「あきちゃんもこういうお役目を任せて貰えるようになったのね、素敵」
母の乃里子は後ろの席で社内報を開きながら、言った。父の寿博は助手席で、それは何だ、おまえが男が好きな子だから回って来たのか、とやや遠慮がちに言う。
「その話を貰った時はまだ誰も会社の人には言ってなかったよ」
暁斗はのんびりと車を走らせながら答える。最近社用車をほとんど触らなくなったので、やや緊張気味でハンドルを握っていたが、お陰で話題に意識を振り回されなくて良かったかも知れなかった。
「たまたまだったの?」
暁斗は少し考え、いや、とかぶりを振った。
「先輩に……その山中さんって人には疑われてた」
あら、山中さん、と乃里子は懐かしそうに言う。蓉子との結婚式と披露宴で、母の印象に残った暁斗の来賓の一人だったらしい。
「山中さんもゲイなんだけど」
父と母は同時にえっ、と声を発する。
「……おまえの会社には多いのか?」
暁斗は寿博の言葉に小さく笑う。
「それを言うなら何処にでも潜伏してる人が多いんだよ」
乃里子はそうかもねぇ、とあっさり言ったが、寿博はうーん、と唸った。暁斗はハンドルを左に切って、少し細くて登っている道に入った。目指す霊園はもう目と鼻の先だ。ほんとうに偶然だったが、そこには父方と母方の双方の代々の墓がある。そんなこともあり、桂山家はこまめに墓参りに行く家である(蓉子と結婚するまで、どの家もそうだと暁斗は思っていたが)。
暁斗は5年ぶりの墓参りで、一人になって以来そんな気に全然なれなかったが、まあ少し祖父母に報告したいことができたという気持ちだったかも知れない。古い家の長男である奏人は、週末実家に戻り墓参りに行くと伝えると、良いことですねと肯定的な返事をくれた。そんなちょっとした価値観の近さが嬉しい。きっといつか一緒に来てくれるだろうと考えると、それも十分楽しい妄想だった。
霊園の駐車場は彼岸とあってそこそこ埋まっていたが、何とか空きを見つけて車を滑り込ませる。営業の時に狭いコインパーキングに停めることを思えば、霊園の駐車場は使いやすかった。暁斗は乃里子に命じられるままバケツに水を汲み、まず父方の墓に向かう。薄曇りだったが、暑くもなく寒くもない過ごしやすい気温だった。
「そういや晴夏は休みを取らなかったのか」
墓の周りの小さな雑草をむしりながら寿博が乃里子に訊いた。
「俺の顔を見たくないからかな」
暁斗が菊の花の束を、母方の墓の分も合わせ4つに分けながら自虐的に言うと、乃里子は違うわよ、と笑う。
「今日明日と休み希望がすごく被ったんですって、ベテラン社員としては休めないのよ」
「わしはシフトの仕事をしたことがないから分からんが、ベテラン社員だから休めないというのも妙な話だな」
寿博が自分に振っているようなので、暁斗は答える。暁斗は今はシフトの仕事ではないが、学生の頃は細かいシフト表に従いアルバイトに勤しんだものである。
「晴夏のとこはほら、パートタイマーも沢山いるから……家庭持ってる人は週末いろいろあるんだよ」
「みんな原則土日は出勤するけど用事がある週末もあるでしょうしね」
星斗が就職するまでパートタイマーとして働いていた乃里子の言葉には説得力がある。
墓の周りがきれいになると、花を活け、線香をつける。薄い煙が上がり、3人並んで手を合わせると、乃里子が呟くように言った。
「お義父さん、暁斗に彼氏ができましたよ、今度こそ幸せに……」
暁斗は思わず目を開けて、やめて、と母に言った。
「おじいちゃん心配するだろ」
「どうしてよ、きっと喜んでくれるわよ」
寿博は肯定も否定もせずに笑った。思えば母は父の両親と、本当に仲良くやっていた。祖母が先に逝き、祖父と暮らす話が出た時も、確か積極的にそうした方がいいと言わなかったか。祖父が大好きだった暁斗は、祖父が家にやって来るのを心待ちにしていたのだが、祖父は祖母との思い出の多い家を離れたがらなかった。暁斗は星斗と祖父の家に行くのが、それはそれで楽しみの一つだったので、子供心にまあいいやと思っていた。
