暁斗は営業部のフロアの給湯室で、1課のメンバーのマグカップを盆の上に並べていた。奏人の出社時間に合わせて神楽坂を出発すると、営業1課で出社一番乗りになってしまった。お泊まりセットも持っているし、誰かに突っ込まれる前に着いて正解かと思いつつ、まずロッカーに紙袋を入れた。
昨夜は奏人の狭い寝室(彼は本来物置きにすべき部屋にベッドを詰め込んでいて、真夏は暑いのでリビングにマットレスを敷いて寝るらしかった)で、2人してぐっすり眠った。暁斗は華奢な恋人をずっと腕の中に抱いて、その肌のぬくもりや静かな寝息に満足感を覚え、ただ彼が傍らに眠っている幸福を満喫した。しっかり朝食をとり、通勤ラッシュのどさくさに紛れて身体を寄せ合いながら、東京まで出てきた。一緒に暮らせば、毎朝こんな風に過ごせると思うと、つい顔の筋肉が緩む。
「あ、桂山課長、おはようございます」
女の声に夢想を破られ振り返ると、2課の新入社員の竹内――と言ってももう彼女も入社して半年近くになり、春にたまに見せたおどおどした表情が無くなっていた――が、2年目になる男子社員と一緒に給湯室に入ってきた。
「おはよう、朝のお茶担当?」
「はい、1課は課長もお茶担当が回ってくるんですか?」
「いや、早く着いたからたまにはと思って」
暁斗はかつて自分も、こんな風に30分早く来て茶を用意したものだと懐かしく思い出す。女子社員だけにお茶を淹れさせるのは不公平で差別的だということで、暁斗の新人時代くらいから、男子社員も給湯室で働くようになった。
「1課は今朝は全員出てくるんですね、こっち少ないから手伝いますよ」
2課の男子社員・手島は、暁斗が並べていたマグカップを見て言った。2課は直行が多いらしく、2人で用意するほどでもないようだった。
「そう? じゃお言葉に甘えて」
暁斗はコーヒーを欲すると思われるメンバーのカップを、彼のほうに並べた。紅茶や緑茶は自分が用意する。インスタントコーヒーをスプーンでカップに入れながら、手島が訊いてくる。
「桂山課長、みんなが何を飲むか覚えてらっしゃるんですか?」
「え? うん、大体は……今日は紅茶の気分とかいう声は今朝は無視する」
「すごいですね、僕誰が何飲んでるとか、覚えてるどころか気にしたことない……そういうとこが駄目なんですかね」
彼は俯いて、声を落とした。竹内がやや同情の色を含んだ視線を彼に送っている。
「別に誰が何を飲むのか知らなくても営業は出来るよ、でも他人に興味を持つような姿勢はあったほうが役に立つかもな」
「他人に興味、ですか」
「結局人と人との話だから」
暁斗は自分のマグカップにポットの湯を注ぐ。2課のメンバーのカップにも湯が入り、コーヒーの香りが給湯室を満たした。
「人は自分に興味を持ってくれる人が相手のほうが話しやすいものなんだ」
手島が何を悩んでいるのかは見当がついた。よその課であっても、誰がどんな仕事をしているのかくらいは、情報が入ってくる。
「心掛けてみます」
彼は少し気が晴れたような表情になった。竹内も微笑する。彼女のほうが、先輩のようだった。
「えっ課長、すみません! 遅くなりました」
1課のお茶担当がやって来たので、暁斗はおはようと言いながら、2課の2人に道を開けてやる。2人は失礼します、と言いながら自分たちの部屋に戻って行った。
「はい、お湯入れるから混ぜて」
暁斗は一つずつ、マグカップに湯を注いでいく。宇野は、課長が朝から上機嫌なのを見て、何か良いことがあったのだろうと想像する。元々優しくてよく気がつく人だが、最近それに磨きがかかっている。夏に入った頃から、彼女ができたのではないかと女子社員たちが噂しているが、的外れでもないかも知れないと彼は考えた。
「早いんですね、何か仕事で気になることでもあるんですか?」
マグカップの載った盆を持ち、宇野が訊いた。いや別に、と暁斗はかわす。
「明日暇なら記者会見に出ろと言われたのは気になってるけど」
「新しい産学連携企画のついでに相談室の発表をするんですって?」
「イメージ戦略が露骨で微妙だな」
