ノエルを乗せた馬車は、オレンジの実が溶けたような、夕空の下を駆けていた。
始めは、すぐにでもサーティスが追ってくるのではないか、と不安だったのが、その様子はなく、馬車は至って静かに走っていた。まだ事が大きくなっていないだけかもしれないが、ノエルとしては一安心である。
に、しても。まさか、初めて出会った謎の男と町を出ることになるとは思っていなかった。
ノエルは、馬車の御者台に座るランスロットの後ろ姿を、繁々と見つめた。
この、良く言えばアンティーク品、悪く言えば古臭い鎧は三百年前の物なのだろうか。やはり、彼は【堕ちた聖騎士】なのだろうか。そして身体中に巻き付いている銀の鎖は何なのだろうか。
彼が店でスコーンを食べた直後、鎖が一本砕け散って消えたことも不思議である。とにかく、確認しなければならない。
「あのー、ランスロット、さん?」
「さん付けなど、よそよそしいぞ。敬語も不要だ」
ランスロットは、振り向かずに答えた。
もちろん、ノエルのことを婚約者アンジュと思い込んでいるからこその返答だろう。そのため、敬語をやめるわけにはいかない。まずは生まれ年からだ。
「あの、あなたは人界歴何年生まれですか?」
「俺の誕生日をど忘れしたか? 人界歴一四七五年の十二月十七日だ」
ノエルが聞くと、ランスロットは可笑しそうに笑った。だが、ノエルはそれどころではない。今は人界歴一八〇〇年。魔王大戦があったのは人界歴一五〇〇年であるから、ランスロットはその当時、二十五歳。外見もそれくらいに見える。
じゃあ、やっぱり三百年前の大罪人?
ノエルは急に緊張しながら、ランスロットの背中を見つめた。
一見すると、邪悪性は感じられないが、本当に、この人は過去の人物なのか。そして、勇者を憎しみから殺めた聖騎士なのか。
「どうした? 急に黙って。久々の再会に、戸惑っているのか?」
ランスロットは、そんなノエルには気付かず笑っていた。
しかし、突然ランスロットは馬の手綱を引き、馬車を急停止させた。その場所は、アプラの実という果実の巨木の前だった。
「ナイトランド領の隣には……、この辺りにはアプラス領があるはずだ。アンジュ、アプラスは――、俺の故郷は何処だ?」
ランスロットは初めて後ろを振り返り、ノエルを見つめた。
戸惑いと混乱の表情だった。
「アプラスは、もうありません。領民は別の土地に移住していったと……」
誇りの町 アプラス領は、【堕ちた聖騎士】ランスロット・アルベイトの生まれ故郷。三百年前までは、アプラの木に囲まれた穏やかな町だった、とノエルは学問所で学んだ。そして、当時の領主マリナス・アルベイトは、息子の犯した罪の重さに耐えきれず自害。それを境に領民は離れていき、アプラスは消滅したのだ。
「何故だ。領民はなぜ去った? 俺の父までもいったいどこへ?」
ランスロットは、冷静を保てない様子で、自然と声が大きくなっていた。しかし、その後、急に考え込むようにトーンダウンした。頭を抱え、苦しそうな表情でアプラの木を見つめている。
「父は、つい先日まで息災だった。……いや、それは俺がアプラスを旅立つ時? 違う、アンジュと共に父に会ったはずだ。それはいつだったか……。記憶がひどく曖昧だ」
そして、ノエルは、ランスロットの「記憶」という言葉にハッとした。
もしかして、この人は記憶の一部を失っている? アンジュのことだって、店に来た直後は覚えていなかった様子だったし。
これなら辻褄が合う、とノエルは強く確信した。
ランスロットは闇の世界から、何らかの方法で、ベーカリーカフェ ルブランにやって来た。しかし、大戦から三百年の月日が経過しており、そのうえ、本人の記憶は【勇者殺し】のことも含めて、いくつか欠落している……。
「俺は、何か忘れているのか? たしかに、所々朧げだが……。アンジュ、アプラス領がなくなったのは、いつのことだ?」
ランスロットは、事態を整理しようとしているようで、額に手を当てて俯いている。その表情には、怯えた色が滲み出ており、ノエルは、そんな彼の姿を見ていると、真実を伝えることが残酷過ぎるのではないかと、胸が苦しくなった。