「親父が死んでもう25年経つのか」
寿博はしみじみと言う。空を見上げると、大きな鳥が2羽、ゆっくりと暁斗たちの頭上を旋回してから飛び去って行った。
暁斗は長男だからしっかりしないとな、と祖父はよく言った。星斗や晴夏が泣いても、いつも我慢した。暁斗は祖父に可愛がられたし、期待されていることも察していた。ただ長男らしく、結婚して子どもを持って、家を守るということはもうできない。もし祖父がそういうことを暁斗に期待していたとしたらと思うと、やるせなかった。乃里子の言うように、今暁斗が本当に愛する人を見つけたことを、祖父が喜んでくれていたらいいなと思った。
遅番だったということで、21時過ぎて帰宅した晴夏は、暁斗がリビングでテレビを見ているのを見て、わっ、と言った。
「何だよ、何で驚くんだ」
「あきにい帰ったと思ってたから」
「変態の姿なんか見たくなかっただろうな」
晴夏は暁斗を横目で見て、まあね、と応じる。寿博が二人ともやめなさいと、大人気ない30代の子どもたちをたしなめた。
「はるちゃんはさっさとご飯食べなさい」
乃里子がキッチンから晴夏に呼びかける。
「あきちゃんとお父さんはビールでも飲む?」
「あ、取りに行く」
父がその気のようなので、暁斗は立ち上がりダイニングに向かう。晴夏は母から味噌汁を手渡され、いただきますと声を上げた。この調子じゃなかなか嫁には行けないな、と暁斗は思いながら、缶ビールを2本冷蔵庫から出す。寿博と軽く乾杯して冷えたビールを味わっていると、晴夏まで缶ビールを用意していた。
「あら、明日も出勤なのにいいの?」
「だって人少ないのに客多くて疲れたんだもん、飲まなきゃやってらんない」
寿博が晴夏をちらっと見て、軽く溜め息をついた。
「女は結婚しないとおばさんになる前におじさん化するのかなぁ」
暁斗はちょっと笑ってしまう。晴夏なんて可愛いものだ、会社にはおじさん顔負けのおじさん行動をする女子社員がごろごろしている。
「いや、結婚してもおじさん化してる人もいるかも」
総務課長の大平も酒の飲み方はおじさんである。
「お兄ちゃん、うちなんか来ないで奏人さん家行ったらいいじゃん」
晴夏は食事を終えて、ビールの缶片手にリビングにやって来た。どうも言葉に棘を感じるが、スルーすることにする。
「奏人さんは週末も忙しいんだ」
「副業で?」
「少なくとも土曜は」
「お兄ちゃんそれ平気なの? あんな副業ずっとさせておくの? お金が無い訳でもないでしょうに」
説明するのが面倒くさいし、奏人の気持ちを理解してもらえるとも思わないので、暁斗はそうだなぁ、と適当に相槌を打つ。
「暁斗、その彼は自分の風俗業に対してどう思っているんだ、続けないといけないのか」
寿博に訊かれると、スルーする訳にはいかなかった。
「年内で辞めるんだよ、今贔屓にしてくれるお客さんに挨拶するために仕事増やしてて……俺もまあ楽しくはないけど元々俺が辞めて欲しいって口走ったのもあるし、彼ならそう考えるのもわかるから、気の済むようにしてくれたらいいと思ってる」
寿博はふうん、と言って少し考えた。
「行きつけてたスナックのママが店閉める前に常連客に連絡よこして頑張ってたみたいな感じかな」
「あ、そんなことあったんだ」
「水商売の人は義理堅いからね」
「俺たちだって転勤や定年になったら得意先に挨拶しに行くもんな」
晴夏は男2人の話を黙って聞きながら、ビールをちびちび飲んでいた。寿博がもう少し飲みたいと言ったので、暁斗は1本を分けることにする。キッチンで洗い物をする乃里子に、仕事を増やして申し訳ないと思いつつ、グラスを棚から出した。
