その夜暁斗は、神楽坂の奏人の部屋をお泊まりセット持参で訪れていた。冷え込んできたので、奏人が滅多に使わず仕舞い込んでいるという大きな土鍋を引っ張り出して、野菜と魚がたくさん入った寄せ鍋を用意してくれた。銭湯で温まってから缶ビールを開けて鍋をつつき、暁斗はそれだけですこぶる幸せだった。
「ふうん、山中さん名古屋で講演してからそっちの活動のほうが忙しいんだ」
奏人は暁斗のグラスにビールを注ぎながら、楽しげに言った。簡易テーブルはカセットコンロを置くだけで半分が埋まり、床にビールや鍋の具を入れた器を並べている状態である。
「元々話が上手な人だからね、来月大学で話すって張り切ってるよ」
コラボ企画をしている女子大から、当事者としての体験や望むことを話して欲しいと、会社と山中に正式に依頼があった。他に弁護士や大学教授も登壇するというので、山中は当初場違いだと尻込みしていたのだが、大学生たちにおだてられてOKしてしまったらしい。
「凄いね、暁斗さんも一緒に出たらいいのに」
奏人は鍋の湯気に頬を火照らせながら言うが、暁斗は首を横に振る。
「いいよ、そんな余裕無いし自分を晒す勇気も無い」
新商品の営業と、相談室の対応が忙しい。営業は想定の範囲内である。相談室は、暁斗にしてみれば想定外の相談を幾つか受けている。自分の家族――息子がいつまでも彼女を作らないのだが、桂山課長は大学生の頃はもう女性に興味が無かったのか聞きたいとか、夫がゲイ専雑誌を隠し持っていて、どう接すればいいかわからないといった相談を受けた。あまり良くない行為だと分かっているが、奏人に簡単に話してみる。
「家族でもやっぱり直接訊けないものなんだなと思って」
暁斗が溜め息混じりに言うと、奏人は割にあっさりと、訊けないと思うよ、と応じる。
「その息子さんはともかく、だんな様が同性愛者だったらどうしようと奥様としては悩んでしまうだろうね」
やはりその話を聞いた時は、蓉子の顔が脳裏をよぎった。暁斗は自分の経験から、気持ちを伝えることしかできない。私は妻が好きでしたが、やはり夫婦としてはやっていけませんでした……まずは確かめて、もしご主人がゲイだったら、これから2人の関係をどうしたいのか、考えてみるといいんじゃないでしょうか。
「だんな様がゲイだと分かっても仲良くやってる夫婦は僕も知ってる、まあお子さんも大きくなった熟年夫婦のパターンかも知れないけど……」
奏人は言った。中野の会社の社長の友人も、夫婦仲は良かったということだったので、男と女という生臭みのある関係を超えると、また何か新しい関係性が築けるのかも知れない。
くずれちゃうと言いながら、奏人は暁斗の椀にも豆腐と鱈を掬い入れる。椀を受け取りながら、暁斗は母が世話をかけたことを詫びた。
母はあれから奏人と再度同じ美術展に行き、勉強の成果を披露したと、暁斗に電話で語った。絵画の出典目録の中で聖書の物語を描いたものを奏人がピックアップしてくれたので、暁斗の聖書を探し出し、全て目を通したのだという。母の自慢げな口調が可笑しい反面、忙しい奏人の時間を使わせて申し訳なかったので、軽く母をたしなめておいた。
「えっ、全然何てことないよ、こっちも勉強になったから」
奏人は豆腐を吹いて冷ましてから言った。
「お母様が勉強熱心でびっくりした、知識や理屈にとらわれず絵を観る感性に水を差したんじゃないかなと思うんだけど」
「分かって観るとより面白いって言ってたよ、傍にいたおじいさんとおばあさんまで一緒に奏人さんの話を聞いてたんだって?」
暁斗の言葉に、奏人は豆腐を飲み下してから笑った。
「うるさくしたかなって思ってちょっと黙ったら、話しかけてきたんだ……美術館に音声ガイドって用意してるんだけど、お二人とも補聴器を使ってらしてイヤホンが使えないから、絵の内容や画家のことを自分たちにも説明して欲しいって」
まるでカルチャーセンターだ。奏人は師である西澤遥一の仕事を受け継ぐのに、適任なのかも知れなかった。
「講義の謝礼を貰わないといけないね」
「そんな……でもお母様にはケーキをご馳走して貰ったよ」
母のやりたい放題に溜め息が出る。どうして俺より頻繁に奏人さんに会ってるんだ。母は暁斗が月1回しか奏人に会えないことを知らないので、仕方がないのだが。暁斗は豆腐のあとに、出汁を吸った柔らかい白菜を頬張る。
