あきとかな ~恋とはどんなものかしら~

その営業課長が愛したのは、手技と言霊で男たちを搦め取る、魔物。
穂祥 舞
穂祥 舞

9月 2

公開日時: 2021年8月14日(土) 12:00
文字数:7,796

 暁斗は終業の時間をもどかしく待ち、1時間残業してすぐに奏人にLINEした。暁斗がJRに乗り品川を過ぎた辺りで、返事が来た。

「驚かせてごめんなさい、先月末綾乃さんといろいろ話して心が決まりました」

 大丈夫なのだろうか。暁斗は心配になっていた。あの仕事から離れるという気持ちが奏人の中で育っていたのは知っていた。その理由の一つが自分の存在であることも。それだけに、暁斗は自分に奏人のこれからに対する責任があると感じていた。

「後で電話で話せる?」

「これからおひとり予約が入っています、21時過ぎには家に戻れると思います」

 了解、というスタンプを送り、電車を降りて改札を出ると、鞄の中に小さな振動があった。

「会いたいです」

 奏人が送信して来た一言は、暁斗の気持ちを揺さぶった。複数の取引先を回る時のように、どう動くのがお互いにとり合理的なのか考える。答えはすぐに出た。

「もう家に戻るのでこちらが神楽坂まで行きます」

 一度そこまで打ち込み送信してから、強引だったかと感じた。追伸する。

「奏人さんがいいのなら」

 マンションに着くと、返事があった。

「わかりました、着替えが無いのでお泊まりセットご持参ください。お待ちしています」

 ありがとうございます、というスタンプが後に続いていた。暁斗は慌てる必要も無いのに、エレベーターから降りると早足で自分の部屋を目指した。胸がどきどきしているのは、明らかにときめきからだった。

 

 シャワーを浴びている間に、会社のスマートフォンに着信があった。髪をバスタオルで拭きながら折り返すと岸が出たので、暁斗は思わず背筋を伸ばした。

「上がった後に悪いな、明後日の11時から何社か新聞を呼んで相談室の発表をするぞ」

 想定外の話にえ? と高い声が出た。

「出られそうなら出てくれ、座っているだけでいい」

「随分急ぐんですね」

「企画課が産学連携の例のプロジェクトを発表するからそのついでだ、大学側がやっとゴーサインを出してくれた」

 今日急いで会議室を去った山中の後ろ姿を思い出した。彼もしばらく忙しいだろう。新商品の発表にもなるだろうから、これからの営業の業務にも関わってくる。女性の従業員が多いベンチャー企業が主なターゲットだと山中から聞いているので、久々に1課は新規開拓の案件を持つことになりそうだ。

 しばし脳内を仕事モードにしてしまったが、電話を切ると暁斗は着替えを用意し始めた。明日は外回りもあるので、着る物をちゃんと選ばないといけない。ああ、母から送ってきた北海道フェアの食料品も持っていってやろう。暁斗は遠足の準備をする小学生のように、わくわくしている自分にひとり苦笑した。

 

 確かに大森と神楽坂は行き来しにくいと思いながら、暁斗は紙袋を2つ手に提げて、ようやくメトロに乗り換える。ラッシュのピークは過ぎていたが、まだまだ帰宅者で電車は混雑していて、軽装の自分に違和感を覚えるくらいである。

 神楽坂の改札を出て指示された出口の階段を上がると、奏人が右手から姿を現し、笑顔でこんばんは、と言った。暁斗の胸の中に暖かいものが溢れて、我知らず顔がほころぶ。

「急に会いたいなんて言ってごめんなさい」

 奏人は暁斗の持つ紙袋を受け取りながら謝った。

「こっちこそ急に行くなんて言って……」

 きっと奏人が仕事の合間にばたばたと片付けをしたと思い、申し訳なく思った。

「いえ、考えもしなかったからびっくりしたけど……嬉しいかも」

 奏人は大森よりも落ち着いた佇まいの道を進んだ。小洒落た小さな店が並び、良いところだなと暁斗は思う。

「食事は? 用意出来ますし店もありますよ」

「軽く食べて来たけど食べてないなら付き合うよ」

 暁斗は奏人が副業を済ませたばかりだということに思い至る。何か買って持って来るべきだったと思った。奏人はじゃあ、と言って、教会を過ぎたところにある小さな惣菜屋のドアを押した。コロッケをパック詰めしていた女性の挨拶に、奏人はこんばんは、と気楽に返す。この時間にまだ開いているのかと少し驚いた。奏人はパックされたサラダと、野菜のあんがかかった魚のフライを選び、手早く会計を済ませる。暁斗が特に好き嫌いが無いのを知っているので、何も訊いて来ないという慣れた振る舞いが、少しくすぐったい。店を出ながら奏人が言う。