彼が忘れているであろう部分――、《勇者殺し》と、その後の出来事は、記憶が抜け落ちている人間には、受け入れ難いに違いない。少なくとも、店に来てからの彼は、優しくて正義感のある騎士という印象で、悪い人には思えなかったからだ。
「教えてくれ、アンジュ」
ランスロットは、真剣な眼差しでノエルに言った。
なんと美しい蒼い瞳だろう、とノエルはとても偽りを述べることはできないと思えた。この人にきちんと向き合わないといけないと、脳ではなく、心が訴えてかけていた。
「ランスロットさん! 私の知っていること、考えたことは、きちんと伝えます」
言うや否や、ノエルは馬車を飛び出した。御者台に座るランスロットは、戸惑った顔で、馬車を降りたノエルを見下ろしている。
「大事な話は、美味しいものを食べながらするのがルブラン流です! 一緒にご飯を作って食べましょう!」
ノエルは元気いっぱいの笑顔で、ランスロットに手を差し伸べた。
****
「本日のディナーは、野外クッキング! ランスロットさんに捕獲をお願いした、ナイトバードをソテーします!」
アプラの巨木の前で、ノエルは高らかに宣言した。
野外クッキングのために、簡易キッチンもこしらえた。と言っても、石を輪状に並べ、中心に火を入れた即席コンロと、側の切り株をテーブル代わりに、まな板と包丁、調味料を並べているだけだ。
これは、ノエルが幼い時に、父とキャンプに出掛けた経験を元に、せっせとセッティングしたものだ。記憶はおぼろげだったが、最低限の調理はできるだろう。
「アンジュ、どうしても料理が先か? アプラス領や父の話を先送りにされるのは……」
ランスロットは、ずっと納得いかない様子でノエルに抗議している。その気持ちは十分に理解できるのだが、ノエルはどうしても、料理をさせてほしかったのだ。
しかしながら、抗議しつつも、言われた通りに、鳥獣下級モンスターのナイトバードを捕獲してきてくれるランスロットは、婚約者のお願いを断れないタチなのかもしれない。
「ごめんね、ランスロットさん。わがままかもしれないけど、私はあなたに食べてほしい料理があります。だから、お願い」
「……分かった」
ランスロットは頷くと、豪快にナイトバードの下処理を始めた。慣れている様子であるため、もしかしたら過去にナイトバードの調理経験があるのかもしれない。
そして、ノエルが料理を食べながら話をしたいと思ったことには、二つ理由がある。
ひとつは、ノエル自身の心の整理のため。もう一つは、ランスロットに助けてくれた感謝の気持ちと、傷ついてほしくないという気持ちを伝えたいからである。
まだ彼とは出会って間もないが、スコーンを喜んで食べてくれたお客様で、サーティスから守ってくれた恩人、ご先祖様の恋人だ。大罪人かもしれないからといって、安易に傷付けたくはなかった。
「言葉に自信がない時は料理で想いを伝える」、それがノエルのやり方だ。
ノエルは、両頬を手の平でぱちんと叩いて気合いを入れると、
「ありがとう、ランスロットさん。ナイトバードの下処理、とても上手ですね!」
と、ランスロットに声を掛けた。
彼は、すでにナイトバードの血抜きまで済ませており、とてもただの聖騎士とは思えない手際の良さだった。
「あぁ。よく覚えていないが、昔どこかでナイトバードを捌いたことがある気がするな。次は丸茹ででいいか?」
「はい、その通りです。茹でることで毛穴を開かせて、羽を抜き易くします。じゃあ、羽抜きまでお任せしていいですか?」
「任せろ」
相手は、深く知らない大罪人疑いのかかった聖騎士であっても、ノエルはつい、楽しい気持ちになってしまっていた。
父が亡くなって以来、誰かと一緒に料理をするのは初めてで、ひとり孤独にキッチンに向かうのではなく、誰かが隣にいるだけで、不思議な安心感がある。そして、忘れかけていた料理すること自体の喜びや、わくわく感が鮮明に蘇ってきた。
私、いつの間にか忘れてたんだ。一生懸命に料理してばっかりで、それを楽しむ気持ちを失くしてた……。
ノエルは「鶏の方は、よろしくお願いしますね」と、ランスロットに笑みを向け、自分は、アプラの実を集める作業を始めた。
「風の精霊よ! 我の声に従い、舞い踊れ!」
