この世界には、三つの大国がある。
一つは、剣と魔法を使う人間の国、オーランド王国。もっとも領土が大きく、国王と各領地を治める有力貴族たちによる政治が行われている。ノエルは、その内の騎士の町ナイトランド領に、店を構えている。
次に、武闘を得意とする獣人の国、ジュテ国。人間を遥かに凌駕する身体能力を備えた獣人は、獣の耳や尻尾が特徴的な種族であり、強い者が王となる。
そして、強大な魔術と古代兵器を扱うエルフ族の国、リスダール王国。大陸一長寿なエルフの知識は、世界の歴史そのものと言われている。
これら三国は、かつて大陸の覇権を争っていた。しかしある時期を境に、平和協定を結び、現在まで均衡を保っている。
それは三百年前の【魔王大戦】である。人界を手に入れようと企む魔族の王バルハルトとの戦いで、三国は共闘関係となった。
とくに、オーランド王国の勇者ユリウス、神官システィ、聖騎士ランスロット、ジュテ国の戦士イワン、リスダール王国の魔道姫リナリーの活躍は目覚ましく、彼らの戦いは後世に語り継がれている。
「ランスロット・アルベイト……」
ノエルは驚いて、目の前の男に向かって呟いた。
しかし、驚いた理由は、彼が魔王大戦の聖騎士と同じ名前、ということだけではなかった。魔王は見事、勇者たちの活躍により討ち倒されたのだが、その後、国家を揺るがす大事件が起こったのである。
それは、聖騎士ランスロット・アルベイトによる【勇者殺し】だ。大戦、ランスロットは、勇者ユリウスに対する妬みや憎しみから、彼を惨殺したのである。
ランスロットは人々から、【堕ちた聖騎士】と侮蔑され、栄誉も名声も失った。そして、大戦の英雄を殺害した罪はあまりにも重く、死罪ですら不足とされた。ランスロットに科された刑は、【常闇の刑】。魔王が生まれ出でた闇の世界に追放し、封印するという永久刑だ。
そんな大罪人が、自分の店に現れるはずがないと思いたいノエルだったが、彼はアンジュ・ルブランのことを婚約者と言った。当時、アンジュとランスロットの関係は密恋であり、そのことは、今となっては、ルブラン家の末裔であるノエルしか知らないはずだった。
ランスロット本人を除いては。
「あ、あの、お客様! 本日はもしや、闇の世界からお越しに……?」
ノエルはすっかりドキドキを失い、怯えながらランスロットに尋ねた。もし、本当に彼が闇の世界から戻ってきた、【堕ちた聖騎士】であるならば、非常に危険極まりない。
「闇の世界? アンジュ、何をつまらん冗談を言っている。俺は……。む、よく思い出せんな」
ランスロットは何故だか戸惑った様子で、小首を傾げている。入店時の虚ろな表情といい、記憶や状況把握ができていない様子だ。
「だからあの、私はアンジュでは……!」
ひとまず情報を整理しなければと、ノエルは声を大きくした。
しかしその時――。
バンッ、と乱暴にドアが開け放たれ、三人の男たちがズカズカと店に入って来たのだ。
「ノ~エ~ル~! 久しぶりだなぁ!」
友好的な言葉ではあったが、声の主は、ノエルがまったく会いたくなかった人物だった。ナイトランド領主サーティスが、部下の騎士を引き連れて、店に乗り込んできたのである。
「サーティス様。今は、お客様がいらっしゃるので、日を改めてくださいませんか?」
ノエルは、たいそう不快な気持ちを抑えつつ、サーティスに頭を下げた。今、サーティスと揉めている場合ではないからだ。
しかし、当のサーティスは、あご髭を撫でながら吐き捨てるように笑った。
「ハッ! 客ぅ? オレの圧力が効いてねぇってんなら、この辺の騎士じゃなねぇな? 古くせぇ鎧だが、どこの田舎モンだぁ? どうせ金もねぇだろ。とっとと出て行け」
ノエルは、サーティスの「圧力」という言葉に耳を疑った。
気間違いでなければ、サーティスは、店に人が寄り付かないように、町中の人々にプレッシャーを掛けていたということではないだろうか。だとしたら、サーティスは、意図的に店を廃業寸前に追い込んだことになる。