「美味しいんですよ、手作りで」

 道を曲がり、住宅街に入る。奏人が手一杯になっているのが気になり、暁斗が自分の着替えが入った紙袋を持とうとすると、するりと長い指が暁斗の指に絡まってきた。おぼこい高校生のようにどきどきしながら、暁斗は紙袋を左手に持ちかえて、奏人の指を右手で捕える。誰も歩いていない夜道で、密やかにお互いの存在を確かめ合っている自分たちを、下弦の細い月だけがそっと見ているような気がした。

 奏人の暮らす小さなマンションはエレベーターも無い3階建てで、奏人は2階の角部屋の扉を開けて、暁斗を先に入れた。他人の自宅にお邪魔するという行為がここ久しく無かったため、何となく緊張する。

「汚くてびっくりしますよ」

 奏人が明かりを入れると、広々とした部屋のほとんどの壁面に本が並ぶのが目に入った。ベランダ側の片隅に立つイーゼルの足元には画材、テーブルの上にはデスクトップのパソコン。あまり暁斗が目にしたことのない光景だった。右手を覗きこむと、キッチンがある。自炊をする人の台所らしく、片付いてはいるけれど細かな物の多さに生活感があった。

「暁斗さん、銭湯に行かない?」

 奏人は北海道のお菓子を出そうとしている暁斗に言った。

「えっ、シャワー浴びてきたけど」

「来るまでに汗かいたでしょ? お風呂行ってからビール飲んでご飯にしようよ、ご飯がまだ炊けてないから……」

 確かに、炊飯器はまだ細く湯気を出し始めたばかりのようである。奏人は買ってきたサラダを冷蔵庫に収めた。

「いかにもパジャマでなければ寝る格好で行き来しても大丈夫だよ」

「うん、わかった」

 目指す銭湯は歩いて3分ほどの場所に、突然現れた。そこだけが明るく、見知らぬ道を歩いていたからか、少しほっとする。

「こんばんは、ギリギリにごめんなさい」

 奏人は暖簾をくぐり、番台に座る初老の女性に声をかけた。女性はあら、全然大丈夫よ、と気安く言う。

「お連れさまと来るなんて初めてじゃない?」

 言われて暁斗はやや困惑したが、奏人はさらりとごまかす。

「こっちの親戚なんです、血の繋がりがないくらい遠縁なんだけど……たまに僕の生活態度を気にして見に来てくれるから誘ってみました」

 番台の女性はあらそうなの、と笑顔で応じる。暁斗は奏人がこの土地でこんな風に気安く語らえる人を持っていることに驚いた。

「この子がお世話になってます」

 暁斗は奏人に話を合わせる。こっちこそ贔屓にしてもらってるんですよ、と彼女は笑った。時間が遅いので、他に客はいない様子だった。奏人は閉店に間に合えば来るのだと言った。

 暁斗はまだまだ先のことになるだろうと思っていた、奏人の背中を流してやるという約束を果たすことができた。全身を包む温もりの中、背筋の伸びた白い背中に優しくタオルを当てると、楽しい気分になる。奏人がほっとしたように息をつくのを聞き、じわりと愛おしさが湧いた。

「いいね、広々として」

「でしょ? めちゃくちゃ気に入ってて……大森にもありそうだけど」

「探してみようかな」

 声が響き、湯煙に包まれるのも心地良い。奏人の指先までタオルで洗ってから丁寧に石鹸を流すと、奏人が背中側に回ってきた。

「暁斗さんスタッフに向いてると思うなあ、やっぱり」

「だから奏人さん以外にはしたくないって」

「もったいない、こんなところに貴重な人材が……」

 柔らかいタオルが背中に触れた。2時間も経たないうちにもう一度風呂に入ることになるとは思わなかったが、奏人の洗い方はやはり心地良かった。身体を洗い終わると、富士山が描かれたタイル絵を見ながら、広い浴槽に並んで身体を沈めた。