ノエルは、アプラの巨木に両手をかざし、精霊に呼びかけた。すると、強い風がゴゥッと吹き抜け、風に煽られたアプラの実が何個か降ってきた。
アプラの実は、甘酸っぱく、シャリシャリとした食感が特徴の赤い果実だ。今ではどこにでもあるポピュラーな果実だが、かつてアプラス領のアプラは国一番と言われるほど、上質だったそうだ。
今回、そんなアプラの巨木が一本だけ残っていたことは、大きな幸運だった。
「アンジュ、肉の準備はできたぞ」
ノエルがアプラの実をせっせと集め、調理作業をしている頃に、ランスロットは言った。手には、プリッと身が引き締まったナイトバードの肉を持っている。
「ありがとうございます! 素晴らしいです」
ノエルは肉を受け取ると、愛用の包丁で手早く捌き、フライパンで焼きにかかった。
「炎の精霊よ! 包み込め!」
炎の精霊は、ノエルの声に応え、勢いよく燃え上がった。そしてジュウジュウと軽快な音が響き、肉からは香ばしい香りが漂い始める。ノエルは、そこに料理酒と塩胡椒を加えた。
一方、ランスロットも、ノエルの料理が気になる様子で、ソワソワとフライパンを覗き込んでいる。
「美味そうだな」
「まだまだ! 決め手はソースです!」
ノエルは、肉を焼き終えたフライパンに、続けてニンニクチップとアプラの実を放り込んだ。
「果物を焼くのか? てっきりデザート用かと思っていたが」
「心配そうな顔をしないでください。アプラの実は、火を通すと酸味と甘味が増して、ソースにぴったりなんです。……他にも、オレンジとかベリーを使ったソースとお肉を合わせる料理って、多いんですよ」
そしてさらに、ワイン、バター、粒胡椒を加えて熱すると、ふわりと食欲をそそる香りがフライパンから溢れてきた。
ノエルの思惑通り、アプラの実がいい仕事をしている。
「お皿のお肉にソースをかけて……と」
ノエルは、肉とソースを美しく皿に盛り付け、テーブル代わりの切り株の上にそっと置いた。
「《ナイトバードのソテー アプラス風》! 召し上がれ!」
本当はパンも焼きたかったが、さすがに整った設備がないと厳しかった。だが、料理はルブラン家に伝わるレシピをベースにしているだけあって、自信作である。
「ほう。さすがアンジュだ。戴くぞ」
ランスロットは嬉しそうにナイフとフォークを手に取ると、上品に肉をソースと絡め、ゆっくりと口に運んだ。
「このソテーの味、知っているぞ……! アンジュが父のために作ってくれた料理だ」
するとランスロットは、急に頭を抱えて俯いた。同時に、ノエルの周りの精霊たちがざわめく。
あの時──、ランスロットがスコーンを食べた時と同じである。
そして、彼の身体に巻き付く銀の鎖の一本が、ピキピキと音を立てて砕け散った。
「きゃっ!」
鎖のカケラが、ノエルに向かって飛んで来たため、思わず叫んでしまった。しかし、怪我でもするかと思いきや、カケラはすうっと光となり、ノエルの身体に溶け込むように消えていったのである。
すると、さらに不思議なことが起こった。
ノエルの脳裏に、見たことのない光景浮かんだのである。
ミルクティー色の三つ編みをした、自分にそっくりな女性と、初老の男性がテーブルを囲んで笑っているのだ。しかも、テーブルの中央には、ノエルが作った《ナイトバードのソテー》とよく似た料理があるではないか。
「アプラの実をソースに使うとは、いやはや、面白く美味な品だ。ランスロットよ、いい娘を見つけたな」
初老の男性がにこやかに笑い、女性は照れた様子で首を振っている。
「お義父様、もったいないお言葉です」
声まで自分にそっくりで、ノエルは心の底から驚いた。まるで、生き写しを見ているかのようだ。
「たしかにアンジュは、俺には過ぎた女性だ。俺も負けないようにしなければな」
姿は見えないが、本当にすぐ近くから、ランスロットの声が聞こえる。
もしかしたら、ノエルは、ランスロットの視点でこの映像を見ているのではないだろうか。となると、きっと、これはランスロットが思い出した記憶だ。自分は、あの鎖のカケラに触れて、彼の記憶を垣間見ているに違いない、とノエルは確信した。
「ランスロット、アンジュを大切にするのだぞ」
