よろしくお願いします。
剣の鍛錬でじっちゃんから打たれるのに比べたら、全然大したことない。そう自分に言い聞かせてはみるものの、痛いものは痛かった。
情けも容赦もない靴底が背中に降り注いでいる。やっぱり僕は同じ人間だと思われていないんだ、とクリスは麻痺しつつある頭で考える。お前は人間じゃない。それは常々ぶつけられていた言葉ではあったが、こうして行動にされるとより一層実感できた。
今はもう、それを悲しいとは思わない。ただ恐怖だけがあった。剥き出しの悪意に曝されること。僅かなためらいもなく、まるでそうすることが正しいと言わんばかりに拳が振るわれること。誰も守ってはくれない。反撃することもできない。リィンはいつも呆れたように言う。やりかえせばいいじゃない。何のために剣の鍛錬してるのよ。けれど、それこそ恐ろしい。自分が今味わっているような思いを他人にさせるなんて、絶対にできないとクリスは思う。
「いい加減にわかれよ化物。あいつはお前が近づいていい奴じゃないんだよ!」
一際強く頭を踏みつけられて、瞳の奥で火花が散った。腕で庇ってはいたものの、束の間意識が遠のくほどの衝撃だった。
ジザム、ロップ、ハザウェイに、顔しか知らない男が二人。リィンの家から出る姿を見られたのは失敗だったが、それだけで袋叩きにされるとも思わなかった。
蹴りつけられている背中はもう痛みを通り越して何も感じないし、ぼんやりとしてきた頭は恐怖で麻痺したというよりも、限界が近い証拠だろう。鉄くさい唾を飲み下して、頭をかき抱いた腕に力を込める。ここで意識を手放せば、たぶんそのまま殺されてしまう。抵抗は出来ずとも、丸くなって身を固くすることくらいは続けなければならない。あとはこちらの体力が尽きるのが先か、彼らの熱が冷めるのが先かの我慢比べだ――と、そこまで考えたところで不意に疑問が湧き上がった。
なぜ我慢しなければならないのだろう。
この場をやり過ごしたとしても、いつかまた同じようなことは起こる。リィンとの関わりを断てば済む話でもない。クリスがクリスであるかぎり、祖母から受け継いだ血が、くすんだ金色の髪があるかぎり排斥は続く。出し抜けに襲い来る暴力に怯えて、役に立たない剣の腕を磨いて、ただ生きるために畑を耕して、そんな生活に一体どれくらいの価値があるのだろう。
腕から力が抜ける。ほんの数秒前まで感じていたはずの恐怖はなく、嘘のように痛みも消えた。蹴りつけられる度に揺れる体さえ他人事のようだ。
もういいと思った。
無心してもらった薬をじっちゃんに届けられないこと。父の言いつけを守れないこと。わずかな心残りはあったが、もういい。ひどく疲れてしまった。このまま、ここで蹴り殺されるのだ。
そうはならなかった。
「やめなさい」
喧騒を貫いて、声が聞こえた。なぜ耳に届いたのかわからないくらいそれは静かな声だった。
衝撃がぴたりと止んで、突然の静寂が訪れた。誰も口を開かないし、いきり立っていたジザムたちの息遣いすら聞こえない。一体何が起こったのだろう。頭を庇っていた腕をどけて、のろのろと顔を上げる。
クリスを取り囲む男たちの向こうに見えたのは、少女だった。知らない顔だ。くたびれた外套を身に纏って、肩には大きな鞄がかかっている。長く旅をしてきて、ようやくこの村に辿り着いた。そんな様子だ。表情にも、色濃い疲労が浮き出ている。ただ、疲労によって陰ってはいても、これまでお目にかかったことがないほど整った美貌だった。リィンよりも美しい女の子をクリスは初めて見た。
そして、少女のある一点からクリスは目が離せなくなってしまった。肩を越えて流れ落ちる黒髪の中に一房。光を受けてではなく、それ自体が輝くような金髪がある。混じり物では決してない、クリスとは違う純粋な色。嘘だと思った。在り得ない。三〇年以上も前に全部、全員消えてしまったはずだ。
「大丈夫ですか?」
声をかけられて、少女と視線がぶつかっていたことにようやく気が付いた。
「体は、大丈夫ですか?」
頷くこともできない。少女に見られている。それだけのことで全身が痺れた。胸が苦しい。知らずの内に息を飲んでいたようだ。どうにかして空気を吐き出そうとするものの、肺腑の使い方がどうしても思い出せない。
少女が歩み寄ってくる。真っ直ぐにクリスを捉えて、ジザムたちには目もくれない。気圧されたのか、ジザムたちが道を譲った。少女はもう、手を伸ばせば触れられる距離にいる。それでもクリスは地に這ったまま少女を見上げているだけで精いっぱいだ。
君はだれ?
訊きたくてたまらないのに声が出ない。けれど、そんなことは訊くまでもないことなのかもしれない。だって、父さんは言っていた。彼らの全てが消えてしまったわけじゃない。この世に残っている者がいる。俺が必ず探し出して見せる。そんなこと誰も、クリスでさえ信じてはいなかったが、今は違う。もう気づいている。
彼女は、本物だ。
「あなた、クリスでしょう」
何を言われたのかわからなかった。クリス。自分の名前だ。だが、それがなぜ少女の口から出てくるのだろう。
「レグナに会いました」
レグナ。今度は父の名だ。理解した瞬間には問いかけていた。
「父さんは、どこに?」
「死にました」
互いに、擦れた声だった。
父さんが死んだ。衝撃は大きくなかったし、疑いを持つこともなかった。
きっと、そうなのだろうと思っていた。
悲しみはある。いつか父さんが戻ってきたら、また一緒に暮らす。畑を耕して、じっちゃんの稽古を受けて、昔話を聞いて、隣り合って眠って、もしかしたらこの村を出て。夢見なかったわけじゃない。
でも、きっとそうなのだろうと思っていた。
だから、悲しみも大きくはなかった。むしろ、クリス以上に少女の方が辛そうな顔をしている。どうして。彼女は、父さんとどんな関わりがあったのだろう。父さんが彼女を見つけたのだろうか。
気が付いてみれば、呼吸が元に戻っていた。萎えた足に力を込めて、なんとかクリスは立ち上がる。頭一つ分下にある少女の瞳を見据えて、訊いた。
「君は、だれ?」
「私はフィーリス・パンタシア。たぶん、世界に残った最後の魔法です。あなたを迎えに来ました」
魔法。突然姿を消した、世界の支配者。その生き残りが、目の前にいる。言葉にされても、彼女が本物であるとわかっていても、未だに現実味がない。そんな少女が、なんで。
「なんで、僕を?」
これも、本当はわかっていた。それこそが父さんの言いつけだった。
「世界に魔法を、取り戻すために」
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