病院で5種類もの薬を渡された暁斗は、ゆっくり歩いてマンションに戻り、洗濯機を稼働させた。昨日ほどではないが天気が良く、汗を吸った服やシーツを洗いたくなった。ゆっくりすることが出来ない人間だなと自嘲する。
大丈夫かと数度念押ししてから、奏人は出勤すべく病院から駅に向かった。今日は暁斗が指名する時と同じように……定時で仕事を終わらせ、一度自宅に戻ってから、ここに来てくれるらしい。何となくくすぐったい。離婚するまで一人暮らしの経験が無かった暁斗は、好意を持つ相手が自宅にやってくる前にはそわそわして、今さら掃除をしておこうと考えるものなのだと、初めて知った。
奏人が作ってくれた、梅干しが入った(暁斗は自分の冷蔵庫にそんなものがあることさえ失念していたのだが)おにぎりはすこぶる美味だった。食後に喉の痛みに耐えながら4つの錠剤と苦い粉薬を飲むと、眠気が訪れた。ベランダから入ってくる風を心地良く感じながら、リビングのソファで、新聞を開いたまままどろむ。何度かそんな平和なサイクルを繰り返し、空に日暮れの色が混じり始めると、きれいに乾いた洗濯を取り込んだ。
テレビをつけて夕方のニュースを見るともなしに見ていると、こんなにのんびりしたのは何年振りだろうかと思う。特に独りになってからは、いつも何かに追われて、何か忘れているのではないだろうかと不安になり、やみくもに動いてきた。この部屋にはそれなりに愛着はあるが、風呂に入って寝るだけのものだった。
暁斗が課長に昇進したのは2年前、蓉子がいたら喜びを分かち合えた筈なのにそれも叶わず、正直なところ、特段感慨も無かった。同期入社の連中は、関西や東北に転勤した者や、身体を壊したり家業を継ぐことを決めたりして退職した者もいて、若い頃のように定期的に集まり飲みに行くことも今やほとんど無い。そして、そうそう他人には明かせない性的指向。奏人の言うように、自分は寂しい人間だ。昨夜だって、奏人が来てくれなければ、どうなっていたことか。今朝病院で、発熱が分かってから2度も意識を失いかけたことを話すと、人がいる時で良かったねと医師に真顔で言われ、体調が戻ったら脳のCT撮影をするよう勧められたのである。
課の部下たち数人がメールをくれていた。意識が飛んで救急車を呼ぶ羽目になったと、ネタを提供しておく。まだ熱が下がらないので、明日もたぶん休むから、週末までにやるべきことをやるようにと、個々に指示する。
またうつらうつらしていると、部屋が明るくなり、人がいる気配がした。軽い足音。暁斗はソファに横になったまま、キッチンのほうに首を巡らせた。
「ごめんなさい、起こしましたね」
明るいが静かな声がした。奏人は主婦のように、スーパーの袋をキッチンのテーブルの上に置き、冷蔵庫に入れるものをそこから出していた。暁斗は不思議なものを見る思いになる。ジーンズ姿で自分の家にいる奏人は、魔物ではなく、そこら辺にいる普通の男の子だった。
「今夜これから気温が下がるそうです、桂山さん喉が痛くて食べ物を飲み込みにくいみたいだから……それもあってうどんにしようかと思って」
「うん、喉がぱんぱんに腫れてるって言われた……ご飯は食べられたよ」
「よかったです、梅干しがしみるだろうなと気になったんですけど」
奏人は食材を片付けると、暁斗のそばに来てじっと顔を見上げてきた。
「だいぶ復活してますね、ぷつぷつも少し薄くなったのかな……ひげ伸びましたね、さすがに」
今朝顔を拭いた時、発疹に触ると良くないと言って、奏人がカミソリを使うのを止めたのである。いかにも病人らしい、老けこんだ自分の顔にがっかりさせられた。ある意味奏人に一番見せたくない顔だった。
奏人は手をのばして、暁斗の頰を指先で軽く撫でた。何が可笑しいのか、くすっと笑う。
「ごはん作りますね、横になっていてください」