「気持ちいいなぁ……」

 暁斗は思わず言った。隣で奏人がくすくす笑う。

「僕の家は快適じゃないからせめて今はのんびりして」

「……俺は奏人さんがいれば何処だって楽しいし心地良いよ、たぶん」

 暁斗の言葉に奏人はふわりと微笑んだ。頬がピンク色に染まっているのは、お湯のせいだけではないのかも知れない。暁斗はさっきから感じていたことを伝えた。

「ディレット・マルティールをほんとに辞めるんだね、……何だかさばさばした顔をしてる」

 奏人は小さく頷いた。

「もっと不安で悲しくなるかなと思ったけれど……あ、もちろん馴染みのお客様ともう会えなくなるのは悲しいよ、でも何て言うのかな、次の場所に進むことができるんだという気持ちが強くて」

 暁斗は奏人の言葉を頼もしく感じる。本当の意味で彼は「かなと」を卒業するのだ。男たちのファンタジーの中で生きる美しい魔物の姿を脱ぎ捨て、高崎奏人という一人の青年として歩き出すために。

「暁斗さんのおかげだよ」

「俺は関係ないよ、あなたの中で何かが変わろうとする時なんだ、誰にでもそういう時期が人生に数度訪れる……俺はそこに居合わせてるだけだ」

 暁斗は本当の気持ちを口にしたが、奏人は不満気に唇を尖らせた。

「何それ、関係ない訳ないじゃん、俺だけのものになって欲しいなんて言ったの誰だよ」

 奏人の様子が可愛らしくて悶えそうになる。暁斗は平凡な自分がこの才能豊かな化け物に影響を与えたとは思えなかったが、自分だけのものになろうとしてくれていることは、素直に嬉しかった。

「ちゃんと勉強して僕が本当になりたいものになる準備ができたら……暁斗さんの横にしっかり並んで一緒に歩くんだ」

 奏人は澄んだ目をきらきらさせていた。彼が自分にこんな顔を見せてくれることに、胸が熱くなる。ここが公共浴場でなければ、抱きしめてキスしたいところだ。

「牛乳売ってたよな、上がったら飲もうか」

 暁斗が言うと、奏人はいかにも可笑しそうに応じた。

「それってディズニーランドでポップコーン買うのと似てるよね、銭湯っていうテーマパークの定番的な」

「確かに家で風呂上がりに牛乳ってほとんど飲まないなぁ」

 笑いながら湯から上がり、掛け湯をする。奏人が風呂桶をすすいで風呂椅子にうつ伏せて置くのを真似して、脱衣所に出た。二人で旅行に来たような非日常感に、暁斗は酔っていた。

 

「牛乳欲しいんですけど、飲んで帰って時間大丈夫?」

 暁斗は手早く服を着て、番台の女性に声をかけた。彼女はよく冷えた瓶を2本出しながら言う。

「さっき女湯にいらっしゃったからゆっくりしていただいて大丈夫ですよ」

「ありがとう」

 籐の椅子に座って、暁斗が先に瓶の蓋を開けて牛乳に口をつけていると、奏人があっ、と言いながら暖簾をくぐってきた。

「髪くらい乾かしてから出てきてよ、風邪ひくよ」

「そんな寒くないよ、はい牛乳」

「ほんとに買うと思わなかった」

 奏人は暁斗の横に座って、牛乳を飲み始めた。番台の女性が微笑ましげにこちらを見ている。

「美味しい」

「次はコーヒー牛乳にしよう」

 二人して瓶を空け、荷物を抱えて入り口に向かうと、番台の女性が瓶を受け取りながら言う。

「仲良しなのね、近いきょうだいみたい」

「ふふふ、だって恋人みたいなものだもの」

 奏人の軽口に彼女は笑った。奏人の言葉が事実だと知れば彼女がどんな反応をするか分からないが、少なくとも今は楽しかった。おやすみなさい、とお互いに言いながら外に出た。来た時よりも少し冷たい空気や虫の声が、肌と耳に心地良かった。

 