しかし、今はそのことを追求できる状況ではなかった。サーティスは、苛々とした様子で近くの椅子を蹴り倒し、ランスロットを威嚇すると、「チッ」と舌打ちをして見せた。サーティスは貴族だが、まるで品がなく、横暴だ。そして、逆らう者には容赦しない。
だが、ランスロットは臆することなく、寧ろ静かに怒っているようだった。蒼い瞳を炎のように燃やし、サーティスを睨みつけている。
「貴様、何の要件でこの店に来た。客でないならば、出て行くべきは貴様の方だ」
「おいおい、無礼な奴だな。オレはナイトランドの領主様だぞぅ? 領民の潰れかけた店を畳ませてやって、自分の屋敷で使ってやろうっていう、優しい優しい領主様だっ!」
サーティスは苛ついた声で喚き、力任せにノエルの腕を引っ掴んだ。
「おら、ノエル! 客も入らねぇような店は、オレが買い取ってやる。だから心置きなく、うちに来い」
「や、やめてください! お店は売りません!」
こんな下衆な領主の思い通りにされるなんて、絶対に嫌だ! とノエルは泣きそうになりながら必死にもがいた。しかし、大の男の力に、十六歳の少女が敵うはずもなく、ノエルの身体はずるずると引きずられてしまう。
助けて! 父さん、母さん! と、ノエルが心の中で叫んだ時、突如、サーティスの手がパッと離れた。
そして、彼がドスンッと床に伏した衝撃が、遅れて伝わってきたのである。
「いってぇぇぇなぁぁぁっ! 何しやがる!」
サーティスは、痛そうに左頬を押さえて、床に這いつくばっていた。どうやら、ランスロットが彼を殴り飛ばしたらしく、目つきを鋭くして、サーティスを睨みつけている。
「下衆が! 彼女に触るな!」
ランスロットは、サーティスに対して強い怒りを滲ませながら、ノエルを自分の後ろに下がらせた。
そしてノエルは、ランスロットの広い背中を見て、自分がまたドキドキしていることに気がついた。ノエルをアンジュと勘違いしているとはいえ、自分を助けてくれた騎士が、逞しく、勇敢に映ったのだ。まるで、物語の王子様のようだ。
この人、とても、大罪人とは思えない……!
「てんめぇ、いい度胸だなぁ、おい! 領主のオレ様に逆らったらどうなるか、教えてやる!」
ノエルがときめいている間に、サーティスは痛そうに立ち上がり、部下二人に「いけ!」と指示を出した。
すると部下たちは剣を抜き、勢いよくランスロットに襲いかかってきた。
「【サモンズアーム】! 晴天の槍!」
ランスロットが召喚呪文を唱えると、右手に身長を優に超える長槍が現れた。
「遅いぞ、下郎ども!」
ランスロットは槍を一閃させ、サーティスの部下たちをまとめて払い飛ばした。
その一瞬の出来事に、ノエルは槍先の動きを捉えることもできなかった。なんという槍裁きだろう。
「うぉぉい! お前ら、瞬殺されてんじゃねえよ! 畜生!」
サーティスは悔しそうに喚き、今度は自ら長剣を抜いた。煌びやかな、如何にも高級そうな剣だ。
「ぶっ殺してやる! 行くぞ!」
と、サーティスは大声で叫びながら、側のテーブルをランスロットの方向に蹴り倒した。恐らく、ランスロットの障害になるように蹴り倒したのだろうが、この程度で彼は怯まなかった。
しかし――。
「くっ……!」
ランスロットは、テーブル上から飛んだ、あるものを目で追っていた。
スコーンである。サーティスが蹴り倒したテーブルには、ランスロットが注文したスコーンが一つ残っていたのだ。
「ぎゃははっ! 馬鹿めぇ!」
その隙をサーティスは見逃さず、剣がランスロットに迫った。
「危ない!」
ノエルが叫ぶと同時に、晴天の槍は、サーティスの右肩を貫いていた。
「ぎゃあああっ! 痛てぇぇぇ!」
「馬鹿は貴様だったな」
ランスロットは素早く槍を引き戻すと、肩の痛みに絶叫しているサーティスを蹴り飛ばした。
