食事が進まない。
黒い男の脅迫を受けてから、秋夜は自分で作った料理の数々を見ながら、そう思う。
食欲が無い訳ではないのだが、食べようとしても指が動かない。
彼の視線の外では、心配そうにアリスと血撫が顔を見合わせながらも、箸を進めている。
結局、その日の食事は秋夜が最後に食べ終わる事になった。
せめて後片付けだけでもしなければ、と思った矢先。
「秋夜くん。今日は私に洗い物させて。ね?」
血撫がやや強引に空になった食器を持って、台所へと進んでいく。
そこまでさせる訳には、とは思ったものの秋夜は何も言い出せなかった。
言葉通り洗い物をする血撫の後ろ姿を見た後、秋夜は仕方が無いのでテレビを見る事にする。
画面にはバラエティー番組が映っていたものの、賑やかしのエキストラのようには笑えない。
勉強をしに部屋に向かう気にもなれず、そのまま秋夜は血撫が洗い物を終えるまで待つ事になった。
「秋夜くん」
洗い物を終えた血撫が秋夜に近づいて呼ぶ。
振り向いてみると、少しもじもじとした血撫が立っており、そんな義理の姉の様子に疑問を浮かべた。
やがて、決心をした彼女はある提案をする。
「お風呂、一緒に入ろっか」
「へ?」
彼女の衝撃的な提案を耳にした秋夜は間抜け面にならざるを得なかった。
「先に入ってて」と言われて風呂椅子に座って待つ秋夜は落ち着きの無さを露わにする。
それもその筈、これから敬愛する血撫と裸の付き合いをする事になるのだから。
色恋に疎い秋夜であれど、どうしても緊張で早まる鼓動を抑える事が出来なかった。
そして、風呂場の引き戸が開かれる。
普段は自分でしか開け閉めをする事の無い戸の音で、秋夜は驚き体を一瞬震わせる。
背後の様子がどうなっているのか、と想像してしまったのも相まって。
「お待たせ、秋夜くん」
顔どころか耳まで赤くなった秋夜は、近づいてくる足音と共に心臓の鼓動が早まっていく。
湯船に浸かる前にのぼせてしまいそうだ、と思う程に。
「背中、流してあげる」
「あの、えっと…ありがとうございます」
背後から血撫の白い手が伸びて、シャワーヘッドを掴み取る。
それからすぐに、秋夜の背中にシャワーから出るお湯がかかった。
出来る限り無防備な姿の血撫を見てしまわないように、秋夜は目を閉じる。
「君はもう覚えていないかも知れないけど、君を此処に連れて来て間も無い頃はこうしてアリスと交代で体を洗ってあげたんだよ?」
「そんなに、自分の事が出来てなかったのですね俺…」
彼にとっての衝撃は、一緒に風呂に入る事がこれが初めてではなく、更にアリスとも一緒に入っていたという事実を告げられた事だ。
事件から間も無い時の事もあまり覚えていない秋夜は、不躾な視線を向けてたり失礼な態度を取っていたりしなかったか、今更ながら苦悩する。
裏を返せば、それを考えられる程の余裕は当時は無かったという事になるが、それを言い訳にしたくないのが今の秋夜である。
秋夜の首から下を丁寧に洗う血撫は、秋夜の頭を掻いて悶える様子が可愛らしいと思ったらしく、ころころと笑う。
「そうね。この家に来てから間も無い頃はお人形さんみたいだったもの。ご飯を食べたりおトイレしたりは一人でも出来てたけど、それ以外の事には無頓着だったわ」
「最低限しか出来てないって余計に恥ずかしいんですけど…」
「嫌がる事は無かったから手の掛からない子だったのが懐かしいわね。今では考えられないくらいに」
「も、もう勘弁してください……」
秋夜は血撫の裸を見るよりも先に、自分の過去の振る舞いへの羞恥で殺されそうになっていた。
悪気がある訳では無い。ただ彼女は思い出話を聞かせているだけなのだ。
聞けば聞くほど秋夜が悶絶するだけで。
「でも、嬉しいわ。今ではこんなに感情豊かで、元気な子になってくれて」
過去の自分を恥じるという事は、それだけの心の余裕が生まれた証左でもある。
