暁斗が部屋に戻ると、夕食の支度を始めていた奏人がおかえりなさい、と言いながら迎えてくれた。思わず大きく息をつく。妹と母を駅まで送ってきた暁斗は、玄関の隅に揃えられた奏人のスニーカーを見て、高崎さんは育ちが良さそうねという乃里子の言葉を反芻する。
「ほんとにごめんなさい、早く来なければ良かった」
奏人は俯き加減になり、靴を脱いだ暁斗の前に立った。
「いいよ、良いきっかけになった……あなたの絵を観に行った後だったから、何もないところにあなたを家族に紹介するより良かったような気がする」
それは事実だった。少なくとも乃里子は奏人の才能に敬意を払っていたし、かわいい子ねぇと大森の改札に入るまでに3回は口にした。
暁斗はそのまま奏人をそっと抱く。すぐに背中に手が回ってきて、身体に巻きついた腕に力が入った。
「ごめん、要らない気を遣わせて……せっかく来てくれたのに疲れたよね」
暁斗も腕に力を入れて言った。華奢な身体から熱が伝わる。奏人はううん、と応じた。
「みんなで絵を観てくれて嬉しかった」
「現役の部員たちに囲まれたよ」
暁斗が苦笑すると、奏人は顔を上げた。
「あなたの絵がセンセーショナルでモデルが来たからみんな浮き足立ったんだって」
奏人は困った顔になり、ごめんなさいともう一度言う。
「落ち着かなかったよね」
「母と晴夏は楽しんでたよ、現役生を叱ってやらないで……あ、でも神崎さんが会場に行くなら彼女にひと言言っておいたほうがいいかも」
わかった、と言い、奏人は暁斗の胸に顔を埋めるような仕草をした。愛おしくて頭を撫でる。暁斗は奏人の黒くて柔らかな髪が好きだ。触れているだけで癒される。
「こんなことしてたら変態って泣かれるね、晴夏さんに」
「……だから変態って言うなって」
奏人は笑う。ゲイとして暁斗より長く生きている彼にとっては、さしたることではないらしい。
「晴夏さん可愛い、暁斗さんが大好きなんだ」
「長いこと人と関わる仕事をしてるくせに何言ってるんだって思うよ、不愉快な思いをさせて申し訳ない」
しかもいい歳をして幼稚な。暁斗はため息をついた。
「晴夏さんの反応は普通だよ、お母様が理解があり過ぎるくらい……晴夏さん帰るときに僕に謝ってくれた」
だからそんな風に言わないでと言う奏人は心が広い、と暁斗は思う。
何かが煮える匂いがしてきた。お互いに腕を解いて、キッチンに向かう。奏人は鍋の中身を軽く混ぜて、カレールーの袋を開ける。
「夏にエアコンの効いた部屋で辛い目のカレーって、凄く贅沢だと思うんだけど……」
暁斗は奏人の言葉に笑った。
「冬にこたつでアイスクリームみたいな?」
「そうそう、でもそれ北海道じゃ割と普通なんだけどね」
食欲をそそる香りが広がった。レトルトでないカレーなんて、本当に久しぶりだった。子どもの頃、塾や水泳教室から戻る時にこの匂いが家のほうから漂ってくると、嬉しくて駆け出した。暁斗はこうしていつも丁寧に食事を作ってくれる奏人に感謝している。それが家庭の温もりを感じさせてくれるからだ。
奏人と一緒に生きて行きたい。たまに立川の実家に2人で行って、みんなで食事をする。母は歓迎してくれるだろうし、晴夏も気のいい人間だから、すぐに慣れてくれるだろう……いや、晴夏はそろそろ結婚して出て行ってくれていないとまずいか。父は……どうだろう。乃里子は帰り際に、あなたが自分でお父さんに高崎さんとのことを話しなさいと言った。
炊飯器が炊き上がりを告げた。暁斗は蓋を開けて、しゃもじで炊きたての米を軽く混ぜる。こうして蒸らすと美味しいと、蓉子が教えてくれた。
「もうちょっと待って、……カレーならお母様と晴夏さんにも食べて貰えば良かったかな」
奏人は鍋の中をひと混ぜしてから言った。
「今度誘ってやるといいよ、うちの家はみんなカレーが好きだし」
暁斗の言葉に奏人の顔が明るくなる。家庭の温もりにあまり縁がなさそうな奏人に、そういうのを楽しんでもらいたいと思う。ただし桂山家は、やや面倒くさい傾向があるけれど。
奏人は衣替えなどと言いながら、風呂上がりにTシャツと綿のパンツという軽装になってきた。こんな格好になると奏人は本当に10代の学生のようで、もしかしたら一般の人間より歳をゆっくり取る異人種かもしれないと、大昔に読んだSF系マンガを思い出し考える。同様の格好をして冷たい麦茶を飲んでいた暁斗は、まだ肉体はそんなに緩んでいないと自負しているが、顔などの隠せないくたびれ感に、自分が中年に近づいていることを感じざるを得ない。