暁斗は素直に頷いて、奏人の荷物をリビングに運んでやった。着替えを持ってきているらしい。何処で寝させればいいんだと、暁斗は困惑する。これから冷えるのであれば、ソファで眠るのは好ましくない。奏人は昨夜もあまりよく眠っていない筈だ、これ以上負担をかけさせる訳にはいかない。ベッドはシーツを洗ったとは言え、菌の巣だろう。
「奏人さん」
暁斗は思わず流しの前に立つ奏人に声をかけた。はい? と返事があった。
「泊まるつもりなの?」
「そうですよ」
奏人は野菜を洗いながら、こちらを向かずに答えた。
「あなたが寝る場所が無い」
「ソファじゃ寒いってことですか? じゃあ一緒に寝たらいいでしょう?」
暁斗は呆れた。だからうつると何度言わせるのか。
「二人のほうが暖かいし、元気になってきたなら気持ちいいことしてあげますよ」
「そこじゃなくて……!」
いい加減に腹立たしくなり、キッチンに向かう。そうだ、奏人に確認したいことがあったのだった。思い出さないほうが良かったと思う。
「ほんとにうつるって言ってるんだ、あなたの体調が悪くなったら困る」
白菜を切る手を止めて、奏人は暁斗のほうを向く。
「たぶんうつらないと思います、僕は小学生の頃にはしかにかかっているので」
「え?」
「桂山さん、はしか初めてですよね? 予防接種も2回受けてないでしょう? 」
「……たぶん」
暁斗は言いくるめられる結果になって、仕方なくリビングに戻った。そういえば先週、ニュースでそんな話題を取り上げていた気がする。麻疹の流行の兆しがあり、重篤化する大人が出ているとか何とか言っていた。
「心配してくださるのは嬉しく思います」
奏人はキッチンから言葉を寄越した。こういう気遣いがさりげなくできるところが、彼の美点だと思う。そしてみんな、結果的に彼の意志を優先して、彼に搦め取られるのだ。
奏人はいわゆるうどんすきと、喉に優しいからとなめこおろしを用意してくれた。少し柔らかい目に炊かれた野菜とうどんは、出汁が染みて美味しい。ちょっと関西風で、と言いながら、奏人は綺麗な箸づかいでうどんを口に運んだ。
料理をきちんと作るようになったのは、留学先のルームメイトであり恋人だったドイツ人の影響だと奏人は説明した。彼が食材を探して故郷の料理を作り食べさせてくれるので、自分もやってみようと考えたという。
「アメリカの都会は結構何でも調味料や食材が手に入るんです、まあ彼が僕に作ったものを出すのは……僕を口説くためだったんですけど」
手作りのお菓子を好きな相手に食べさせたがる女子と同じ発想のようだ。どんな人だったのだろうと、暁斗は少し気になる。
「相手の胃袋を掴むのが早道だっていうのは世界共通の認識ですよ、たぶん」
「掴まれたんだ」
かも、と奏人は眉の裾を少し下げて笑う。
「これは掴もうとしてくれてるってこと?」
ゆっくりとなめこおろしを喉に通過させてから、暁斗が思い切って尋ねると、奏人はかも、ともう一度、さらりと言った。
「桂山さん何作っても喜んでくれるから面白いし」
「……犬みたいで?」
「そうそう、新発売のドッグフードを買って出した時みたい」
暁斗が口をへの字にしたのを見て、嘘ですよ、と奏人が笑う。その顔を見ていると、あまり口にしたくない話題だったが、再度思い切って尋ねた。
「昨日の昼前に品川駅で見かけた」
「そうなんですか? 身体きついのに外回りしてたんですね、そんな無理は良くないですよ」
「……今日のことをキャンセルしてすぐに……和服の人と連れ立って新幹線の改札口に行くのを見て」
暁斗が意を決した様子なのを見て、奏人は顔から笑いを消した。
「東京にいないと思ってた」
「古くからのお客様です、梨園のかたで……京都の南座での公演を控えてらっしゃるので見送りに」
奏人は暁斗が面食らうくらい、はっきりと答えた。
「いつもホームまで来て欲しいとおっしゃるんです、年に数度のことだからお付き合いすることにしています」
暁斗は奏人の顔から目線を外した。誤解に振り回されたことが恥ずかしかったが、奏人の口から他の客の話を聞くのは初めてだったので、別の意味で胸がざわめいた。
