あきとかな ~恋とはどんなものかしら~

その営業課長が愛したのは、手技と言霊で男たちを搦め取る、魔物。
穂祥 舞
穂祥 舞

4月 2

公開日時: 2021年7月25日(日) 11:00
文字数:6,722

 これはきっと相当な心理的負担になる。

 暁斗は池袋西口の雑踏に紛れながら、昨日の自分の滑稽なほどの動揺ぶりを振り返り、考えた。何が不安かと自問すると、まず自分が同性愛者だと周囲にバレること、次に奏人が風俗業に従事していると知られること。そしてそれらを隠すために嘘をつき続けないといけないこと――俺は卑怯だ、と暁斗は思う。暁斗自身は同性愛者を含む性的少数者に対し、差別意識は特に無いと思っていた。山中という先達(あまり良い手本だとは思えないが)もいる。しかし……自分のこととなると別なのだ。違う、結局俺は同性愛者を異質なものと受け止めているから、こんなに困惑しているのだ。

 もやもやした暗い色の思いは、1ヶ月ぶりに奏人の顔が見られるという喜びさえ侵食し始める。奏人はそう度々連絡をくれるわけではないが、LINEを使い短いメッセージや可笑しなスタンプを送ってきた。今日の昼も、楽しみにしてますとメッセージのついた笑顔の犬のスタンプをひとつだけ寄越した。それを見て思わず顔が綻び、誰からですかと藤江に突っ込まれた。スタンプを使うのがあまり得意でない暁斗は、奏人が絶妙なニュアンスを一個の小さな絵に込めてくることに感心する。

 そんな気持ちが山中とのやり取りを思い出すと陰ってしまう。暁斗は他ならぬ自分が向き合うべき問題なのに、この不快感を山中のせいだと思おうとしている自分にも苛々した。山中には、軽く暴言を吐いたことについて未だに謝罪のメールさえ送っていない。曲がりなりにも先輩に対し、もうめちゃくちゃだと自分でも思う。

 奏人はホテルのフロントに今日も先に着いていて、笑顔で暁斗を迎えてくれた。後ろ暗い仕事にふさわしい、ほぼ全身黒ずくめの格好。しかしそれがかえって彼の肌の白さを際立たせ、妙な色気を立ち上らせていた。

「もうだいぶ元気になった?」

「桂山さん、何かありましたか?」

 二人同時に言葉を発して、同時に笑う。

「僕は大丈夫ですよ、桂山さん何だか顔色が良くない」

 奏人に覗き込まれて、ちょっと忙しいからかな、とごまかす。奏人は見上げてくる目を逸らさない。だめだ、たぶんこんな返事では許してくれない、この他人の心にするりと入り込んでくる魔物は。

「まあこんなとこじゃ何ですから……」

 奏人は例の部屋のキーを取る。「いつもの」部屋はあまりに無愛想なせいか、不人気なようだった。暁斗は如何にもという部屋だと気恥ずかしくなりそうなので、その無愛想な部屋でちょうど良かった。