「食洗機欲しくない?」
「あら何、急に」
母が振り返る。暁斗は彼女に、部下が母親に食洗機を買ってやったらとても喜ばれたという話をした。水の流れる音が止まる。
「外付けできるの?」
「できるんだって」
「前向きに検討しようかしら……あ、チョコレートあるからアテにどう?」
「拭くの後で手伝うから一緒に食べようよ」
暁斗は乃里子に言い、個包装の小さなチョコレートが詰まった袋を遠慮なく持って行った。それを見て晴夏が喜ぶ。2つのグラスの半分までビールを注ぎ、寿博に手渡した。
「星斗たちにも報告すべきかな」
「記事の話はいいんじゃないか、あちらまでまあ……影響は無いだろう」
乃里子はレンジでホットミルクを作り、いい匂いをさせながらリビングにやって来て、晴夏と一緒にチョコレートに手を伸ばす。ゴールデンウィークに熱海で騒いだことをふと思い出した。あの頃とも、随分暁斗を取り巻く状況は変化したと思う。
「あきちゃん、奏人さんに時間があるなら上野に付き合ってって伝えて、今日から西洋美術館で始まったやつ観たいわ」
「マジなの、お母さん……」
暁斗より先に晴夏が反応する。暁斗は苦笑しながら母に確認した。
「母さんのメアドを奏人さんに教えてもいいかな、2人で段取りしろよ」
寿博は何事かという顔をしている。乃里子はようやくそれに気づいた。
「あきちゃんの彼氏に芸術鑑賞に付き合ってもらうのよ、あなたやあきちゃんはそんなの興味無いし晴夏は日曜休みじゃないから」
俺が奏人さんと会う時間を奪う気か、と言いたい気分だが、黙っておいた。
「もう何か、あのきれいな顔の得体の知れないおにいさんが我が家にどんどん侵食してくる感じ……」
晴夏は酔ってきたのか、遂に本音を吐き始めた。乃里子がマグカップをテーブルに置き、目を険しくする。
「得体の知れないって何なの、お兄ちゃんの大事なパートナーでしょ」
「……まあ確かに得体の知れない感はあるかな」
暁斗は晴夏の言葉に腹が立ちながらも、上手いこと言うなと感心してしまった。
「何だ、暁斗は得体の知れない子に騙されてるのか」
寿博は笑いながら言い、暁斗も笑ったが、晴夏と乃里子はそれぞれの気持ちから彼に厳しい目を向けた。
「本当にそうだったらお父さんどうするのよ!」
「奏人さんはあまりその辺には転がってなさそうだけれど普通の子よ、会ってもない人に何て言い方」
寿博は助けを求めるように暁斗を見た。暁斗は溜め息をひとつつく。
「奏人さんが俺を騙して何のメリットがあるんだ、絶対俺より稼いでるし、俺なんかより頭いいし何でもできるし」
「……だから得体が知れないのよ」
「奏人さんが男だからって理由なら俺はおまえの言い分を一切聞かない」
「自分たちが変態なのを美化しないでよ」
晴夏は疲れた後にビールを飲んで、やはり酔っているようだった。言うことが少しずつ支離滅裂になってきた。
「友達にいっつもお兄ちゃんの自慢をしてきた私の立場にもなってよ、私今度高校時代の友達にお兄ちゃん元気? って聞かれたら何て答えたらいいのよ、男の恋人ができてラブラブよって言ったらいいの?」
父ははぁ? と呆れたように言い、母はそう教えてあげなさいよ、としれっと応じた。
「てか元気にしてるよだけじゃ駄目な訳?」
暁斗も思わず言った。乃里子が半笑いで暁斗に言う。
「晴夏のお友達にあなたのファンの子がいるの、えっと……やっちゃんとともちゃん」
暁斗は驚きつつも、母の言う2人の女性の顔をぼんやりと思い出していた。最後に彼女らがこの家に揃って遊びにきたのは、確か晴夏が大学の3回生の頃だ。みんな違う大学に通っているのに、仲が良いのだなと思ったのを覚えている。
「2人とも確か結婚したよな、やっちゃんは男の子が産まれたって……」
「やっちゃんは2人目ができたわよ、ともちゃんも不妊治療して女の子を産んだわ」