「あのかたのおかげで歌舞伎のおもしろさが分かるようになりました、公演にも招待してくださるので」
暁斗はふうん、と呟いて、うどんを口に入れる。奏人が普段相手にしているのは、自分などとは身分が違うセレブリティなのだという現実を突きつけられる。
「……妬いてくれてるんだ」
奏人の低い、笑い混じりの声がした。暁斗はそう言われて、昨日から自分の中でもやもやしているものをようやく言語化できた。嫉妬。奏人が副業で何をしているのかを承知していてもなお、自分を蝕む醜い感情。そして暁斗はその感情を抑制できなくなる。
「あなたは特別だと誰にでも言い回っているのかと思った」
暁斗の言葉に奏人は険しい目になった。
「どう思おうと勝手だけど僕はそんな器用じゃない」
奏人は抑揚の無い声で応じる。素の彼を見た気がした。本当は他人に対して厚く透明なバリアを張り巡らしている、繊細な青年。気まずさをごまかすように、暁斗は茶を入れ直すべく立ち上がった。奏人が腰を浮かせたが、大丈夫と制した。
「ごめん、悪かった」
暁斗はやかんを火にかけながら言う。奏人には何ら罪はない。奏人が小さく首を横に振るのが視界に入った。
「うん、焼きもちだと思う、あなたが俺の知らないところで……仕事以外の時間に誰と何をしてるのか気になる」
言うと何故か、胸につかえていたものが少し軽くなる気がした。奏人は箸を置いて訊いてきた。
「僕はいつも桂山さんを悩ませてるってこと?」
暁斗はかも、と笑い混じりに答えた。
「……昨日からうつるうつるってずっと言ってくれてるのにスルーしてたこととかも?」
「……分かってるなら俺の気持ちも汲んでよ」
やかんの口から湯気が立ち始めたので、急須にティーバッグを入れる。
「まあこんなやり取りが楽しかったりもするんだけど、少し変態っぽいかなぁ」
暁斗は座り直して食事を再開した。食欲は戻ってきたものの、うどんひと玉で満腹である。奏人はどんぶりを空にして、静かにお茶を飲む。所作がきれいで見惚れてしまう。
リビングで一錠ずつ暁斗が薬を飲んでいる間に、奏人はキッチンを手早く片づけた。体温計を腋の下に挟む。奏人がベランダから少し外を見て、細く開いていた窓を閉め、カーテンも閉める。
「あ、もうこんなに下がった」
体温計の37度2分という数字に、暁斗はほっとする。奏人が微笑した。
「実はあなたが昨日ここに来た時……あんまり記憶が定かじゃないんだけど、お迎えが来たんだと思ったのは覚えてて」
暁斗の右に座った奏人は、笑うかと思いきや、僅かに眉間にしわを寄せた。
「ほんとに引っ張られてたかもしれないですよ、昨夜……9時前でしたよね、お客様とお別れして家に戻ったばかりでした、何だか胸騒ぎがしてLINEしたんです」
妙な間を置いて返ってきたメッセージが中途半端だったので、奏人は慌てて電話したのだった。奏人の自宅は神楽坂だ。京浜東北線に乗るのにやや時間を取られ、焦ったと奏人は話した。
「桂山さんドアは開けてくれたんです、でもほんとに倒れてたから肝が冷えました……電話しなかったらどうなってたかと思うと」
「……心配かけたね」
暁斗が申し訳なくなって言うと、奏人は黙って肩に頭を乗せてきた。穏やかな時間が流れる。しばらくして時計を見ると、もし予定通り池袋のホテルで会っていたならば、アフターの時間を取っていたとしても、もう別れる時間になっていた。
「あ、もう休んだほうがいいですか?」
暁斗にもたれかかったまま本を読んでいた奏人が、時計を見上げて言った。
「早過ぎない?」
「桂山さんは病人ですよ、ほんとに少し冷えてきたし……」
せっかく奏人と長い時間一緒にいられるのに、もっと話したいと思う。奏人は暁斗の腕に鼻を擦り付けるような仕草をした。
「ベッドで喋りながら寝てしまうとかアリだと思うんですけど」