奏人が麦茶を飲んで涼んでいる間に、寝室にエアコンの風が入るよう、リビングと寝室を仕切る引き戸を開けておく。北海道育ちなので東京の夏には弱いのかと思いきや、奏人はこの酷暑の中でも涼しい顔をしている。さっきもカレーを食べている時、少し寒いと言うので、エアコンの設定温度を上げた。おかげで暁斗が額の汗を拭きながらカレーの辛さと闘う羽目になった。
「明日どこ行こう?」
奏人が明日、遅い時間に1人相手をするだけでほぼ一日休みだと言うので、ちょっと出かけようかという話になった。
「お母様からいただいたクッキーが買いたいな、美味しかった」
「じゃあ日本橋で買い物かな」
暁斗は声が弾むのを自覚した。こんなに暑い季節でなければ、いろいろ行きたいところはあるが、命の危険が生じるので、屋内退避になるのはやむを得ない。
ベッドに入って明かりを落とすなり、奏人が抱きついてきた。今まで我慢していたと言わんばかりの様子に、暁斗の胸も熱くなる。この愛おしさは、いつまで続くのだろうか。何年も一緒にいたら、こんな気持ちも冷めてくるのだろうか。
「暁斗さんのおうちは明るそうでいいな、羨ましい」
奏人は耳のそばで話した。あたたかい息に耳たぶをくすぐられて、ぞくぞくする。
「たぶん面倒くさい系だよ、うちは」
暁斗は奏人の頰に指で触れた。思ったより熱を持っている。こうして自分に抱かれることを喜んで、身体を火照らせ始めてくれるのが嬉しい。
「奏人さんの実家はどうなの、あなたの所作を見てると躾をきっちりする家の人だなとは思うんだけど」
「僕の家は会津の下級武士の出らしいんだけど……祖父は早くに亡くなったから覚えてないけど、祖母はお箸の持ち方や口の利き方にうるさかったよ」
へぇ、と暁斗は言った。明治の初めに、会津を追われて蝦夷地に開墾に行った人たちの子孫なのか。粘り強く誇り高い、最後の武士たちの末裔。
「父も厳しい人で……常に母は父の意向に従ってた、祖母とは折り合いが良くなくて……僕や弟の教育のことでごちゃごちゃ言われて泣かされるんだ、父はいつもそれを見て見ぬふり」
家柄が裏目に出たのか、あまり家庭の安らぎを感じなかったのだろう、奏人の声には感情が含まれず、淡々としていた。
「僕も暁斗さんのうちの子になりたい」
うん、と暁斗は同情しながら奏人の背を撫でる。少なくとも暁斗は大歓迎だ。
「上野に良い展覧会が来たらお母様と観に行く約束をしたよ」
「あの人本気にするぞ、いいの?」
「え、僕はそのつもりだよ、デートするんだ」
いつの間に。暁斗は母の、おばさんらしい若い男性に対する図々しさにやや呆れたが、奏人がいいなら、と思う。
奏人は口づけをせがんできた。断る理由もなく、ゆっくりと唇を重ねて、感触を確かめる。その柔らかさが気持ち良くて、頭の中が痺れてくる。
「……その後おかしな人が訪ねて来たりはしてない?」
唇を離すと、奏人が尋ねた。うん、と暁斗は答えて、正直なところもやもやが晴れないことを目の前の恋人に伝えた。奏人の長い指が慰めるように首の後ろを優しく撫でると、思わず肩をすくめてしまう。
「一応気をつけておいて、何を書きたいのか読めないから」
「もう家族にいろいろ話してしまったから……必死で隠すことも無い気がしてはいるんだけど」
暁斗の言葉に、奏人は困ったような顔をした。そんな表情も可愛らしい。
「その暁斗さんの鷹揚さが逆に心配」
「むしろ奏人さんを俺の大切な人だと親しい人に紹介したいと思う時がある」
暁斗は奏人の目を見て言う。彼は自慢の彼氏だ、自分にはもったいないくらいの。奏人は視線を外した。
「そう言ってくれるのは凄く嬉しい……でもそうすることで風当たりもきっと強くなるよ」
暁斗を守ろうとして奏人がそんな風に言っていることは、暁斗には分かっていた。目の前にあるきれいな形の額に、唇を押しつける。
「ずっと隠しておくなんて嫌だ」
暁斗は込み上げてくる熱いものに任せて、奏人のこめかみや白い頰に口づけを浴びせた。唇を捉えると、こじ開けて舌を入れる。奏人は驚いたようにぴくんと震えたが、優しく応じてくれた。奏人が生物学的に雄だからこんな風にしたら駄目だなんて、納得がいかない。暁斗はそんなもやもやした思いを消し去りたくて、夢中で奏人の柔らかくて熱い口の中を貪ってしまう。
「暁斗さん、落ち着いて、逃げないから」
奏人は小さな子を諭すような口調で言った。彼のTシャツの中に手を入れ始めていた暁斗は、動きを止めてひとつ息をついた。
