9月 14の後に追加いたしました。
佐々木啓子が会社に飛び込んで来た翌日、当然のように暁斗は専務たちの棲む最上階フロアに呼び出された。今日は岸が不在で、谷口営業部長と指定された会議室に赴いた暁斗は、正直なところ心細かったが、昨夜の奏人とのやり取りを思い出しながら自分を鼓舞していた。
奏人は佐々木啓子に、自分の上司――情報センターのリーダー、それに暁斗にメールをくれた原総務部長と対応した。会社は奏人に彼女への対応をどうしたいか尋ねてくれた。彼女も予期しなかった出来事であり、被害者であるとして、奏人は彼女に何も求めないことにした。僕は甘いのかも知れないけれど、暁斗さんもあの人を黙って見送ったのだから、それで良かったと思います。……奏人はそう書いていた。
「昨日きみは例の記事を書いた記者の女性と一人で話をしたんだってね、どんな話をしたのか聞かせてもらえるかな」
これは暁斗のミスだった。あの時、相談室メンバーの誰かに医務室に来てもらうべきだった。
「谷口部長と岸部長に報告して音源を総務に提出しましたが、その通りです……佐々木啓子さんは出版社の一部の人間に無断で記事を書き替えられました、記事の撤回を要求すると逆に脅迫されたのです」
「あんな記事のことで脅迫を受けたりするのかな」
「ロビーで土下座して来たんだって?」
暁斗の前に座る5人のうちの3人が小さく笑った。佐々木にも、もちろん自分に対しても失礼だと感じた。
「マスコミ業界の闇に関しては私はよくわかりません、ただ彼女はフリーであることや……女性であることで、男性記者やその他の者からより不当な扱いを受けたのだと思います」
暁斗は佐々木を脅した者たちが、相手が「生意気な女」だから、怯える顔を見たくて、冗談や遊び半分で行動していたような気がしてならない。自分の前に座る連中が、大平総務課長に対して、嘲笑半ばに鉄の女などとあだ名しているように。
「それで? 桂山くんはこの佐々木という記者は放置しておいていいと?」
「放置はしません、彼女は出版社を告発することで私を援護射撃したいと言ってくれましたから、私も彼女のために出版社に正式な謝罪と記事の撤回を求めます」
専務たちは顔を見合わせた。それまで黙っていた谷口が口を開いた。
「この件に関して会社が何も言わないことを複数の取引先から指摘されています、営業部としても対応に困っています」
暁斗は自分が責められているように感じ、少し視線を落としたが、奏人の言葉を思い出して気を取り直す。暁斗さん自身は迷惑をかけていると思っているの? ……思いたくない。思うべきでもないのだ。暁斗個人の問題ではなくなっているのだから。
「桂山も会社を騒がせたことは十分反省していますし、彼を心配している先方様もいるんですよ」
谷口の話の流れがやや想定外で、暁斗は小さな驚きを顔に出さないよう堪えた。
「静観が悪いこととは言いませんが、このままだと当社は人権に配慮しない社風だと……それこそマスコミに叩かれます」
谷口の淡々とした、しかしはっきりとした口調の専務陣の姿勢への批判に、彼らはうーん、と一様に難しい顔になる。
「まあ今この場で会社の対応を決めるわけにはいかない、とにかく昨日何があったのかを桂山くんに聞きたかっただけだからね」
「スピード感を持った対応をお願いしたいです、前線にいる営業部や広報部が困りますから……企画部も新しいプロジェクトに水をさされたと言い出しかねません」
谷口は念押しした。専務たちはこれ以上の話し合いは無駄だと判断したらしく、それからすぐに暁斗を解放したが、軟禁状態はまだ継続させられそうだった。
「部長、ありがとうございました……返す返すもすみません」
暁斗はエレベーターのドアが閉まってから、谷口に言った。
「別にきみのためじゃない、私はきみの性的指向ははっきり言って理解不能だし、特殊な風俗の利用を暴き立てられるなど営業の……社会人の恥だと思っている」