愛おしいという気持ちが膨らむ。左の腕をそっとのばすと、奏人はそうするのが当然のように、暁斗の胸に顔を寄せた。
「信じてもらえないかも知れないけど……こんなことプライベートでは他の誰ともしてないから」
暁斗は奏人が腕の中で呟くのをどきりとしながら聞く。背中に腕が回ってくる。
「誰ともしたいと思わないから……でも」
でも何? と暁斗は、華奢な背中を撫でながら先を促す。
「どうしてあなたとこんな風にしたいのかがよくわからない、今まででも大好きな人と触れ合いたいって気持ちはあったんだけど……こんな」
奏人はちょっと顔を上げて、真剣で熱っぽい光をはらんだ瞳を向ける。
「どうしてもこうするんだって確信に満ちた気持ち」
「奏人さん……」
「拒まれたらたぶん本気でへこみます」
暁斗は顔が熱くなってくるのを自覚した。奏人はこの間とは違い、取り乱したり自棄になったりしてはいない。また、暁斗をからかっている訳でもなさそうだった。
「俺があなたを拒める訳ないでしょう?」
暁斗は腕に力を入れて、大胆なくせに不器用で臆病な一面がある青年を自分の中に囲い込んだ。気持ちが通うというのは、こういう瞬間のことを言うのだと、暁斗もまた初めて実感していた。
「言わせてもらうと……この間別れた奥様と会ったって話……」
暁斗は腕の中の奏人がくぐもった声で話すのにうん、と相槌を打った。蓉子とこれから新しい関係が築けそうなのが嬉しくて、奏人にLINEで報告したのである。
「僕としては心穏やかでなかったんだけど」
意外な言葉にどうして、と思わず応じる。
「よりを戻したくなったのかなとちょっと思った」
暁斗は驚いた。自分がゲイだと知らしめてくれた奏人が、性的な興味を持てなかった蓉子のことを気にするなんて。
「会社で部下にも復縁の話だったらどうするって言われたけど……そんなことはもう考えられなかったよ」
「でも彼女のこと好きでしょ? 文面を見たらすぐにわかった」
「好きだよ、それは前からずっと変わらない、そもそも俺にはもったいない女性で」
暁斗は言葉を切った。腕の中の奏人が顔を上げて、挑むような目を自分に向けていたからである。
「聞きたくない」
「どうしてそんな……彼女は俺が傷つけたにもかかわらず心強い理解者になってくれる、それで……」
暁斗は奏人が唇を尖らせてにぶちん、と呟くのを聞き、やっと奏人の気持ちを理解した。そして可笑しくなった。
「それって蓉子に焼きもち……?」
「桂山さんは分かってない、あなたがようこさんにどんな気持ちを抱きながら長い時間を過ごしたのかが……僕には想像できないんだから」
なるほど、そういうことか。暁斗は笑いを引っ込めた。自分が同性愛者である自覚を持たずに生きてきた年数が長いほど、傷つけてしまう人が多くなるのだろうか。男性が好きだという自認が早かった奏人は、魅力的な女性に出会ったとしても、それが「好き」には繋がらないのだ。だが暁斗は違った。複数の女性との交際歴があるし、淡白ではあったが彼女らを「好き」なのだと思っていた。
でも違うのだ。奏人に対して抱くようになった熱いものは、未経験で異質で、やたらに心地良い反面、それに支配されてしまう恐怖を感じた。上手にコントロールできず、振り回されることに苛立つ反面、そこに潜むとてつもない甘さや温もりに包まれたくて仕方がなくなる。奏人は「それ」を擬人化した存在だった。今暁斗は「それ」が、確固として自分だけのものになろうとしているのを感じていた。
「熱がそこまで下がったならさっとお風呂に入りますか? いつもみたいに一緒に入れないけど」
奏人は急に現実に戻ったように言って、少し身体を離した。温もりがすいと逃げたのがやけに切ない。
「でもまだ暁斗さんと過ごせるからいいかな」
奏人の指先が頰に触れた。もう一度彼を胸に抱き直してキスしたい衝動に駆られたが、暁斗は自重した。
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