課長が言っちゃダメでしょ、と宇野は笑った。暁斗も笑いながら、部屋に朝の飲み物を運んだ。
午前中に2件、部下たちと外回りを済ませて、蕎麦を食べてから会社に戻った。暁斗は出先で、奏人に借りたタイピンを褒められて気分を良くしていた。昨夜着替えの中に入れるのを忘れて、まあいいかと言いながら今朝ネクタイを締めていると、奏人が貸してくれたのである。
「傘もそうだけど、小物に気を遣わないといろいろ台無しだよ」
奏人は眉間に小さく皺を寄せて、苦情を申し立てた。彼が箪笥の小さな抽斗から出してきたのは、カフスとタイピンのセットだった。西澤遥一から貰ったものだと言うので、そんな大切なものを借りる訳にはいかないと最初固辞したのだが、今日のネクタイに良く合うからと奏人は推した。使わないカフスは本当に紛失しそうなので、タイピンだけ借りた。一見何でもないシルバーの直線状のそれは、艶消しとそうでない部分が、光を浴びると異なる輝きを発して、確かに美しい。取引先の女性の専務がそれに気づき、シンプルでお洒落なピンですね、と言ってくれたのだった。
暁斗が会社に戻り自分のデスクに落ち着くと、皆外出して内勤の社員数名しかいない静かな部屋の中に、ばたばたと女性が走り込んできた。皆何事かと一斉に顔を上げる。
「桂山課長……!」
暁斗を呼んだのは、受付の新城だった。この会社は数年前に女子社員の制服を廃止し、皆私服で働いているが、男性も女性も退勤後に予定がある場合、会社で地味な服に着替える者が多い。彼女はまさしくそのつもりで、1階で慎ましやかに座る姿から想像できない、真っ赤なカットソーに細身のパンツ、銀のハイヒールを身につけていた。
「どうしたの、先に着替えて来たらいいのに」
暁斗は彼女の切羽詰まった様子に驚き、立ち上がった。男子社員たちは彼女の「私服姿」に目が釘づけになっていた。
「すみません、こんな格好で」
大きなイヤリングを揺らしながら新城は言い、紺色のエナメルの鞄から派手な表紙の雑誌を引っ張り出した。女性週刊誌である。彼女はカウンター扱いされている書類ロッカーの上に雑誌を置いた。表紙をチラ見するだけで、その本がゴシップに満ちていることが容易に察せられる。
「電車で隣に座ってたおばさんが読んでたんです」
「覗き見してたのか」
「まあそうなんですけど、変な記事があったから買って来たんです」
彼女の綺麗に爪を手入れした指がページを繰る。
「これ……春にここに来た課長の親戚の子ですよね、たかさきかなとさん」
それは西澤遥一を追悼するという形を取りながら、彼が同性愛者だったことや、その事実が彼の家族に確執をもたらしたといったことを、面白おかしく書いた記事のようだった。西澤が最後に愛したのが、28歳のSEであり、ゲイ専門のデリバリーヘルスに勤めている男性だとはっきり書かれていた。おそらく夜の仕事に赴く際のものだろう、ロングコートを纏い歩くその男性の写真までつけてある。目は隠してあったが、奏人を知る者なら彼だとすぐにわかる。現に、一度しか会っていない新城が奏人だと気づいたのだ。
暁斗は言葉を失った。本当に奏人はつけ回されていたのだ、最近妙なことは特に無いと言っていたのに。
「それだけじゃないんですよ、ここ……」
新城は次のページを開いた。和束が、興味津々の体で雑誌を見に来た。
「……桂山課長じゃないですか、これ」
新城が指差した部分には、男性T.Kのデリヘルの得意客の職業が箇条書きされていた。全国区出馬を狙う都内某区の区議、渋い脇役として名を馳せる歌舞伎役者、都内有名塾の名物講師、海外の有名コンクールで優勝しヨーロッパで活躍するイケメンピアニスト、テレビ番組でも取り上げられたことのある世界シェア上位の商品を持つIT企業の社長、そして東京駅前に自社ビルを持つ有名事務機器メーカーの敏腕営業課長。
暁斗は一瞬頭が真っ白になった。何処からこんな情報が漏れるのだ。
「ちょっと桂山課長だけセレブ感が落ちるわね」
和束の冗談に、新城が本気で怒った。
「そういう問題じゃないでしょ、こんないい加減な記事……たかさきさんもこんな……これうちの社だってすぐわかるし、うちには営業課長は2人しかいないのよ、2課じゃないってのもみんなわかるじゃないの!」