谷口の答えが冷ややかなので暁斗は面食らい、思わずすみません、ともう一度言ってしまう。
「ただそれは私の個人的な見解だし、こんなことをきみに向かって言うのが良くないことなのも理解している、きみの受け持つ相談室に叱られるんだろうな」
暁斗ははあ、とやや間の抜けた相槌を打ちながら、嫌味を言われていると解釈すべきか少し悩んだ。というのは、この間に比べると谷口が発する空気が若干好意的に感じられだからだ。
営業部のフロアに着き、暁斗が再度時間を取らせたことを謝ろうとすると、谷口は言った。
「 世論がきみの味方をしている、会社はそれを理解しないといけない……それが言いたかっただけだ、それを先日きみが得意先との問題を解決して帰って来たことで思い知ったまでだ」
暁斗はあれは、とつい言った。解決などではなく、はなから問題など起きていなかった。しかしそう言うと、2課課長の三木田を批判することになってしまう。暁斗は言葉が継げなくなった。
「ああ、言いたいことは大体わかる……ただ転属の希望を仄めかしていた手島くんがあれ以来やる気になっているようだ、それはきみの手柄かな」
そうなのか。あの自信なさげで三木田にびくびくしていた青年が前向きになっていると知り、暁斗はほっとして頬が緩んだ。谷口はじゃあ、と右手を上げて奥の3課の部屋に戻って行った。
「課長、毎日大変ですね」
暁斗の姿を見つけて、昨夜の飲み会に参加していた落合が慰めるような口調で迎えた。
「うん、今日はそんなに絞られなかった」
「課長が絞られる意味がわかりません」
昨夜比較的彼とよく話したせいか、懐いてくれている様子である。
「いろいろ騒がせてはいるからな、仕方ない」
「だって土下座ってあちらが勝手にして来たんですよね?」
暁斗は苦笑した。真剣だった佐々木啓子には悪いが、よくもあんな場所でやってくれたものだ。動画を撮影していた社員までいたらしい。拡散などされてはたまらない。
「先方に謝る時は気をつけろよ、往来のある場所での土下座は逆効果の場合があるから」
真に受けた落合は、困ったように眉の裾を下げた。
「課長、土下座なんてしたことあるんですか……」
「あるぞ、営業のせいじゃなかったんだけど完全にこっちの落ち度だった」
彼はああ、と力の抜けた声を上げた。
「他人のミスで土下座なんて俺無理です」
「心配しなくても一人で回れないおまえに誰も土下座なんか求めないよ」
外回りから戻り、鞄の中を整理していた花谷がからかうように言う。今年に入り、この2人の間にこういう関係が構築されているが、きっかけが年末の飲み会の隠し芸だったことを、暁斗は昨日まで知らなかった。あの頃、ディレット・マルティールの「実質ナンバーワンスタッフとのお試し」を決めて、そのことで頭がいっぱいだったからである。
「最近一人でだいぶ行ってるじゃないですか!」
「全部きっかけが課長の急な不在じゃないか、出来るなら初めからやれって話で」
はいはい、と暁斗は間に入る。
「女子大コラボが本格的に出始めたら企画の連中と飛び込みに行く可能性があるから、押しが弱めのきみらにはちょい試練になるかもな、あいつら常にガン押しだから」
「僕ら不要論とか出そう」
花谷は苦笑した。
「課長は山中課長と回るんですよね、裏広報課兼ねて」
「裏広報課って何?」
暁斗が訊くと、2人はくすくす笑う。笑い方が似ていて、兄弟みたいだなと思う。
「オープンゲイの2人が回って何げにうちの会社がダイバーシティ推進してますアピールをするという……」
「それは一般的に広告塔と呼ぶやつかな、でも山中さんととかかなり嫌」
落合がまたもう、と笑う。
「結構仲良しのくせに」
仲良しじゃない、と暁斗は即否定した。昨夜も同じことを言った気がするが、山中と親しいと思われるのは、やはり不本意な暁斗である。