泡立ったボディタオルで体を洗われながらも、それに気付いた秋夜の顔から羞恥は消え、彼ははっ、と驚きを露わにする。
「傷付いたまま、痩せ衰えたままの貴方を放ってはおけなかった。若くして苦しい思いばかりをして死んでいくなんて、可哀想過ぎるもの」
今の秋夜は彼女達の献身があった上で成り立っている。
その献身というのも、秋夜と偶然通りかかった酒槇姉妹が出会ったという奇跡が齎したものだ。
だからこそ、秋夜は今の自分で居られる事へのありがたみを理解出来た。
秋夜は目を閉じたまま、背後の血撫に感謝の言葉を改めて述べる事にする。
「血撫さん、今までありがとうございました」
「ふふっ、お別れの挨拶みたいね」
「そんなつもりは……。でも、何時までもお世話になる訳にはいきませんし、いつかは独り立ちしようかと思います。しかし、至らぬ所がまだまだあるのもまた事実。これからもどうかよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ、よろしく」
背中側を洗い終わり、正面側に移ろうとする血撫。
秋夜はそれを彼女の手からやや強引にボディタオルを奪い取るという形で阻止した。
「ま、前は自分で洗えますのでっ」
「そう? …まあ、男の子だものね」
色々な事に無頓着だった2年前はまだしも、今の状態で全身を他人に洗わせるのは気が引ける。
それが実の姉のように慕っている相手ならば尚更。
元から世話好きである血撫は少し残念そうにしながらも二枚目のボディタオルを取りに離れて行く。
今更かもしれないが、彼女に見られなくて良かったと自分の股を見つつ安堵する。
反応こそはしてないが、今のこの状況は色々と不味い気がして。
もう一つ出した風呂椅子に腰掛けて、お互いが背中合わせで自分の体を洗う。
「秋夜くんにはもう話していたかな。私は3年前まで研究者であったというのは」
ボディタオルで体を擦る音を微かに立てつつ、彼女が告げたのは少し意外なカミングアウト。
それ故に彼女の発言は少年の興味を惹いた。
「初耳です、そんなの」
「今は在宅中心のWebライターをやってるけど、前は研究熱心な女だったの私。研究テーマは混沌の種」
血撫は体に白い泡を纏わせながら朗らかに語る。
アリスと共に田舎にある実家から上京してきた血撫は当時は高校に上がりたてだったアリスと自分を養うべく、持ち前の知識を活かして給金の払いが良い研究職に就いたという。
混沌の種が持つ固有能力とそれに伴い変化する肉体、今となっては一般常識の一部として組み込まれている情報を深堀するべく、家に帰るのを惜しむ程に研究に没頭していたそうだ。
今のWebライターとしての中心となるブログ活動はその時に並行して行っており、開設から3ヶ月程で副業としてはそれなりの収益を得られるようになっていた。
「アリスちゃんには寂しい思いさせちゃったな。あの子はあの子でアルバイトもしてたからお互い夜遅くになるまで帰ってこれなかったけど」
接客を主な仕事内容とするアルバイトに務めていたアリスの収入もあり、毎月の支払いで困る事は無く、片や仕事に、片や趣味に没頭出来るだけの余裕もあったと言う。
しかし、そんな研究者としてもブロガーとしても順風満帆だった血撫に転機が訪れる事になってしまう。
「私自身にとっての幸せが必ずしも他者に幸福を与えるとも限らない。……あの子達と出会ってそれをこれでもかと思い知らされたわ」
「あの子達って…」
「混沌の種の中には個として過剰なまでの強さを持つ存在も現れる事がある。…未曾有の災害にすらなり得るあの子達は『災禍の寵児』と名付けられたの。混沌の種が大きく関わる事件で心や体に深い傷を負った、小学生くらいの女の子達」
出会ったのは、この異形化した人間が大多数を占める社会故の不幸に見舞われた少女達。