そして、左手でスコーンを受け止め、ホッとした表情を浮かべていた。
「なんて強さなの……」
ノエルは思わず感嘆の息を飲み、ランスロットに見とれてしまった。一方のランスロットは、スコーンを片手に、サーティスと部下たちが気絶していることを確認して回っている。なんと不思議な光景だろう。
「助けていただいて、ありがとうございました!」
ノエルはランスロットに駆け寄り、ぺこりと頭を下げた。
するとランスロットは、柔らかい笑みを浮かべながら、ノエルの頭を撫でた。先程まで、サーティスに向けていた険しい表情とは大違いだ。
「騎士である前に、大切な人を守ることは、男として当然のことだ」
「あの、だから私は……!」
「しかし、この下衆どものせいで店を荒らしてしまったな。すまない」
ランスロットは、ノエルの言葉を遮り、壊れたテーブルや椅子、柱などを見回していた。
「いいんです! サーティスをぶっ飛ばしてくれて、スッキリしましたから。どうか、謝らないでください! でもこうなっては、ナイトランドに居続けることは無理ですし、どこか別の土地に行かないと……」
やはり、店を畳むほかないようだ、とノエルは言葉とは裏腹に、泣きそうになっていた。
一族が代々守ってきたベーカリーカフェ ルブラン。家族との思い出の場所。お客の笑顔。様々な想いの詰まったこの店を、閉じなければならない。
今となっては、自分の実力不足か、サーティスの圧力のせいかは分からないが、お客も来ていなかった。自分が一人で店をやっても、誰も笑顔にすることができなかった。だから、店を閉じることも、仕方ない……。
「仕方ない、です。だって、私一人では、そもそも上手くいってなかったですし」
ノエルは自分を納得させるために、口に出して言った。
しかし、その苦しげな言葉に、ランスロットは首を横に振った。
「お前の料理は美味い。客の心に寄り添っている。このスコーンは、俺の心に熱を与えてくれたんだ」
ランスロットは左手のスコーンを一口かじり、笑ってみせた。
「この土地に留まることはできないかもしれないが、店を畳むことは俺が許さん! ……外に下衆どもが乗ってきた馬車があるはずだ。それを奪って、領地を脱出するぞ」
「馬車を奪って、脱出?」
ノエルは、ランスロットの言葉を繰り返すが、理解が追い付かなかった。
「待って、どういうことですか? 私がサーティスの馬車を奪って、えっと……」
「ベーカリーカフェ ルブランは、お前と俺で続ける。二人で、他所の土地へ行くぞ」
「ふ、二人で?」
ノエルは突然の提案に困惑し、ただおろおろするしかなかった。
サーティスに逆らったからには、急いで逃げる必要がある。しかし、まだ正体のよく分からない男と二人で逃走というのは、不安要素しかない。
「急げ! 必要な物を馬車に積むぞ! 領主が目覚める前に発つ」
「う……。うぅぅ~! 分かりました!」
ランスロットの大声に急かされ、ノエルは意を決した。
えぇい! 細かいことは後よ! このままサーティスに捕まるくらいなら、今は逃げた方がマシ!
ノエルの中には漠然とした不安もあったが、どこか嬉しい気持ちもくすぶっていた。ランスロットが、料理を美味しいと言ってくれたこと。店を続けようと言ってくれたこと。笑顔を向けてくれたこと。
ノエルは、得体の知れない不思議な騎士によって、失いかけていた自信を少し取り戻せたような気がしたのである。
「行くぞ! いいか?」
「はい!」
ノエルは、馬車に最低限の料理道具と、ブルーベリーの鉢植えを積み込み、ランスロットに返事を返した。
そしてランスロットが馬に鞭を打つと、店はどんどん小さくなっていった。
父さん、母さん、ご先祖様! ベーカリーカフェ ルブランの意志は、私が持っていきます!
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