晴夏の返事に、へえ、良かったじゃないか、と暁斗は単純に彼女らのめでたい話題に笑顔になったが、晴夏にはそれが癇に障ったらしく、鼻の上に皺をきゅっと寄せた。
「私は変態の兄がいたら結婚もできないわよ!」
「晴夏、いい加減にしろっ!」
晴夏の暴言よりも寿博の怒声のほうに暁斗は驚いた。乃里子はあ然とし、晴夏は唇を噛む。
「おまえが結婚できないのはお前自身のそういう勝手な考えのせいだろう、暁斗に何を求めてるんだ! そうやって今まで付き合ってきた男たちにも理想を押し付けて逃げられてきたんだろうが!」
寿博もかなりの暴言を吐いた。思わず暁斗は父の腕を引き、乃里子もお父さん、とたしなめる声を上げたが、晴夏はビールの缶をテーブルに叩きつけて叫んだ。
「何でお父さんもお母さんもお兄ちゃんの肩ばっかり持つのよ!」
「馬鹿かおまえは、肩を持つとか持たないとかの話じゃないだろう! 暁斗が男しか好きになれないと最初聞いて父さんだってショックだった、でも暁斗のせいじゃないし一番悩んだのは蓉子さんと一度結婚までしていた暁斗なんだぞ、もしおまえが暁斗の立場だったらどうなんだ、考えてみろ!」
晴夏は顔を歪め、わっと泣き出した。暁斗は習慣のように――妹が泣くと慰めるのは小さい頃から彼の役目だった――彼女の腕に触れようとしたが、その前に彼女は立ち上がり、逃げるように2階の自分の部屋にばたばたと行ってしまった。
「父さん、言い過ぎだよ」
暁斗は父にぽつりと言った。母も苦笑している。
「おまえが晴夏を甘やかすから、いつまでも晴夏がおまえに寄り掛かって結婚相手を見つけられない面はあるぞ」
「えっ、俺のせい?」
寿博の言葉に暁斗は心底驚く。いやまあ、と寿博は困惑したように言ったが、乃里子が後を引き取った。
「晴夏はあきちゃんにいつまでも自分を見守ってくれる理想のお兄ちゃんでいて欲しいのよ、蓉子さんに対しても最初はそうだったから、奏人さんに焼きもち焼いてるんじゃないかしら」
「この歳になってそれは無いよ……」
「まあ私たちも晴夏を甘やかしたものね、あなた」
乃里子は寿博に言ったが、寿博はそうか? と肯定したくない様子である。
「何にしてもあいつへそ曲げたら大変じゃないか、どうするんだよ」
「放っておけ、これ以上暁斗を変態呼ばわりすることはまかりならん」
「……父さんの気持ちはめちゃくちゃ嬉しいんだけど……」
暁斗が父の顔を見て言うと、父は照れ臭そうに笑った。
「母さんから暁斗の話を聞いてちょっとだけ勉強した、それをとある友達に話すとそいつの甥っ子が……トランスジェンダーっていうのか、身体は男だけど心は女で、女として生きたいと言い出して一族郎党大騒ぎしてるって教えてくれた」
へぇ、と暁斗は驚きの声を上げる。
「おまえや奏人さんはそれではないのか」
「うん、違う」
相談室でもしかするとトランスジェンダーに接する機会も出てくるのか、と暁斗は考えた。
「お友達は戸惑っただろうね」
「そうだな、わしに思わず話してしまったという感じだったから、気持ちの負担も大きかったんだろう」
寿博とて暁斗のことは気掛かりだろうと思う。性的少数者だというだけで、身内に心理的負担をかけてしまう現実が重かった。
「ごめん、父さんと母さんがもうリタイアしてて……会社で俺のことで嫌な思いをするようなことにならなかったのは……無責任な言い方だけど良かったと思う」
「あきちゃんはほんとに良い子で来たから初めてびっくりさせられたわねぇ」
母の言葉に恐縮する。暁斗としては、星斗や近所の子たちと結構シビアないたずらもしたし、クラスの子と派手に喧嘩して母を学校まで来させたこともあったので、決して良い子だったつもりは無いのだが。
「でもねお父さん、奏人さんはほんとに素敵な子なのよ、あきちゃんのことをずっと気にしてくれてるような……」