2週間近く社内に軟禁されていると、奏人の言うように、ほとんど話したことのなかった人と話す機会が増えたり、部署内の人間関係で面白い発見があったりする。それは悪くない。今までがむしゃらに得意先に向かい過ぎていたかも知れないという反省もあった。
暁斗が事務処理をこまめにしているせいで、最近経理や総務から急かされることが無い。軟禁状態の中、皮肉にも暁斗はバックヤードの処理能力もそこそこ高いことを、事務方に示して驚かれていた。
「何しようかな……」
部下たちが部屋を出ていくと、暁斗はひとりごちた。ああ、相談室のニューズレターの原稿を書こう。総務課の大平の部下が、メンバー全員の似顔絵を上手に描いて来たものが大平からのメールに添付されていて、朝からひとしきり笑った。200字で自己紹介は、なかなか難しい。やはりこんにちはから始めるものなのだろうか。暁斗は白紙のワードを立ち上げてしばし考えた。自己紹介をきちんと文章にするなど、何年振りだろう。楽しくない作業ではなかった。
「会社は相変わらずなんですね」
ほぼ日課のようになっている、22時を過ぎてからの奏人とのLINEでのやり取りで、暁斗が今日の報告をすると、そんな返事が来た。
「もう会社には期待できないから、個人で抗議文を作るか、組合に助けてもらおうと思う」
暁斗は応じた。こういうチャットにもだいぶ慣れたと思う。奏人はキーボードは当然として、スマートフォンでも入力が早いので、当初は焦ったものである。
「たぶんうちの会社、暁斗さんの会社とこれを機会に繋がりたいと思ってる」
苦笑の絵文字が最後についていた。
「だから相談室のトップだけでなく、そちらの経営側にも出てきて欲しいっぽいです」
「そっちみたいに副社長とかかな」
「もしかすると。あくまでも僕と直属の上司の想像ですが」
「奏人さんの会社がうちみたいなダサい会社と繋がって、どんなメリットが?」
すこし間を置いて、「ウケる」という文字の下で犬がひっくり返って笑うスタンプが来た。
「ダサいとか言うwww」
「ダサいがダメならイモっぽい」
「やめて(´∀`)でも老舗だし国内シェア一位ですよね」
なるほど、と暁斗は思う。奏人の会社は若い。歴史があるという点に惹かれるのかも知れなかった。
「うちはやっぱり悪い意味で保守的な面がある。歴史が古くて上のほうも古い会社はこんな感じなんだろうね」
うんうん、というスタンプが返って来る。
「来週会えるからそれまで頑張って軟禁生活送ります」
暁斗は一番伝えたかったことを打ち込んだ。奏人はすぐ返事をよこす。
「池袋で会うのは最後だから楽しみましょうね。よく考えたら別に池袋でなくてもいいんだけど」
確かに、と思い、今更奏人に訊いてみる。
「どうして池袋だったの?」
「暁斗さんの自宅から遠いことと、あのホテルが男性同士OKだからです。男だけで使うのを嫌がるホテルも多いので」
暁斗はなるほど、というスタンプを送る。それも差別にあたるのだろうか。
「もっと近いところでもいいですよ」
「池袋好きだしあそこでいいよ」
「どうして好き?」
「あの近くの大学出身だから」
奏人はえっ、と目を見開いた犬のスタンプを送ってきた。その犬の顔が面白くて、思わず笑う。
「初耳」
「話したことなかった?」
「ないですよ。僕の家の近くの教会が、暁斗さんの大学の宗派で聖公会なんですよ」
暁斗は神楽坂に行った時に教会の前を歩いたことを思い出す。
「同じキリスト教でも奏人さんの大学とちょっと違うんだよね」
「はい、礼拝のやり方は僕の大学のカトリックと似てますけど暁斗さんの大学はプロテスタントなので」
と言われても暁斗はあまりピンと来ない。大学時代、一般教養でキリスト教学のようなものは履修したし、たぶんカトリックとプロテスタントの違いも教えてもらったのだろうが。
「ゼミ友が1人在学中改宗した」
「ミッションスクールの役目を果たしていますね」