「僕の支援者になってくださりありがとうございます」

 奏人は部屋に入るなり、頭を深々と下げた。あ、いや、と暁斗はどぎまぎと応じ、彼に鞄とスーツのジャケットを渡す。

「有り難くお受けします、今日はアフターに30分お付き合いしますね」

 手慣れた様子でジャケットをハンガーにかけ、奏人は浴室に向かう。風呂の用意をしてから、暁斗の右に座り、軽く肩に頭をもたせかけた。

「こないだ声かけてきた人いたでしょう? 会社のロビーで」

 暁斗は奏人に隠さないことにした。事実も、それに対する怖れも。

「あ、あのシュッとした男の人ですか?」

 暁斗は変な言葉を使う奏人の顔を思わず見た。

「シュッとした?」

「関西、というか大阪の人がよく言うんですよ、目鼻立ちが整ってて……身体つきだけでなく身なりもスマートな人……って感じかな」

 奏人の返事になるほど、と暁斗は呟く。山中の風貌をよく突いているかもしれない。

「あの人俺の大学の先輩でゲイなんです、……ディレット・マルティールの会員です」

「ああ、桂山さんが綾乃さんに電話するきっかけを作った人ですね」

 奏人は顔を上げて暁斗の目をまっすぐ見た。暁斗は一呼吸置き、ゆっくり告げる。

「奏人さんのことを突っ込まれた」

 奏人は少し目を見開いたが、そうですか、と何でもないように応じた。

「プロフのページを見たらわかっちゃいますよね、どんな風に? 親戚なんかじゃないだろうって?」

「いや、親戚だというのは信じてるようでした、でも……あんな仕事をするほどお金に困ってるなら何とかしてやれって」

 暁斗はため息混じりに言ったが、奏人は思いもしない言葉を返して来た。

「優しい人ですね」

「は?」

 暁斗は自分の上げた声に棘が混じっているのを自覚した。

「優しい? 自分はそこで若い男の子を……」

 買ってるくせに、という言葉を飲み込む。奏人は慰めるような微笑を浮かべた。

「優しいんですよ、僕……つまり桂山さんの親戚の子と桂山さん自身を心配してらっしゃる」

「そんな風に考えられないよ」

「そんな風になかなか言えないですよ、桂山さんあの人に自分も同性愛者だって話したら……楽になれるかも」

「誰があんな奴に……!」

 暁斗は怒鳴りそうになる自分を、奥歯を噛み締めて抑えつけた。奏人は立ち上がって暁斗の腕を引いた。

「ごめんなさい、やっぱりこれは不愉快でしたね……お風呂ゆっくり入りましょう」

 

 ぬるめの湯に長いこと浸かり、奏人とベッドに横になると、刺々しいものが少し収まってきた気がした。奏人は「シュッとした」という言い方を教えてくれた、大阪出身の女性の同僚が、一緒に外回りをすると「東京の男の人はみんなシュッとしてる」といつも言うのだと笑いながら話した。この間暁斗の部屋で交わしたような、他愛ない会話。この1ヶ月恋しく思ったのは、奏人と肌を重ねることよりも、むしろそんなささやかでくだらないお喋りだった。

 甘えている。10も歳下の男の子に。奏人が暁斗の気を紛らわせるためにこんな話を続けているのは分かっていた。

「奏人さん」

「はい」

「……ちょっと抱いててください」

 暁斗の要望に奏人はすぐに応えてくれた。暁斗の頭を胸に抱え込み、肩から背中に腕を回す。バスローブ越しに奏人の温もりが伝わってくると、思わず長いため息が出た。この子ともっと多くの時間や出来事を共有したい。

「仕事も忙しいんですよね、新入社員来たりしてるんでしょう?」

「新人の世話はそんなに苦にならないですよ」

「桂山さんらしい」

 奏人の声が耳をつけた場所から聴こえる。彼はどう思っているのだろう、また家に来てくれるのだろうか。……NGと承知の上で。

「桂山さんがそうしたいなら寝ちゃってもいいですよ、身も心も休まらなかったんですね」

 優しい声には暁斗を気遣う色が満ちている。

「……奏人さんは強いな」

「この間沢山泣いてすっきりしました、あれが無ければ今もグズグズしていたと思います」

 奏人は少し身体を離して暁斗の顔を見る。

「だから桂山さんが辛い時は僕があなたの光になります」

 光になる。これまでも奏人は暁斗の光だったと思う。これ以上、自分にどうしてくれるというのだろう。

「俺は……たぶんあなたに俺だけのものになって欲しいんだと思います」

 暁斗はこの1か月考え続けたことを口にした。奏人はえ、と小さく言って、黒い瞳に何らかの気持ちの揺らぎを見せた。

「俺もこんなの初めてだからよくわからないんです、ただ段々図々しくなってるのは分かっていて……」

 顔を見たい、触れたいから始まり、今や暁斗の奏人への想いは、もう二度とこの部屋から出したくないと考えるところにまで膨れ上がっている。

「でもあなたはずっと俺と一緒に居られる訳じゃないから……そのことが辛い、かな」

 こんなことを口にしてしまうくらい、暁斗は疲れていたし、また切羽詰まっていた。言っても、奏人を困らせるだけなのに。奏人はほんの僅かに口を開いて暁斗を見つめている。その子どもっぽい表情が、切なさを掻き立てた。思わず手を伸ばして彼の顔を引き寄せ、唇を塞ぐ。奏人は少し驚いたようだったが、抵抗しなかった。

 舌を押し込み、奏人のそれを求めた。絡め合うと、痺れるような快感が眠気を吹き飛ばす。奏人の顔じゅうに口づけを浴びせ、バスローブをはだける。白くて華奢な首や肩に舌先で触れると、奏人が微かに声を上げた。

