いであり願いだった。
死にたいと言う者に、自分は死んでほしくない。だから死なないでと言うのは身勝手なものでしかないのだろうか。それは自己中心的なものでしかないのだろうか。
でも、例え身勝手だとしても、ルーシャはボルドに死んでほしくはなかった。
駄目! お願いだから来ないで。逃げて。お願い、お願いだから……。
そんなルーシャの願いを知るはずもなく、ボルドはよろけながらも確実にその距離を縮める。それはルーシャにとってはまるで絶望を表現しているかのような光景だった。
その時だった。気づけば涙で濡れていたルーシャの視界の中で、ボルドの背後から近づく影があった。戦場には似つかわしくない端正な顔と細くどこまでも真っすぐな金色の髪。
……ハンナさん。
ルーシャの視線とハンナの視線が宙で重なった。
……大丈夫よ。安心なさい。あなたの素敵な少尉さんは私が必ず守るから。
そうハンナの声が聞こえた気がした。
いや、間違いなくルーシャにはそう聞こえた。
そうかとルーシャは安心する。ハンナがそう言うのなら大丈夫だ。根拠はなかったけれども、ルーシャはそう確信することができた。
視界の中でハンナはボルドの前に回り込むと、正面からその身を優しく抱き締めた。ボルドはもはや立っていることすらも限界だったのだろう。力なくハンナの胸にその身を預けているようだった。
……あ、ずるいんだ。
その光景を目にすると思わずルーシャはそう心の中で呟いた。
マナを抑え込むのはもう限界だった。体内で猛り狂うマナをこれ以上は抑えてはいられない。改めてもう最後の時なのだなと思う。
……ハンナさん、少尉をお願いしますね。
……やっぱり少しだけ怖いかな。
……お父さん、お母さん、アナリナ、マシュー、勝手に決めて本当にごめんなさい。
そしてボルド少尉、ありがとう……生きて、必ず生きて下さい……。
次の時、ルーシャの意識が白で塗りつぶされた……。
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