乃里子は暁斗のマンションで奏人と鉢合わせした日、暁斗が自分と奏人との関係をごまかすために言葉を募ったり、機嫌を損ねた晴夏を宥めようとしたりしている時に、奏人が暁斗を見守るような様子だったことが心に残ったらしかった。いつも弟や妹を見守り導く立場、つまり長兄の立場に従い長兄らしく振る舞い続けてきた暁斗の心安らげる場所に、このかなり年下の華奢な青年が、きっとなってくれると思えたという。
「奏人さんも長男だからね」
暁斗はやや照れ隠しをしながら言った。
「どういうお家の人なのか聞いたことあるのか?」
釣書を確認するような寿博の口調に可笑しみを感じつつ、暁斗は答える。
「会津の武士の末裔らしいよ、北海道に開拓に来た……でもあまり家族は仲良くないような印象を受けるんだ、お父さんは彼が大学生の頃に亡くなってる」
そう、と寿博は呟いた。乃里子も言葉にならない様子である。暁斗さんのうちの子になりたいと奏人は言ったが、あれは決して冗談ではなかった。
「奏人さんはあの日最初困ったみたいだけど楽しかったようだった、みんなで絵を観に行ったことは何度も礼を言ってたし……」
「上野で会ったらうちに遊びに来るよう誘っておくわね、あなたの部屋で一緒に寝られるよう片付けておくわ」
乃里子は飛躍して楽しみを増やしていたが、問題はあの頑固な妹である。人の気持ちの動きに敏感な奏人が、小姑に気に入られていないことを察さない筈がない。
「さてさて、食器を片付けたら姫君のご機嫌を取りに行こうかな」
暁斗が立ち上がると、乃里子も自分のマグカップとテーブルに散らばる空き缶を片付け始めた。
「放っておいたらいいのよ、あきちゃんが悪いんじゃないんだから」
「でもまあ俺のせいではあるからな……てかさっき父さんの言ってたこと本当なの?」
暁斗は皿を拭きながら母に尋ねる。彼女は暁斗が空けた水切り籠のスペースに、洗ったグラスを入れながら答えた。
「あなたが結婚してから一昨年まで……少なくとも2人の男性の話を晴夏から聞いてるわよ、どっちもまあ私からしたら些細なことで気に入らなくなったみたいなんだけど……」
乃里子は微苦笑しながら少し声を落とした。
「何だかね、片方の人には別れる気も無いのに失望したなんてキツいこと言って、ついていけないって逆ギレされて振られたみたいなの、お父さんの言ってたのはそれ」
「微妙に拗らせてるなぁ」
乃里子は自分も布巾を手に取り、鍋を拭き始めた。
「家族離れできてないのね、割とお父さんのことも好きだから、相手にあなたやお父さんみたいな要素を求めてるんだわ」
「甘えたいのか、じゃあ結構年上の人がいいかも知れないな、でもぐずぐずしてるとおじいさんと結婚しなきゃいけなくなるぞ」
結婚だけが女の幸せだとは思わないけどね、と乃里子は笑った。まあな、と暁斗は応じて、食器を拭く手を動かし続けた。2人で作業すると片付けは早く済んで、暁斗はやたらに乃里子から感謝された。逆に申し訳なく思った。
2階へ向かうと、晴夏は意外にも自分の部屋の扉を開けっ放しにしていた。電気もついていたので、暁斗はそっと中を覗く。彼女はベッドにうつ伏せて寝ていた。
「晴夏、起きてるのか」
曲がりなりにも女性の部屋なので、その場で呼びかける。晴夏は気だるげに暁斗のほうに首を動かして、起きているアピールをした。入るなとも言われないので部屋に入り、彼女が学生時代から使っている、学習机の椅子を引く。
「済まないな、帰ればよかった」
結局のところ妹に甘い暁斗は、ベッドの傍に椅子を動かして座るなりそう口にした。
「いいのよ、ここはお兄ちゃんの実家なんだし……私が早く出ていかなきゃいけないの」
「出て行く気はないんだろ?」
「出て行きたいわよ、お父さんもお母さんも元気なあいだに結婚してね……それで2人の介護はお兄ちゃんと奏人さんに任せる」