「美味しい?」
「うん、家で鍋なんて久しぶりだ」
自分がものを食べる姿を奏人が好んでいるのは分かっている。餌付けし甲斐があることだろう。奏人に観察されながら、暁斗は思う。あんなに奏人が白菜や春菊を切っていたのに、鍋の中身はあっという間に減っていった。
「雑炊も作ろうか?」
「あ、食べたい」
遠慮なく答えてしまう。ねぎが足りないようなので、所望した責任を取って、奏人が空になった鍋の出汁を漉している間に、ねぎを刻んだ。無心に包丁を動かしたので、そこそこ細かく刻めて、暁斗は一人で満足した。
ふわりと卵の混じった雑炊は本当に美味だった。一人用の土鍋も売っていると奏人が教えてくれたので、手に入れて家で作ってみようと暁斗は思った。
「鍋は沢山野菜が摂れるからいいよ、一人だとあっという間に具材が煮えて食べるのに焦っちゃうけれどね」
冬になるとしょっちゅう鍋なのだと奏人は言うが、小さな疑問があった。
「一人鍋って寂しくならない?」
奏人は暁斗の問いに少し目を見開き、湯呑みをテーブルに置いて手を伸ばした。そして暁斗の頬に指先で触れた。
「暁斗さんは寂しがりなんだね、お母様もそう話してたけど……」
「……そんなに自覚は無いんだけどな」
「結論を言えば、慣れるかな?」
奏人の目は優しい。きっと外国へ行った後のことを、彼も考えているのだろうと思ったが、暁斗は口に出さないことにする。
小さなキッチンで食事の片づけを奏人と一緒にしている間に、会社のメールアドレスに受信があったようだった。2台のスマートフォンを持つ暁斗を見て、さすが大企業の課長さんだねなどと奏人は言うが、社畜であるとともに、自分がワーカホリックであることを、暁斗は先日の蒲田の町工場の社長との会話で自認した。週末くらい、会社のスマートフォンを手放せばいいのだから。
しかしこの夜は、会社のアドレスをすぐに確認できて良かったと思った。メールの差出人は佐々木啓子で、PDFファイルが添付されていた。佐々木は無沙汰を詫び、あの日世話になったことの礼を丁寧に書いていた。そして、彼女を脅迫していた記者の仲間のチンピラ達が別件逮捕されたので、ようやく自宅に戻ることができたと綴っていた。
「奏人さん、佐々木さんから彼女の書いた改竄される前の記事の原稿が来た」
佐々木は陽の目を見ることの無い記事になってしまったが、是非一人でも多くの人に読んで貰いたいので、文章の扱いを暁斗に任せると書いていた。もし転載するのであれば、何処に使ったかだけを事後に一報してくれれば良いなどと、随分信用してくれている様子である。
「プリントアウトしようか、僕のパソコンのアドレスに転送してくれる?」
奏人はぱたぱたとリビングにやってきてカーペットに直に座り、言った。
「これ会社のアドレスだから総務にBCCしないといけないんだ、奏人さんの会社のアドレスくれないか? ここから見られる?」
「あ、暁斗さんから会社のアドレスにはメール貰ったこと無かったね、そう言えば……大丈夫、すぐメールチェックできるよ」
奏人は暁斗に名刺を渡し、デスクトップのパソコンを立ち上げた。暁斗の会社では、私用メール防止のために、社外へのメールを総務にブラインドカーボンコピーすることになっている。自分のプライベートアドレスに送り直すのも面倒なので、ビジネス文書のふりをして奏人の会社のアドレスに転送することにする。
暁斗は「情報センター 高崎奏人様」と書き出し、先日の記事の件云々と書いて奏人に佐々木のメールを転送した。総務も全ての外部メールをチェックしている訳ではないだろうが、会社のルールには最低限従っておくのが肝要である。
「えっ、パスワードかけてるの? しかも暁斗さんの慇懃な添え文が面白いんだけど」
奏人は楽しげに笑い、キーボードを軽やかに叩いた。暁斗が添付ファイル開封のためのパスワードを総務へのBCC抜きで送ると同時に、奏人から馬鹿丁寧な返信が来て、暁斗も思わず笑う。
「割とデータ重いね……6ページもあるんだ」
奏人は言いながら、ファイルを開いて印刷してくれた。プリンターがカタカタと音を立てて、次々と紙を吐き出していく。