そして、個としては過剰なまでの力を有する事となったきっかけは彼女達がそれぞれ巻き込まれた事件だと言う。
彼女達のいずれもが本来存在する居場所を失っており、今は警察が専門機関と協力して保護し、精神、肉体の治療を行っているという。
だが、保護から2年経った今でも受けた深い傷は癒えていない。
「私の研究成果の一部が悪意ある人間に利用されて、彼女達がそうなる要因を作ってしまった。私自身は関わっていなくても、私は間接的に彼女達を傷付けてしまったのよ」
「それは……」
「秋夜くんの言いたい事は分かる。でも私は無関係だって言い切れなかった。言い切れる程、図太くなんてなれなかったの……」
この出来事の衝撃により、彼女から混沌の種の研究への熱意というものが消え失せてしまった。
許されるなら自分が携わった研究全ての永久凍結をしたかったとも彼女は語る。
だが、彼女が世に出した研究の殆どが既に混沌の種との共存社会の根幹をなす部分に組み込まれてしまっている。
個人の裁量でそんな事をすれば、社会全体の混乱を齎すのが目に見えていた。
それに、新たな『災禍の寵児』が生まれてしまうきっかけになるかもしれないと、彼女は他の研究員の弁で気付かされる事になった。
結局、研究成果をどうする事も出来ずに血撫は逃げるように研究者を辞めたという。
「辞めてから一年経たずに“縮災”なんて起きて。私は頭の中が真っ白になっちゃったわ」
秋夜と酒槇姉妹が出会うきっかけとなった大事件。
それは秋夜にも酒槇姉妹にとっても苦々しい思い出でもある。
何故ならば彼らの出会いは数千人もの犠牲の上で成立したのだから。
被害者である秋夜はともかく、『災禍の寵児』が生まれたきっかけと同じ混沌の種絡みの事件だと知らされている血撫は負い目を感じずにはいられない。
「貴方を助けたのは可哀想だと思ったからだけじゃ無い。あの子達、『災禍の寵児』と重ね合わせたからでもある」
血撫の独白を聞けば、秋夜でさえも嫌でも気付く。
『災禍の寵児』と秋夜の境遇は驚くほどに似ている。
秋夜自身、その一員に組み込まれてもおかしく無いのではないか、と考える程に。
「これが、今の私に出来る精一杯だった。…でも、不公平よね。あの子達から目を背けておきながら、君の事は側に寄り添って助けるだなんて…」
だからこそ、血撫が自身の行いに罪悪感を覚えるのも無理からぬ事だ。
一度は返答に戸惑う秋夜だったが、これまで酒槇姉妹と共に過ごした日々を思い出し、彼は意を決して口を開いた。
「…立派だと思いますよ。血撫さんも、アリス姉さんも。その判断をした事で、今の俺が居るのですから」
「…そうかしら」
「こうなるべく努力をしてきましたが、それは姉さん達の存在があってこそ、です。俺一人の力じゃこうはなれませんでした。…本当にありがとうございます」
先程よりも深々と血撫の白い背中へ頭を下げる。
今現在の彼に、お互いの姿など些細な事のようにどうでも良く。
ただ純粋に彼女へ感謝の気持ちを抱いていた。
「…やさしいのね、秋夜くんは」
血撫もまた、決心がついたらしく、泡だらけの姿で秋夜へと向き直る。
「……分かったわ。貴方がそういうなら私も割り切りましょう。貴方に相応しいお姉ちゃんになってみせるわね」
血撫もまた自信に満ちた様子を顔を上げた秋夜へ見せる。
だが、豊かな胸の持ち主がそんな事をすれば、たわわな双球は大きく揺れる訳で。
それを目の当たりにし、みるみる顔を赤くした秋夜は顔を背けるのだった。
「ち、血撫さん。刺激が強過ぎます……」
「あら、ごめんなさい。でも、秋夜くんなら許すわ。…ちょっと恥ずかしいけど」
その後、泡を洗い流した彼らは一緒に湯船に浸かる事になり。
秋夜は顔を更に赤くする事となるのだった。
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