そんな計画立ててるのか、と暁斗は呟き苦笑した。
「得体の知れない奏人さんに面倒見させていいのか」
「いいわよ、上手にしてくれそうだし」
投げやりな口調で晴夏は話す。
「真面目な話、結婚したいのか」
暁斗は訊く。彼女が本気なら、暁斗が多少はお相手探しの役に立てる筈である。会社には年齢的にも彼女に釣り合う独身社員がごろごろしているし、暁斗の会社の年収なら、晴夏が仕事を続ければ、複数の子どもを四年制大学に通わせるに十分な余裕が出るだろう。
「今年に入って後輩の結婚式に呼ばれ始めてさ、来月も1件は同級生で1件は2年下の後輩だよ、焦るし微妙」
返事になっていなかった。まだ酒が抜けてはいないらしい。暁斗は仕事上、こういう場面には慣れている。
「みんなが結婚するからしたいの?」
「本当の本当はどっちでもいい」
「何だ、別にしたくないのか」
「だってお兄ちゃんだけでなく……うまいこといかなくなった人割といるから、結婚なんてそんないいもんでもないんでしょ、たぶん」
誰かと一緒に暮らすというのは、忍耐力の必要な作業である。それは相手をどれだけ好きであっても、確実にかかるストレスだ。
「互いに擦り合わせるのが結婚だからな、それも人生勉強だけど面倒ならやめとけ」
「でも奏人さんとそのうち一緒に暮らすつもりなんでしょ? 男同士じゃ法的に結婚は無いとしても」
そのつもりでいるが、一緒に暮らし始めたらきっと意見のぶつかり合いはあるだろうと、暁斗は経験上覚悟している。まあ、それも一興なのだ。
「うん、こないだあっちもOKしてくれた」
「何なのよ、ラブラブとかマジムカつくわ」
「妬むなよ、そういうのは幸福の女神が逃げていくんだぞ」
「妬ましいわよ、お兄ちゃんも蓉子ねえさんも別れたのついこないだなのに、もう新しい人見つけて……しかもお兄ちゃんは何、男で風俗やってる人で出会って1年も経ってないのに一緒に暮らす段取りとか」
離婚して5年がついこの間だとは思えなかったが、晴夏が置いてきぼり感のようなものを抱いているのは伝わってきた。
「妬ましいのを優先するかどっちでもいいのを優先するか考えろ、決めたら周りの雑音に耳を貸すな」
暁斗が真面目に言うと、晴夏はベッドから身体を起こした。
「女が結婚と仕事を天秤にかける時代じゃないし、おまえの会社は定年まで女が働けるんだから、結婚がオプションでもいいだろう」
「一生独りでガツガツ働くなんて何か寂しい女と思われそうで嫌」
晴夏は俯き加減になり、呟くように言った。足先を床の先に滑らせている。
「だから……世間体とか気にするからモヤモヤするんだろうが、それでストレス溜めてるんだろ」
暁斗は妹にこんな言い方をするのは初めてだった。最近彼女にきつく当たっているような気がしてならないのだが、裏を返せばそれは、如何に暁斗が今まで彼女を甘やかしてきたかという証拠でもあった。
「男とデキてるお兄ちゃんには人目を気にする気持ちはわかんないわよ」
「うん、さっぱりわからない、ただ兄に男のパートナーがいるのがキモいとか言われておまえが結婚を逃す可能性は否定できないから……謝っとく」
お兄ちゃん馬鹿じゃないの、と晴夏は唇を歪めた。
「そんなこと言う男、こっちから願い下げよ……そんな奴絶対他のことでもごちゃごちゃ言うもん」
「あ、そう……おまえは言わないか、相手のきょうだいに同性愛者がもしいたとしても」
晴夏は少し考え、言わない、と答えた。
「だって基本的に関係無いじゃん」
ならどうして自分を変態呼ばわりするのだろうと思いつつ、暁斗はじゃあいい、と言った。
「ごめんね、お兄ちゃん」
晴夏は暁斗と目を合わせずに言った。
「この間奏人さんが私の知ってるお兄ちゃんと今のお兄ちゃんに何の違いも無いって言ってたでしょ、その通りなの……あの人お兄ちゃんのこと良く分かってるのよね、それがムカつくし得体が知れないし……それでそんな関係を築ける相手が自分には一生見つからないかもって思うと泣きたくなる」
