奏人は日付けが変わる直前にLINEを送ってきた。暁斗の送ったURLで記事を読み、すぐに会社の上司に相談したのだという。上司は奏人が同性愛者であることを知っていて、それを暴露する記事に憤慨してくれたが、かなり稼ぎになる副業をしていたことを問題視されてしまった(小遣い稼ぎ程度なら、このご時世なので大目に見てくれるところなのだが)。
奏人の会社は、職場でのいじめやハラスメントを撲滅するための取り組みを早くから始めており、社員が性的指向を暴かれたことに対し出版社への抗議を検討してくれるらしかった。副業はもう辞めることを決めているので、何とか会社をクビにならずに済みそうだと、苦笑の絵文字をつけながら説明してあった。
暁斗は奏人があの部屋で一人で泣かなくてはいけないような状況に陥ってはいないと知り、胸を撫でおろした。安心したと返信すると、奏人はアウティングされてしまった暁斗を心配してきた。こうなった以上、同性愛者として堂々とやっていきたいが、そうすると奏人の存在を隠しきれないかも知れない。それが気にかかる。
「暁斗さんの思うように行動して。僕は積極的にカムアウトしてないけど隠してる訳でもないから、僕に気を遣わないで」
奏人の返事は、嬉しい反面、本当にそれでいいのかという思いを催させた。
「もう隠さないと暁斗さんが決めているのは分かりました。次はどこまでオープンにするかということになると思うのです。」
吹き出しが続けてやって来る。
「例えば、デリヘルを使ったことはもうバレてしまったから仕方ないけれど、そこで知り合った僕との将来を考えてくれているということは、」
「ごく親しい人以外には、しばらく伏せておいてもいいのかなと。きっと暁斗さんのイメージダウンに繋がるから。」
奏人の言葉に微かな不快感の混じった疑問が湧く。誇りに思って続けて来た仕事なのに、そんな言い方をするのか。……しかし、昼間の会社でのことを思い出すと、奏人の言う通りだと認めざるを得ない。皆ゲイというよりは、デリヘルに微妙な反応を示していた。そして、それを使うということが、自分が背負っているイメージに反するという声。
暁斗は分かったと奏人に返した。難しいな、と思った。暁斗は奏人のためなら、薄汚い内容の記事で飯を食う腐った者や、それを真に受けて喜ぶ下世話な連中と戦うことが出来る。でも自分のためだけなら、先程神崎が話したような、肯定はしないが否定もしないという態度で乗り切れば、それで十分なのだ。
遅くにごめんなさい、という言葉におやすみのスタンプがついて来た。暁斗もおやすみとスタンプを送り返す。昨夜を思うと随分奏人と距離が出来たようで、寂しくなった。
翌朝は薄ら寒く雨が降っていた。暁斗が営業部のフロアに着くと、エレベーターを降りた途端に異様に多くの視線が自分に集まったのを感じた。1課の部屋に入ってもやはり、皆の目がやけに気になる。暁斗はひとつ息をついて、おはようと声をかけ、いつものように自分のデスクに向かう。平岡がコーヒーでいいですか? と普通に訊いてきたのが救いだった。
「知っている人のほうが多いようなので伝えておくと」
暁斗は朝礼で、昨夜から考えて来た通りに部下たちに話す。
「数人の男性のプライバシーを暴いたような週刊誌の記事に出ている営業課長とはおそらく私なんだが、敏腕かどうかはともかく内容は否定しない」
何人かの社員が目配せをし合う。
「私が心配なのは得意先がこの記事をどう思うかだ、もし何か訊かれたらあれは私だと先様に正直に言って貰えばいいんだが、変にこじれそうなら私に言って欲しい」
花谷が、ややためらいがちに言葉を発した。
「課長に言ったとしてどうされるおつもりなんですか」
「私が直接出向いて話す」
「場合によっては余計に拗れませんか」
「その場合部長にお願いしようかな」
ちょっと待ってください、と長山が口を挟んだ。
「そんなことここで話し合わなくても構わないんじゃないですか、課長が勤務時間外に何をなさってようが営業業務の遂行に関係ありません」
「でもそんな理解のある相手先ばかりじゃないかも知れないだろ」