 奏人の部屋に戻り、彼の遅い夕食に付き合いながら、暁斗は彼が自分で言う通りに活字中毒であることを実感した。本棚に立てかけてあった小さなテーブルが食卓となり、座布団に座って食事をしたが、本に囲まれて飲み食いするのは少し妙な気分だった。

「今首都直下型地震が来たら僕たち2人とも本棚の下敷きになって死亡だから」

 奏人は魚のフライに箸を入れながら笑った。やめて、と暁斗は突っ込む。

「突っ張り棒つけたら即死はないかも知れないからつけようよ」

 暁斗は真面目に言ってから、サラダを口に入れる。惣菜はどれも美味しかった。1本のビールを分けて飲んだが、これもよく冷えて美味しい。

「そうだね、でも何本要るかなあ……あ、暁斗さん、あのお菓子といかめしは?」

 奏人に訊かれて、暁斗は乃里子から送ってきた話をした。奏人は嬉しそうな顔になった。

「僕が北海道だから? お母様によろしく伝えて、感激した」

「そう言ったらきっと喜ぶよ」

 今や何処ででも買えそうなもろこしチョコレートや真空パックのいかめしを、北海道出身の人間に送る乃里子のやや抜けた好意を、素直に喜んでくれる奏人に感謝した。

「晴夏さんは連絡くれる?」

「いや、元々そんなにしょっちゅうやり取りはしてないから……」

 自分より奏人がきょうだい仲を心配しているので、申し訳なかった。暁斗は本当なら晴夏の下にもう1人きょうだいがいた筈だった話を奏人にした。

「その子が生きてたらあなたの年齢になるんだ、俺すっかりその子のこと忘れてたんだけど」

「そう……さっき銭湯のお母さん、近いきょうだいみたいだって言ってくれたね、何か示唆がある感じがする」

 奏人は他愛ない話をしていても、こんな風に思索に結びつける傾向があり、よくそれを変がられるらしかった。奏人の専攻は哲学なので、そういうものなのだろうと暁斗は思っている。それに考え始めた奏人はとても良い顔をする。ベッドの中で戯れている時には姿を隠している、他人を寄せつけない精錬された知性のようなものが表情を彩り、暁斗はその侵しがたさにひれ伏したくなってぞくぞくするのだ。

「あ、ごめんなさい」

 奏人は自分の顔に暁斗が見惚れているとも思わず、ぼんやりしたことを謝った。暁斗はそんな奏人にいつも心の何処かを持って行かれるような気がする。奏人は箸を止めて、暁斗がやや呆けた顔になっているのに気づき、2、3度瞬きして笑う。犬みたいだと思われているのだろうなと、暁斗は思う。

「えっとね、プライベートで暁斗さんと会うことを、綾乃さんに月一一泊って許可をもらった」

 奏人は報告した。暁斗は思わずえ、と声を出す。

「だから暁斗さんが予約を取って僕に会うのは再来週が最後だよ、でももしスタッフの誰かにバレたりしたら……12月までこんな風に会えなくなるんだけど」

 暁斗は神崎綾乃がそんな甘い条件で、トップスタッフのわがままを許したと聞き、俄かに信じられない思いになった。

「何にしてもルール違反だからちょっと心苦しいんだけど……でも暁斗さんに会うことと天秤にかけると」

 奏人は微苦笑して少し俯いた。神崎は止めても彼が聞く耳を持たないと判断したのだろうか。暁斗の知る限り、奏人は自分の欲望に任せて平気でルールを破る人間ではない。神崎も分かっているだろうに。

「神崎さんに申し訳ないね、筋違いのような気がするけど謝っておこうかな」

「謝らなくてもいいんだよ、綾乃さんはその代わりにあなたに僕を委ねるつもりなんだから」

 奏人は暁斗と目を合わせずに話した。そして箸と茶碗をテーブルに置いて、暁斗に頭を下げた。

「世話をかけるけれどよろしくお願いします」

「奏人さん……」

 暁斗は逆プロポーズのようなシチュエーションに、ビールのせいでなく顔が熱くなった。グラスを置いて思わず座り直す。そして奏人の覚悟を感じ取った。長い間居場所であり収入源だったディレット・マルティールから離れ、自分の本当の道を進み、暁斗と生きていくための。