初老の男性は、おそらくランスロットの父マリナスだろう。すると、この記憶は、ランスロットが婚約者を家族に紹介した時のものに違いない。
「心得ています、父上。まずは俺たちの結婚式を楽しみにしていてください」
「頑張って準備しましょうね。ランスロット」
「あぁ。もちろんだ」
微笑み合うランスロットとアンジュ。その幸せに満ちた記憶に、ノエルの胸は、むしろ苦しく締め付けられた。
どうして、この幸せは続かなかったのか。どうして――。
そして、記憶の映像は、スゥッとノエルの視界から消えていった。
ノエルはハッと我に返り、ランスロットを見やると、彼は静かに座ったまま、ナイトバードのソテーを見つめていた。夜空の月に照らされたランスロットの顔は、とても悲しそうだった。
「俺は、この料理をアンジュと共に作ったことがあった。しかし、先程まで忘れていた。大切な、家族との記憶を……」
ランスロットは覚悟を決めた顔つきで、ノエルに視線を向けた。
「俺は、他にいったい何の記憶を失っているんだ? アプラス領がなくなってしまった理由も、俺は忘れてしまっているのか?」
「そう、だと思います。あなたは闇の世界にいた三百年の合間に、記憶を失くしている。少し、思い出したみたいだけれど」
ノエルはゆっくりと、自分の知っていることと、推測したことを話し始めた。
三百年前の魔王大戦のこと。ランスロットの【勇者殺し】。【常闇の刑】。消滅したアプラス領。記憶が失われていること。そして――。
「私はノエル・ルブラン。アンジュではありません。アンジュ・ルブランは、生涯結婚しなかったけれど、養子を迎えました。私はその子孫です」
目の前の少女が、アンジュではない。アンジュは、当の昔に亡くなっているという事実に、ランスロットは震えていた。
「全て、信じ難い……。信じたくない! 俺がユリウスを殺し、そのせいで父が自害し、アンジュを一人残してしまったなど! 何故、そんなことに」
予測を遥かに上回っていた事実に、ランスロットは苦しそうに言葉を吐いた。その姿は酷くつらそうで、ノエルは見ていて、心が痛くなった。
もしかしたら、【勇者殺し】の伝承が間違いで、この人は罪なんて犯していないのでは? もしくは、誰かに罪を着せられたのでは?
ノエルがそう思いたくなる程に、ランスロットは絶望の表情を浮かべていた。
しかし、証拠も根拠もどこにもない。
もし、ノエルが信じるとすれば、偉大なご先祖様であるアンジュ・ルブランが彼を生涯愛したという事実と、自分の直感だけだ。
じゃあ、それを信じるしかないじゃない!
「ランスロットさん! 私は、あなたが記憶を失くしているとはいえ、とても悪い人とは思えないです。ご先祖様が信じたあなたを、私も信じたい」
ノエルは、ランスロットの震える手を、自らの両手でそっと包み込んだ。血の通った、温かい手だった。
「勇者を殺した男だぞ? 怖くないのか?」
「怖くないです。短い間ですけど、あなたがアンジュをどれほど大切に思っているかを感じたから」
ランスロットは驚いて、蒼く美しい瞳でノエルを見つめ、ノエルは優しい笑顔をランスロットに向けた。
「私、あなたが憎しみで誰かを殺すような人だとは、思えないんです。だから、すべて記憶を取り戻して、あなた自身に本当の真実を語ってほしい! その手伝いをさせてほしいんです!」
それは、ノエルの心の底から出た、素直な言葉だった。このまま、ランスロットを放って置けなかった。信じたかった、味方でありたいと思った。
「お前の皿からは、俺への優しさを感じた……。だから、お前の気持ちが本物ということは分かる」
ランスロットは、今にも泣きそうになりながら、ノエルに精一杯の笑みを向けた。痛々しくも、絶望に負けまいとする笑みだった。
「俺は、一人ではないのだな。ノエル・ルブラン」
「はい! それに、あなたが私とベーカリーカフェ ルブランを続けてくれる、っていう約束もありますから! 二人で頑張りましょうね!」
「心得た。頼むぞ、オーナー」
ベーカリーカフェ ルブランの若き女店主と、【堕ちた聖騎士】の共同経営の旅が始まった瞬間であった。
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