花谷の反論に対し、和束も後ろから意見を述べた。
「そんな相手先のほうがおかしいわよ、課長がゲイデリヘルを使ってて誰が困るのよ、課長のファンの女子は泣いてるけど」
新入社員の松田がぶっと吹き出した。暁斗が彼のほうに目をやると、彼はちょっとどもりながら言った。
「変な対応をしたら僕らが課長の指向やご趣味に偏見を持ってると……逆に不愉快に思われる先様もいらっしゃるかと思います」
確かに、と言う声が上がる。暁斗は、山中の言う通り、若い子のほうがこういった場面で柔軟な考え方をすると実感した。
「皆が困らされたり嫌な思いをしたりするかも知れないということに関しては申し訳ないと思う、まさかこんなことを理由にうちと取り引きしないと言う社も無いとは思うが、少し気をつけておいて欲しい」
もう一つ、今日発表される産学連携プロジェクトと、それに関連する新商品の営業の開始について少し話し、朝礼を終わった。思ったより重苦しい雰囲気にならないで良かったと、暁斗はほっとする。
「課長……思わぬカミングアウトになったんですね」
松田が昨日の外回りの報告書と領収書を持って来て、言った。
「長く隠しておくつもりはなかったんだけれどな、とは言えこういうのは困るかなぁ」
暁斗は深刻にならないように答えた。
「大学のゼミの友人がゲイなんです」
彼の言葉に暁斗は驚く。
「学生時代からカムアウトするんだな、最近の子は……あ、ここページがひっくり返ってるぞ」
「えっ、すみません……でも友人は高校生の時に一度自殺を考えたそうです」
暁斗は書類から目を上げた。
「好きになった人から気持ち悪いと笑われた上に……言いふらされたらしくて」
「可哀想に」
胸が痛む。好きになった相手から酷い仕打ちを受けることも少なくないのか。奏人もそうだった。
「就職して彼氏も出来て今は楽しいと話していました、僕はゲイじゃないですが性的少数者がそのことを隠さなくてもいい社会になればいいと思います」
うん、と暁斗は松田の言葉に頷いた。彼は書類を直すために自分のデスクに戻って行った。半年でしっかり話せるようになったと嬉しくなる。それに暁斗への気遣いも見せてくれた。若い子の成長は、いつ見ても楽しく、眩しい。そんな思いは、天気も手伝って鬱陶しい気分を、幾分和らげてくれた。
11時を過ぎ、暁斗は2階の一番広い会議室に向かう。8社ほどが産学連携のプロジェクトの発表を取材しに来たと西山が教えてくれた。
「多いですね」
「3社は教育系の雑誌や新聞だから大学側の取材だろうな、これが終わると帰るだろう」
会議室の後ろの扉は、飛び込み取材のために開放されていた。そこから覗くと、大学側からは副学長と実働しているゼミ生の代表2人、彼女らの担当教官が来ていた。副学長も担当教官も女性で、壇上が華やかである。
「視覚的にいいですね、うち側に女性がいないのが逆に目立つかな」
清水が小声で言う。彼は暁斗に丁寧な返信をくれていた。こんな下品な記事でなく、桂山さんの口から直接聞かせていただきたかったですね笑、と彼の眼鏡の奥の目のように、距離感を測りかねる一文で締め括られていた。
「宮城の工場で主に作るんですよね、工学部卒の優秀な女性がいるって聞いたけど」
暁斗が訊くと、清水は苦笑した。
「はい、彼女はこの企画に深く関わることになるんですが……ここに出すのはやはり工場長になっちゃいますね」
割に質問も活発に出て、ゼミ生たちと山中穂積がにこやかに対応する。ゼミ生が、女性の目線というだけではなく、もっとその先を目指したいと話すのが気持ち良かった。
会見が滞りなく終了し、記念撮影が済むと、10分の休憩の後にもう一つの発表をおこなう旨がアナウンスされた。室内にほっとした空気が流れた。
「あら、誰も帰りませんね」
大平が動きの少ない室内を見て呟いた。壇上だけバタバタしている。大学の面々も、椅子を出して座り始めた。
「あらら、やっぱりこういう話題は注目度高いんだわ」
「時代の流れですかね」
大平と暁斗が話しているところに、山中がペットボトルの茶をあおりながらやって来た。暁斗は彼をねぎらう。