「奏人さん、頭を上げて……それはこっちの台詞だ、俺のほうこそ……」

 暁斗はどぎまぎして奏人の両肩にそっと手を置いた。奏人は倒れかかるようにして、こつんと頭を暁斗の左肩に当てた。抱いていいのか。暁斗は自分でも可笑しくなるくらいおろおろして、奏人の肩から手を離し、かわりにその細い背中に腕を回した。

「ほんとはまだ怖いんだ、だから僕を支えていて」

 奏人の小さな訴えに、暁斗はうん、とはっきり答えた。細いうなじと肩は、本当に心細げだった。

「黙っておこうと思ったんだけど……これから年末まで出来る限り沢山のお客様に感謝を伝えてから辞めたいんだ、暁斗さんのために土曜の夜10時以降と日曜は空けておくから……許して欲しい」

 暁斗は小さく笑った。駄目だと言える筈もないと分かっているだろうに。

「承知した、あなたが誰と会ってるのか考えないようにする、くれぐれも身体を壊さないように」

「……ごめんなさい、ありがとう」

 奏人は暁斗の背中に両手で触れた。彼が愛おしくて胸がいっぱいになる。同時に、愛おしく思うだけでは彼に何もしてやれないのだと覚悟を決める。

「気の済むようにすればいい、俺が口を出すことじゃないだろうから」

 留学を考えていることは、この間聞いた。最低2年という話に少し怯んだが、奏人のためなら待つことが出来ると思う。それが暁斗の覚悟だった。

「奏人さん、新しい道を歩く準備が整ってあなたが少し落ち着いたら……」

 少し先走り過ぎだろうか。思いつつも、ここのところずっと考えていたことを、暁斗は腕の中の愛しいひとに言う。

「一緒に暮らそう」

 奏人は顔を跳ね上げた。目を見開き、驚きを満面に浮かべる。その目にしっかりと視線を合わせた。

「その準備をして待つよ」

 暁斗は言葉を失っているらしい奏人にゆっくり言った。奏人はみるみるうちに頬を染めて、あ、とらしくなく戸惑った声を発した。

彼の表情の変化が面白くて見つめていると、黒い大きな瞳にこんもりと澄んだ水が湧いてきた。大粒の涙がこぼれ落ちる。暁斗は奏人の反応に戸惑った……まさか泣くとは思わなかった。こんな言葉を誰かにかけるのは、暁斗は初めてではない。蓉子に結婚しようか、と言った時も、どきどきしながら彼女の手を取った。ただ、長めの交際の後に流れで出た言葉だったし、蓉子も笑顔になったが涙は見せなかった。

「……もういつ死んでもいい、嬉しい」

 奏人の言葉があまりに理性的でなかったので、暁斗は少し笑って彼の涙を指で拭う。

「すぐ死んだら駄目だ、面倒くさい思い出を沢山作るんだから」

 暁斗が言うと、奏人はますます顔を赤くして、涙をとめどなくこぼしながらアキちゃん、と呟いた。犬じゃないぞと言いたくなり、笑う。

「うう、僕いづもだいでばっがり……」

 奏人が鼻を詰まらせながら話すのが可笑しくて愛おしい。暁斗がテーブルの上に置かれたティッシュの箱から数枚取り、奏人に渡すと、彼は迷わず鼻をかんだ。

「嬉しくても涙って出るんだね」

「初体験?」

 うん、と奏人は小さく頷いた。暁斗は彼の髪を撫でながら、俺の可愛いひと、と胸の内で呼びかける。きっと今夜のことはずっと忘れない。ひっそりと営業する銭湯に行ったこと。難しそうな本に囲まれ、イーゼルと2台のパソコンに見守られて、鯵のフライとセロリの入ったサラダを食べたこと。そして、奏人と一緒に歩いて行くための話をしたこと。奏人がきれいな涙を流したこと。

「美味しかったね、すぐ片づけるからテレビ見てて……お母様からいただいたもの何か食べようか、ハイボール作るから」

 奏人は落ち着くと、照れ隠しのように、そそくさとテーブルの上の食器を重ね始めた。パソコンの置いてあるデスクの上の時計は、22時25分を指していた。まだ食べるのかと暁斗はくすりと笑う。奏人は母と上手くやっていけるだろうと思った。

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