佐々木のファイルは、記事というよりはレポートに近いようだった。写真も数枚入っている。彼女は本気で、記事を良いものにしたくて、西澤遥一について調べたのだろう。暁斗は奏人と二人して、しばし無言で紙の束に目を通す。暁斗が半分ほど読んだところで、奏人が顔を上げてひとつ息をついた。活字中毒の彼は、読むのも早い。
「……これは女性週刊誌じゃ載せてくれないね」
暁斗が読み終わるのを待ち、奏人が言った。口許には微笑が浮かんでいる。学生時代に退官直前の西澤のゼミに所属し現在サラリーマンとして働く国立大学卒の男性、カルチャーセンターで10年間西澤の講座で学んだ高齢者たち、西澤が行きつけていた世田谷の喫茶店の店主など、敢えて学者を取材先から外したことで、より素顔に近い西澤の姿が浮かぶよう工夫された文章である。
「先生、結局取材受けてるんだから……」
奏人は、ちらっと自分のことが出ている部分は、西澤の家に訪問診療に来ていた内科医の話だと言った。曰く、西澤は体調が良くなくても自分たちに八つ当たりするようなことは一切無く、いつも身なりを整えて迎えてくれ、恐ろしく思えるほどの精神力で病と闘った。自宅で生を終えたいという彼の願いを叶えてやれなかったのは心残りだ。入院の前々日まで伺い、支度を手伝った。私と看護師と、彼が最後の弟子であり恋人だと話していた、礼儀正しく細やかな気配りをする美しい若者とで……。
「もしかしたら佐々木さん、八王子に逃げてから再取材したんじゃないかな……あまりに内容が濃くないか?」
「だから先生も話す気になったのかも知れない、一度連絡してみようかな」
西澤が同性愛者であったことにはっきり言及していなかったが、様々なエピソードを読むとそう解るよう構成されていた。同性を愛する気持ちが分からない、避けて通れないから取材するのだと佐々木は話したが、彼女の中でそこに拘らなくてもいい、何か腑に落ちる出来事があったのだろうか。
「西澤先生の経歴にちょっと不正確な部分があるけど……面白いね、それを直したら……」
奏人は言葉を切り、少し考える。
「来年の逝去1年に合わせて発行できるように、西澤先生の追悼本を編集してるんだ、僕のゼミの先生が」
奏人はいつもとは違った目の輝きを見せながら話した。
「それに掲載できれば……沢山の人に読んでもらえる」
「でも学者の追悼本らしくなくない?」
暁斗は言ったが、奏人はだからいいんだよ、と笑う。
「学者や教え子がよいしょする文章ばかり集めた本なんて、たぶん先生が天国でがっかりなさるから……」
もちろん奏人も文章を依頼されているのだが、奏人は立ち位置が複雑なので、内容に迷って、まだ手をつけていないらしい。
「蓉子さんの旅行会社の企画担当さんなんかいいよね、先生が監修したテーマ旅行の話、僕が聞きたいよ」
楽しげに話す奏人を見て、彼の西澤への思いを暁斗は感じた。追悼本なんて出す者の都合で作ればいいのに、先生に相応しいものを、あるいはもし本人が目を通すならばと、やはり考えるのだ。
「佐々木さんの文章の中で……奏人さんにとって目新しい情報はある?」
暁斗は訊いてみた。奏人はうーん、と可愛らしく小首を傾げる。
「ゼミ生の男の人はわからないけど、後は大体想定の範囲内というか……でも直接の声だから力があるね、やっぱり」
女性週刊誌向きではないようだが、やはり佐々木がフリーで食べているだけのことはあり、洗練されたレポートである。自分たちだけが読んでお蔵入りさせるのは、もったいなかった。
「ありがとう暁斗さん、その本のことが実は重かったんだけど、楽しみになって来た」
「それは良かった」
自分が礼を言われることでもないと思ったが、奏人が晴れやかな顔を見せてくれたので良しとする。裁判を含めて、佐々木の動向が気になるので、明日丁寧に返信をしようと思った。
「彼女に僕から連絡してもいいか、一応確認してもらってもいい?」
本気で西澤の追悼本にこれを載せるつもりなのか。その大胆な計画に驚きつつ、暁斗は頷く。
「うちの先生に打診しておくね、ちょっと待って」
奏人は軽い音を立てながら、メールを打ち始める。その滑らかなブラインドタッチと真剣な表情を斜め後ろから見つめながら、暁斗はやはり、奏人は自分にはもったいないと思ってしまうのだった。
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