「……やっぱりちょっと傷ついたんだね、晴夏さんに最初否定されて」
奏人の言葉を認めない訳にはいかなかった。暁斗は黙って奏人の薄い胸に頰をつける。自分のものでない鼓動が聞こえ、その規則正しいリズムに安らぐ。
「あなたを描いてあんなところに晒したのも微妙だったかなと思ってる……」
耳をつけたところから声が聞こえてきた。慈しむような動きで、髪の中に指が入ってきて、暁斗の背筋にぴりっとしたものが走った。
「いいよ、ちょっとびっくりしたし気恥ずかしかったけど」
「僕も隠しておくのが嫌なんだと自覚した」
暁斗は鼻腔をくすぐるボディソープの香りの中に、少し異なった匂いを嗅ぎとる。奏人の肌の匂いだ。好きな匂いだと思った。
「あの絵ほんとに試作なんだ、イラレ使ってあんな大きな絵を描いたの初めてだったし……お母様にはお話ししたけど暁斗さんの髪と肌の色が思うように出なくて」
「ポスターカラーで塗ったって言ってたっけ」
そう、と奏人は応じた。楽しそうな声だった。
「賞を狙う展示会なら出さないところ」
「でもモデルが言うのも何だけど素敵な絵だったよ、観に来てた人も結構足を止めてた」
入場無料で作品の多い展示会は、ある意味作品への評価がはっきりするのだと暁斗は知った。来場者は、作者が知人である場合を除いて、心惹かれた作品しかじっくりと観ないのだ。
「3枚揃ってひとつの作品だって言ってる学生さんもいた」
「連作のつもりはなかったんだけど……結果的にそうなっちゃったかな、あの並びにしてって始まる2日前に変えさせて現役の子に迷惑かけた」
そういうところにもこだわるのかと、暁斗は感心する。
「これまでずっとお世話になってきた人と……これからお世話になりたい人とを描いて、何か自分の中で区切りをつけたい気になったというか」
奏人は言った。どういう区切りなのか。ディレット・マルティールを本当に辞める気になっているのか。暁斗は尋ねようとして、やめておく。奏人を急かすような真似は良くない。でもたぶん、蛹から蝶に変わるように、彼が大きく変化しようとする瞬間に立ち会っているのだと暁斗は感じる。
「とにかく来てくれて凄く嬉しかった、暁斗さんの家族と話せたことも……あなたといると刺激的過ぎて困るんだよね」
奏人は薄暗い場所でもはっきりわかるような笑顔になった。暁斗は身体を起こして、彼をしっかりと抱き締め直す。
「俺もなんだけど、あなたといると何が起きるかわからないよ」
暁斗の言葉に奏人が小さく笑う。奏人と会って一緒に過ごした時間は、出会ってから今までを合わせても、決して長くはない。なのに奏人はとても沢山のことを暁斗に教えてくれた。沢山の大切なことを――。
奏人は暁斗の顎の下に唇を押しつけてから、少しずつ場所を変えてキスを続けた。暁斗の身体の深いところに炎が宿る。
「暁斗さん、今日は僕が先だからね、でないと手でも口でもしてあげないから」
奏人は左の耳の中に言葉をねじ込むように言った。そう、彼はいつも言霊を暁斗に吹き込んでくるのだ。暁斗を幻惑して支配する言霊を。
「……だったらそこら辺をそんなにいじらないで欲しいんだけど……」
精一杯の抵抗を試みるが、許してくれないことは分かっているし、それを期待している自分もいる。
「僕はいじりたいから頑張って」
奏人は耳の後ろに舌を這わせ始めた。期待通りだ。何だ、俺は要するに別の意味で変態ってことか。暁斗は少し笑って、奏人の背中に直接触れた。そのすべすべした肌は熱くなっていた。
「手で……したらいいの?」
暁斗が訊くと奏人はうん、と嬉しげに答えた。
「丁寧にしてくれるから好き、暁斗さんスタッフになれるよ」
「いや、奏人さん以外にはしたくない」
思わず即答すると奏人はくすくす笑った。
「じゃ僕専用で」
奏人は耳の傍で話し続ける。それだけで暁斗は宿った炎が大きくなるのを自覚する。快感の波に捉われそうになるのに抗いながら、奏人の背筋を下に向けて手の平でなぞると、抱いている身体が僅かに震えた。
「まだ何もしてない」
「だって期待値が高いんだもの」
さあ、勝負だ。自分が奏人の愛撫に壊れてしまうのが先か、奏人を自分の手で昇りつめさせるのが先か。暁斗は今日こそまず勝ちたいと思う。でないと今日は奏人からご褒美が貰えないらしいから。暗い部屋の中でも、黒い瞳がこちらを試すように覗き込んでいるのがわかる。暁斗は魔物に挑むべく手を伸ばして力を込めた。
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