「どこをどうして欲しいか……教えて」

 暁斗は頰をうっすら染め始めた腕の中の青年に尋ねて、先月もそうしたように、固くなった乳首に指で触れ、数度撫でた。

「あ……」

「気持ちいい?」

 暁斗は分かっているのに訊いてみる。奏人が小さく頷くと、愛おしさが溢れた。俺のものだ。暁斗は夢中でその突起を舐める。奏人が強い力で頭を抱いてきた。

「桂山さん、それ以上は……」

 奏人の困惑したような声は、暁斗を余計に昂らせる。どうしていけない、こんなに肌を熱くしているのに。暁斗の手はなめらかな肌の上を滑りながら、奏人の脚の間を目指す。

「桂山さん、だめ……僕が先にいっちゃう」

 いつも戯れの主導権を握っていた奏人が本気で焦った声で言うのを聞くと、意地悪な気持ちになった。暁斗は奏人にされたように、勃起し始めたものを強く握ってやった。奏人は身体をよじって声を上げた。

「だめですっ! 」

 のしかかった暁斗の上半身を押し退けようと奏人が腕を突っ張ったが、その腕を空いた手で掴んで組み伏せた。

「いいよ、先にいけばいい……いかせてみたい」

 奏人は火照った顔を、観念したように暁斗の肩に押し付けた。

「ほんとはだめなんですよ、僕が先に楽しんでしまうことになるから」

「あなたを先にいかせたがる客はいるんじゃないの?」

「もちろん要望されればお応えしますけれど」

「じゃあ要望する」

 暁斗はそっと手を動かした。それは熱を帯びていた。奏人が眉根を寄せる。我慢をするような表情が可愛らしく、欲情をさらに掻き立てた。白い喉元に唇をつけて吸う。

「ああ、あまり保たないかも……」

 奏人が喘ぎながらベッドの脇のテーブルに手を伸ばした。ちゃんとティッシュを用意しようとすることさえ、愛らしい。

「すみません、僕ほんとに普段……こんな風にさせないんです、その……あ」

 暁斗の手の動きが大きくなると、奏人の言葉が途切れた。暁斗は手を止めずに、奏人の頰に唇をつけ、耳たぶまで滑らせる。

「可愛い、今日はあなたのほうが俺のおもちゃだ」

「……仕返しなんですね」

「そうだ」

 他人のものをしごくなんて、もちろん初めての経験だったが、暁斗は奏人の反応を見ながら丁寧に手を動かし続ける。やがて奏人は声を上げながら暁斗に抱きついてきた。

「もう……だめ、いっていい?」

「いつでも」

 暁斗は左手でティッシュを取った。奏人は声を抑えるかのように暁斗の腕に唇を押し付けて、身体を震わせた。その背中を抱きとめる。暁斗は途轍もない満足感が身体中を包むのを感じた。奏人はくったりと暁斗に身を任せて、乱れた呼吸を整えようとしていた。

「あ……すごく気持ちよかった……」

 暁斗は奏人の小さな声に痺れるくらい嬉しくなった。なんて可愛らしいのだろう、自分の拙い愛撫にこんなに応え、昇りつめてくれるとは。

「ありがとうございます、すぐにお返ししますね」

 奏人はとろんとした目を暁斗に向けて言った。そして暁斗から名残惜しげに身体を離し、そのまま頭を下げる。暁斗のバスローブの腰紐をするりと解き、屹立したものを露わにすると、暁斗が身を引くより先にそれを口に含んだ。あっという間のことだった。背中に電撃が走る。

「あっ!」

 暁斗は叫んだ。奏人は容赦なくそれに舌を這わせ、吸う。猛烈な快感に暁斗の腰が浮いた。奏人を攻めている時から興奮を示していたそれは、すっかり奏人のおもちゃにされてしまう。暁斗は頭の中まで痺れてきたように感じた。

「奏人さん、もう……」

 暁斗がかずれた声で訴えると、奏人は咥えたまま上目遣いで暁斗を見た。目には笑いが滲んでいる。この可愛らしく小憎たらしい魔物。

 お返しをしっかり受けた暁斗はそれからすぐに奏人の口の中で果てた。気持ち良過ぎて、何も考えられない。視界の端で、こちらに背中を向けた奏人が、口の中のものをティッシュに吐き出しているらしいのが見えた。初めての日も、こんな風にそっと処理していたのだろうか。