「お疲れ様です」
「何か次も気を抜けない感じなのか、これ」
岸と山中は連投である。岸は慣れた様子だった。
「いやいや、次は気楽にやればいいさ」
大平は岸の言葉に苦笑する。
「岸さんが気楽にって言って気楽に済んだ試しが無いんだけど」
暁斗も同感です、と笑った。この会見は社員のデスクのパソコンに配信されることになっており、時間のある社員は見るように指示が出ていた。思わぬ見学者もいるし、あまり気楽にはいかないだろう。
仮称性的少数者のための相談室設置発表会は、定刻に開始した。6人が横並びになり、岸と西山が主に話す。暁斗たちは冒頭に1人ずつ紹介され頭を下げただけで、15分が過ぎた。
「時間がございますのでもしご質問等ございましたら承ります、挙手ください」
岸の言葉に、ぱらぱらと手が上がる。女子大生も挙手しており、岸は彼女を一番に指名した。彼女は礼儀正しく大学名と氏名を口にする。
「差し支えなければ教えていただきたいのですが、メンバーの中に当事者はいらっしゃるのですか?」
「あ、私です」
山中が手を上げながら気楽に答えた。山中はそんな話を彼女らとこれまでしなかったのだろう、えっ、山中さん? という声が上がる。
「御社にはハラスメントに対応する組織が既にあるということですが、それとは別にこの組織を立ち上げるということは、ニーズがあるということなのでしょうか?」
「先程岸が申しました通り、様々な価値観が尊重されるようになり、ハラスメント委員会だけではフォローし切れなくなりました……正直言えば機能不全に陥り本当に必要としている人が辿り着けなくなっています、性的少数者がその中に含まれていたという事案がありました」
「山中さんの見立てでは社内に性的少数者は多いと?」
「多いと思います」
学生の素直な質問に場が活気づいた。暁斗は何となく落ち着かない気分になっていた。紅一点の大平にも質問が出て、彼女はえっ、と言いながらも、マイクを取り、このような相談室は回り回って社内の女性や障害を持つ従業員の地位向上にも役立つだろうとはっきりした口調で答えた。
「皆様ありがとうございます、では最後の質問とさせていただきたく思います、どなたかございましたら」
岸の言葉に手を上げたのは、一度質問をしたビジネス誌の記者だった。彼は大変失礼な質問になると思うのですが、と前置きしながらも、てきぱきと言った。
「昨日発売の女性週刊誌の記事なのですが、御社の社員ではないかと思われる人物に関する言及があります、既に多方面から内容に関して抗議を受けているような記事なのですが」
暁斗は自分の身体が固まったのを感じた。両隣に座る大平と清水も、緊張したことがわかる。岸は淀みなく存じております、と答えた。暁斗は無意識に鳩尾の辺りに手をやった。奏人から借りたタイピンが指先に触れ、その冷たさに意識が覚醒する。まるでお守りにでもするように、今日これをつけて来たのだった。
「事実確認はなさったのですか?」
これには西山が応じた。
「我が社としてはそれも含めてまず質問状を出版社に送ることを検討中です」
「それは社員のプライバシーに対してですか、それとも会社名を実質挙げられたことに対してでしょうか?」
記者は西山が曖昧に答えたのを見逃してくれなかった。回答によっては、対応が遅く的外れと受け取られかねず、相談室の基本理念にまで突っ込まれてしまいそうだった。それは、まずい。暁斗はとっさに、大平と自分の間に置かれたマイクを手に取った。
「あの記事に書かれていたのは私のことです、ここからオフレコにしていただけるのでしたら、私が答えさせていただきます」
どよめきとは言わないまでも、微かな声が上がる。場にそれまでと違う空気が流れ始めた。大平が桂山さん、と鋭く囁き小さく袖を引いた。暁斗は彼女に向かって小さく頷いてみせたが、言葉をかける余裕は無い。もう後には引けなかった。
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