メッセージの最後に光の絵文字がついていた。暁斗の大学内のチャペルは基本的に開放されていて、奏人が自分の大学でそうしていたように、静かでくつろげる場所として好む学生が一定数いた。暁斗のゼミの友人は、卒業後に教会で知り合った女性と結婚し、本格的なキリスト教式の結婚式に暁斗を呼んでくれ、今もクリスマスカードを毎年送ってきてくれる。
「キリスト教って同性愛はダメなんだよね」
思いついて暁斗は奏人に尋ねる。
「カトリックはダメですけれど聖公会は全否定じゃないと思います」
そうなのか。暁斗は驚く。
「女性の司祭もいるし、割とリベラルなはずです」
暁斗はスマートフォンに向かって1人でふうん、と呟き、そんな自分に失笑した。すぐに新しい吹き出しが画面に現れた。
「暁斗さんとキリスト教の話してるとか結構ウケます」
「でも意外と面白い」
「宗教の話ってタブー視せずに親しい人とちゃんとしないといけないんですよ」
他愛なく、大切な話。奏人と沢山積み重ねていきたいと暁斗が思うものだ。意外にも奏人はクリスチャンではないが、専攻が哲学だけにスルーできないらしく、キリスト教だけでなくいろいろな宗教のことを知識として学んでいるという。
「今週末お母様と上野に行く約束をしました。お母様はギリシア神話や聖書の物語がお好きなんですね」
奏人の問いに暁斗は首を傾げる。
「そんな話知ってるのか微妙」
「 展覧会のテーマがそういう感じなんですが、そんなの関係なく楽しまれるタイプ?」
「たぶん」
奏人は母の結構なちぐはぐ感をまだ本当には体験していない。少し匂わせておくべきかも知れない。
「奏人さんから見たら邪道というか、意味のわからない楽しみ方をするかも」
奏人はパアァ、という字と花を背負った笑顔の熊のスタンプを送ってきた。それだけでも面白いのに、続く言葉に吹いてしまう。
「そういう人ステキ」
何がステキなのかさっぱりわからない。
「さすが暁斗さんのお母様です」
「同類にしないでください」
暁斗は思わぬ言葉につい全否定する。奏人がスマートフォンを見ながら笑っている姿が頭の中に浮かんだ。
「でもほんとに絵や音楽は好きに感じて楽しめばいいんです。こうであるべきみたいな考えの人がいるから、敷居が高いと受けとられるんです」
こういう奏人の意見は、西澤遥一の影響を受けているのだろうと暁斗は思う。西澤自身は教養豊かな人物だったが、芸術や文学なんて自分には縁がないと思っている人たちに、何かを感じさせ心に刻まれるものこそが名作なのだと書いていた。
「母が迷惑をかけると思うけどよろしくお願いします」
暁斗は心からそう思い、送信する。今日は土下座がテーマなのかと思いつつ、なにとぞ、という文字をバックに土下座しているうさぎのスタンプをくっつけておく。奏人は投げキッスをするパンダのスタンプを返して来た。何処で見つけてくるのか、可愛らしいスタンプだった。
会いたい。本当はそう打ち込んで送信したかった。でも奏人は先週も、神崎綾乃との約束を破って暁斗の部屋に来てくれている。来週会えるのだから、これ以上求めてはいけない。恋しくて切ないというのはこんな気持ちなのだろうと妙に納得しながら、暁斗は小さく溜め息をつく。小一時間ほどのやり取りのあと、名残惜しくお互いにおやすみのスタンプを送りあった。
風呂が溜まるチャイムが鳴ったので、暁斗は寝室に寝間着と下着を取りに行った。リビングのテーブルに置かれたスマートフォンが小さく震えて、「高崎奏人がスタンプを送信しました」というメッセージが光ったが、暁斗はそれに気づかず浴室に向かう。暁斗が寝る前に、だいすきという言葉を抱いた笑顔の犬を見ることができるよう、奏人が仕掛けた心尽くしの遊びだった。
次は9月 15にお進みください。
お手数かけて申し訳ありませんm(_ _)m
読み終わったら、ポイントを付けましょう!