「気持ちよかったですか?」

 テーブルに置いてあったペットボトルの水を少し口にしてから、奏人は身体を寄せてきた。暁斗は二度頷いた。よかった、と奏人は微笑する。

「桂山さん……あなたは僕にとって、その……うまく表現できないんだけど、特別なんです」

 暁斗は奏人をこわれものを扱うようにそっと抱き寄せ、驚いてその顔を見る。

「だから先月みたいにあなたのそばでゆっくりと一緒に過ごしたい、これは本当です」

 暁斗は嬉しくて叫びそうになる自分を押し留める。好みで、特別。奏人が自分をそう見なしてくれている。

「……でもNGだからそうしないと?」

 暁斗の問いに奏人はいえ、とかぶりを振った。ためらうように言葉を繰り出す。

「あなたから一切離れられなくなりそうで怖い、これまで僕が積み上げてきたものが全て崩れてしまいそうなのも怖い……」

 暁斗は顔を伏せる奏人がひどくか細く頼りなく思えた。

「俺にずっとくっついていてくれるのは歓迎だし……あなたの持つものを俺は否定したり奪ったりしないつもりだけれど……この仕事のこと?」

「この仕事は僕にとって大切なものだけど……あなたが嫌がる気持ちはわかります……」

 奏人が自分のために様々なことを考えてくれていることが嬉しい。しかし今の彼の様子を見ていると、苦しめているのだろうかという不安に苛まれる。

「誰でも変化は恐ろしいものだと思うんです、僕も今まで沢山の人にそう言って……一歩前に進むことをためらう人の背中を押してきました、でも……自分の身に起こるとこんなに……怖いものだなんて」

 奏人はらしくなく、言葉に迷っているようだった。あの子は本当は誰にも心を開かない、という神崎綾乃の声が脳裏に蘇る。明るくオープンな一面と、硬く厚い殻に閉じこもる一面。奏人はきっと手強い。心を開かせ、その深い部分にある柔らかく脆いものに触れる自信は、山中のちょっとした言葉に動揺するような今の自分には、ない。でも。

 暁斗は自分の腕に遠慮がちに置かれている奏人の手の甲に、反対側の手で触れた。その細くて長い指に、自分の指を絡めてみる。手を繋ぐという行為が、すぐにできそうで意外とそうではないことに気づく。そして案外心地良い。外回りが減った暁斗は、最近人と握手をしなくなっていた。人の手の平の感触が、安心感や相手への信頼感をもたらすものだということを思い出す。

「結論を急がないで」

「……でも桂山さん、僕を……」

「待つから、あなたがこうしたいと心から言えるようになるまで……もちろんそれが俺の望むものでなかったとしても構わない」

 奏人は意外に強い力で握り返してきた。

「桂山さんはよく分からなくて」

 言われた暁斗はえ? と訊き返す。

「基本的に分かりやすいんですよ、気持ちが割と顔に出るし何かと反応いいし……でもたまにあれって思わされるから」

 奏人の髪が頰をくすぐる。いつもの僅かに甘い香りがする。

「おかしいなあ、さっき会った時はあんなにしょげてたのになあって今も思ってます」

 暁斗は要するに単純なのだった。あんなにもやもやしていたのに、奏人の顔を見てその肌に触れると、すぐに何でもなくなってしまった。そのことに思い至り、やや決まり悪くなる。

 だから奏人は暁斗の光なのだった。奏人は、雨の後に厚く薄黒い雲の中から覗く遠慮がちな太陽、あるいは真っ暗な道を仄かに照らす下弦の月のようだ。決して力強い訳ではないが、そこに在って光を放っていると気づくと、安心してまだ前に進めると思わせてくれる。

「逆にこっちが慰められちゃったりして」

「……なら良かった、でもたぶん俺はあなたにその倍以上慰められてるんだけど」

 繋いだ手から心地良いものが流れ込んでくるようだった。眠気が暁斗にのしかかってくる。

「あっ、桂山さんまた寝ちゃう……もう一回できるのに」

 奏人が繋いだ手を軽く揺らした。まるで話をせがむ子どものようだ。

「そんな何回もいいよ、さっきは寝ていいって言ったのに」

「いいんですよ、でも1時間半も時間を取って1回だけなんて桂山さんだけです、もったいないかなと思って」

「みんな絶倫なんだなぁ」

 絶倫って、と奏人はくすくす笑う。耳に流れ込んでくる声が、いつの間にかこんなに馴染んだものになっている。

「アキちゃんは絶倫じゃないかもしれないけれどスケベだよね」

 瞼をほとんど落としている暁斗に、奏人は囁いた。アキちゃんって、と突っ込もうと思ったが、声が出てこなかった。

「僕を先にいかせたがる人なんて……ほんと久しぶり、良くってすぐいっちゃったけど」

 柔らかい感触が左の耳たぶを包む。あなたが大好き、と聞こえた気がした。満足したらすぐ寝ちゃうとこも、丁寧で優しい愛撫も、あとは……。幸せなまま意識が途切れる。奏人が大好きだ。明日も明後日も、朝目覚めたら彼が傍らで寝息を立ててくれていたらいいのに。

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