晴夏は自分の思いをきちんと整理していた。暁斗は少しほっとする。
「そういう気持ちを受け止めてくれる人はきっといる、焦らなくても大丈夫だ」
晴夏は晴夏で寂しいのだ。自分の周りが変化して行くのに、自分だけ何も変わらないような気がすることが。そしてふと気づく。暁斗が晴夏の年齢の頃は、破綻を迎えていたが家庭を持っており、同世代の中では早い方だったし、仕事はいよいよこれから、という感じだったと思う。しかし晴夏は――女性は違う。同世代の友人知人が結婚すればまだ結婚しないのかと言われ、男性のように出世を期待されることも少なく、心許なくなる年齢なのだ。そして自分もまた、結婚しないのかと、今まさに晴夏に言ってしまった。
もちろんそれは、蓉子との結婚はうまく行かなかったけれど、誰かを愛して新しい家庭を築くのは素晴らしいことだと暁斗は思うので、晴夏にも経験して欲しいという気持ちがあるからだ。しかし彼女にあまり結婚への興味がないのなら、暁斗のしていることは価値観の押しつけでしかない。
「あきちゃん、お風呂入る?」
階下からやってきた乃里子が部屋を覗きながら言った。暁斗は妹に振る。
「晴夏明日出勤だろ、先風呂入ったら?」
「うーん、じゃそうするわ」
晴夏はおじさんのように、後頭部を右手で掻きながらあくびをした。
「そうしなさい、あきちゃんに謝った?」
「はいはい、とりあえず和解しました」
晴夏はベッドから降りて、着替えを出すべく箪笥の引き出しを探り始めた。暁斗は椅子を片づけて部屋を出る。乃里子が先に階段を降りながら、小さく訊く。
「晴夏ちゃんと謝ったの?」
「まあ一応……奏人さんに焼きもちを焼いてるのはあるんだろうなぁ」
「嫌な小姑になって欲しくないわね」
「奏人さんかなり気が強いから、本気になったら晴夏が泣かされるぞ」
母は暁斗の言葉に楽しげに笑った。笑いごとではない気もするが、奏人なら上手く立ち回ってくれるだろうとも思う。
「じゃあなたもはるちゃんの後でお入りなさい、布団は用意しておいたから」
ありがと、と暁斗は言いながら、リビングに置きっぱなしの鞄を回収して、再度2階へ上がる。暁斗は星斗と一番大きな洋室を半分に分けて使っていたが、2人とも出て行った今は、学習机と古いベッド、そして空っぽの箪笥が2つずつ置いてあるだけである。
ふと、ここを奏人と使えないかと考える。あの大量の本の全ては厳しいが、ある程度は入れられそうだ。新しいカーテンを一緒に選び、大きめのベッドを置いて、机は一つずつ必要だろうか……。暁斗はしばし妄想に耽っていたが、それでは奏人が夫の家族と同居して気を遣う長男の嫁のようになってしまうと気づき、1人で苦笑する。いくら奏人が桂山家の子になりたいと言ったからといって、それはやり過ぎだと暁斗は自分を戒めた。とは言え、そんな妄想も決して有り得ないものではないというのも事実で、ときめきが止まらなくなる。
ああ、早く奏人と暮らしたい。一緒に朝食を作り、一緒に出勤して、帰る時間を確認し合って夕飯の準備をする。もし一戸建てに暮らすなら、一緒に入れる浴室を持つ物件もあるだろう。そして抱き合って眠る。休みの日は、誰に気兼ねすることもなく、飽きるほど一緒の時間を過ごすのだ。
兄が変態らしく妄想に顔を綻ばせていることなど知る由もない晴夏が、洗面室でドライヤーを使う音が聞こえてきた。暁斗は下着と寝間着と歯ブラシを抱えて、部屋を出て階段を降りた。この数日、自分を取り巻く状況に独りでぴりぴりし続けていた暁斗は、家の中に自分以外の人間がいること自体に癒されていた。
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