「ちょ、あちらの課長に失礼じゃない?」
「名誉毀損で訴えるべきです、桂山課長!」
暁斗は新城が意外と熱い人間だと初めて知ったが、名誉毀損とは言えないのが厳しいところだった。少なくとも嘘が書かれている訳ではない。彼女らは記事が嘘っぱちだと思うから、こんな風に言うのだった。
「とにかくきみはこれから出勤なんだろ、着替えないと遅刻するぞ」
新城は変に冷静な暁斗に向かって眉をしかめた。暁斗は長い時間迷わなかった。2人の女性にゆっくり告げる。
「ここに書かれてるのは基本的に事実だ、高崎奏人は俺の親戚じゃないし……俺は彼の客だ、彼の副業のデリヘルの」
2人とも、暁斗の言葉に失語した。同じように目をまん丸にして、口をぽかんと開く。暁斗が後ろを振り返ると、さっき一緒に蕎麦を食べた日高と、これから外に出るべく準備していた落合が、こちらを見て固まっていた。
終わった、……いや始まりなのか。暁斗は凍ったような部屋の静けさの中で思った。後悔は無かったが、大変なことになりそうな予感はあった。
「桂山課長……言い訳は後で伺います、岸部長かどなたかに報告されたほうがいいと思います」
新城はヒールの音を高らかに響かせながら、エレベーターホールに戻って行った。言い訳という彼女の言葉に苦笑する。言い訳などない、事実なのだから。
「課長、一応確認しますけどさっきの冗談ではないんですよね?」
和束はくだらない週刊誌を閉じて真面目に尋ねてきた。暁斗はうん、と真面目に答える。
「悪いな、驚かせて」
「彼女割と課長のファンだし、たかさきさん? でしたよね? かわいい子だったってしばらく言ってたんです、それだけにゲイデリヘルはショックだったかも」
なるほど、と暁斗は呟く。試しに和束に訊いてみる。
「きみの見解は? 俺は上司……というか、一緒に働く相手として失格?」
彼女は眉間に皺を寄せた。そして呆れたように言った。
「つまんないこと言わないでください、課長がゲイであろうがデリヘルで女の子……じゃないのか、男の子呼んでエッチなことしてようが私には関係ないです、私もいろんな知人がいますからそんなに奇異だとは思いません」
暁斗は意外な言葉に少し救われる気持ちになる。彼女は続けた。
「しかし課長は自分が周りからどう思われているのかを考えるべきです、デリヘルは山中課長ならアリだけど桂山課長はちょいナシなんですよね」
後ろから確かに、と溜め息混じりの声がした。日高である。
「イメージが……」
「そう、イメージの問題です」
暁斗は困惑した。彼らは自分にどんなイメージを抱いていて、何処に引っかかっているのか、いまひとつしっくり来ない。ふと奏人の話を思い出す。客が自分に抱くイメージを、感じているファンタジーを壊さないよう振る舞う。
「それじゃ何か、俺は清く正しくごくごく普通ってイメージなのか?」
「まあそうですね、それが安心感とか安定感に繋がってると思います」
日高は分かりやすく説明してくれた。それはそちらが勝手に抱いているだけだ、と言いたくなったがやめておく。
「課長がたかさきさんにたぶらかされてるのかと一瞬考えました」
それは違う、ともう少しで暁斗はむきになって言ってしまいそうになる。代わりに大きな溜め息をついた。室内に沈黙が落ちる。
「とにかく騒がせて申し訳なかった、今日もし出先でこのことに関して何か言われたら……とりあえず知らないふりをしておいてくれ、今から明日以降のことを相談して来る」
暁斗は気力を振り絞り部下たちに指示する。部下たちはめいめいの仕事に戻った。奏人はこの記事を知っているのだろうか。暁斗はデスクに戻り、記事のネット版を見つけ出すと、URLを奏人と神崎綾乃、そして相談室のメンバー全員に送った。ほどなく内線電話が鳴り、暁斗は西山に来るように言われた。終わったのではない、始まるのだ――経験したことの無い戦いが。
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